私、花嫁をやめます

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結婚式を翌日に控えた夜の食事会。何気なく眺めていたSNSで、カップル向けの質問企画が目に留まった。 【もし相手が私じゃなかったら、誰と結婚したい?】 私、瀬尾紗英(せお さえ)は笑いながら、婚約者の早瀬拓真(はやせ たくま)に訊いてみた。 彼はためらう素振りすら見せなかった。 「莉緒かな」 瀬尾莉緒(せお りお)。私の、実の妹だ。 すかさず親友が話に乗ってきた。 「でもさ、拓真くんのこと一番わかってるのって、正直莉緒ちゃんだよね。あんたたちが喧嘩するたびに、朝まで拓真くんの話に付き合ってあげてるのも莉緒ちゃんだし」 莉緒は身を乗り出し、じゃれつくように彼の胸を軽く叩いた。 「お姉ちゃん、自分の婚約者くらいしっかり捕まえといてよね。いつまでもあたしに気があるんじゃ困っちゃう」 テーブルがどっと沸いた。 母の瀬尾真由美(せお まゆみ)も、呆れ半分におかしそうに笑った。 「ただの冗談じゃないの。それに莉緒は、あんたみたいに文句ばっかり言わないしね。拓真くんが莉緒を気に入るのも無理ないわ」 拓真がちらりとこちらを見た。 「冗談だって。なんだよ、また冗談も通じないのか?」 私は何も言わなかった。視線を落とし、ウェディングプランナーから届いたばかりの最終確認書を見つめる。 ドレスも、ブーケも、BGMも、料理も。何ひとつ例外なく、莉緒の好みで選ばれていた。 この結婚式で、最初から最後まで私のものだったのは、新婦の欄に書かれた名前だけ。 花嫁が誰でもいいのなら、こんな式を挙げる意味なんて、どこにもない。

Chapters (1)

第1章

結婚式を翌日に控えた夜の食事会。何気なく眺めていたSNSで、カップル向けの質問企画が目に留まった。 【もし相手が私じゃなかったら、誰と結婚したい?】 私、瀬尾紗英(せお さえ)は笑いながら、婚約者の早瀬拓真(はやせ たくま)に訊いてみた。 彼はためらう素振りすら見せなかった。 「莉緒かな」 瀬尾莉緒(せお りお)。私の、実の妹だ。 すかさず親友が話に乗ってきた。 「でもさ、拓真くんのこと一番わかってるのって、正直莉緒ちゃんだよね。あんたたちが喧嘩するたびに、朝まで拓真くんの話に付き合ってあげてるのも莉緒ちゃんだし」 莉緒は身を乗り出し、じゃれつくように彼の胸を軽く叩いた。 「お姉ちゃん、自分の婚約者くらいしっかり捕まえといてよね。いつまでもあたしに気があるんじゃ困っちゃう」 テーブルがどっと沸いた。 母の瀬尾真由美(せお まゆみ)も、呆れ半分におかしそうに笑った。 「ただの冗談じゃないの。それに莉緒は、あんたみたいに文句ばっかり言わないしね。拓真くんが莉緒を気に入るのも無理ないわ」 拓真がちらりとこちらを見た。 「冗談だって。なんだよ、また冗談も通じないのか?」 私は何も言わなかった。視線を落とし、ウェディングプランナーから届いたばかりの最終確認書を見つめる。 ドレスも、ブーケも、BGMも、料理も。何ひとつ例外なく、莉緒の好みで選ばれていた。 この結婚式で、最初から最後まで私のものだったのは、新婦の欄に書かれた名前だけ。 花嫁が誰でもいいのなら、こんな式を挙げる意味なんて、どこにもない。 第1話 個室を出た途端、ウェディングプランナーから電話が入った。 「瀬尾紗英様、ドレスのウエストですが、予定どおり3センチほど出すお直しでよろしいでしょうか?」 私は思わず足を止めた。 「サイズは、前と変わっていませんけど」 電話の向こうに、一瞬の沈黙が落ちた。 「妹様の瀬尾莉緒様から、挙式のあと披露宴用のドレスとしてお召しになるので、今のままでは少し窮屈かもしれない、と伺っておりまして……」 スマホを握る指先に、ぎゅっと力がこもる。 「私のドレスを妹が着ていいなんて、誰が言ったんですか」 「早瀬拓真様です。姉妹なんだから、そんなに細かいことは気にしなくていいと……」 そのとき個室のドアが開き、拓真が出てきた。彼は何も言わず、自分のジャケットを私の肩にふわりとかける。 拓真は、私が寒がっていることにいつも真っ先に気づく人だった。私がヒールを履く日には、決まって車にぺたんこの靴を1足忍ばせておいてくれる。 以前の私は、そういうささやかな気遣いこそが愛されている証拠なのだと信じていた。 でも、今ならわかる。彼は私を大事にしてくれるけれど、それと同じくらい当たり前に、私を飛び越えて物事を決めてしまうのだ。 「どうしてドレスが、莉緒のサイズに直されてるの?」 拓真は不機嫌そうに眉を寄せた。 「挙式のあと、一度着るだけだろ。頼んでたドレスが間に合わなくなったんだってさ。披露宴に着ていくものがないんじゃ、かわいそうだろ」 「あれは、私のウェディングドレスよ」 「紗英。莉緒はお前の妹なんだぞ。そんなわがまま言うなよ」 まただ。 子どもの頃、大切にしていたオルゴールを莉緒に壊されたときも、母は「妹なんだから」と言った。 高校卒業のとき、ずっと楽しみにしていた卒業旅行が莉緒の合宿の都合で潰れたときも、父の瀬尾博之(せお ひろゆき)は同じ言葉を口にした。 みんな、口を揃えて私に我慢しろと言う。 莉緒が妹だというただそれだけで、私の持っているものは何もかも、当然のように半分は莉緒のものになってしまう。 「どうして、先に私へ訊いてくれなかったの?」 「お前なら、いいって言うと思ったから」 「どうして私が、いいって言うと思ったの?」 拓真はしばらく口をつぐんだ。 「……莉緒、もう友達に言っちゃってるんだよ」 ああ、そういうことか。彼は私の気持ちを確かめに来たのではない。すでに決まったことを、ただ知らせに来ただけなのだ。 両親も、家族も、婚約者でさえも、どうしてみんな私より莉緒を優先するのだろう。私にはどうしてもわからなかった。 手の中でスマホが震えた。母からのメッセージだ。披露宴の料理の試食をするからふたりで帰ってきなさい、とある。 行かないと返すと、すぐさま着信音が鳴り響いた。 「式まであと何日もないっていうのに、今度は何を拗ねてるの?」 「披露宴のメニュー、莉緒の好きなものばっかりじゃない。私が行く必要ある?」 「あんたは仕事で忙しいんだから、妹が手伝ってくれて何が悪いのよ」 「海老のビスクも、マンゴーのムースも、私は食べられないのに」 母は一瞬、言葉に詰まった。 「料理なんて何品もあるんだから、ふたつくらい食べられなくたって、お腹が空いて死ぬわけじゃないでしょう」 「でも、私の披露宴なのよ。私の好みを一番に考えてくれてもいいじゃない」 「あんたは昔から何でも手に入れてきたでしょう。莉緒はあんたのためにあちこち走り回ってくれてるのに、好きな料理をいくつか選ばせてあげることもできないの?」 乾いた笑いが漏れた。 莉緒が私から何かを奪うたび、それはいつの間にか、莉緒の健気な苦労話にすり替わってしまう。 そして私が首を横に振れば、それはそのまま、私が面倒で薄情な人間だという証拠にされるのだ。 拓真が私の手からスマホを取り上げた。 「大丈夫です、ちゃんと連れて帰りますから」 通話を切ると、彼は私の頭をくしゃりと撫でた。 「いい子にしてろって。食事が終わったら、苺のショートケーキ買ってやるから」 6年前、私がコンクールに出すはずだった作品を莉緒がなくしたときも、彼はこうして私をなだめた。 雨の中をケーキを買って戻ってきて、「莉緒はまだ子どもなんだからさ。その分、俺が埋め合わせするから」と言ったのだ。 それ以来、莉緒が私から何かを奪うたびに、拓真はちょっとした埋め合わせを差し出しては、私が悔しさを飲み込むのを当たり前のように待つようになった。 「拓真、ケーキなんていらない」 彼は、きょとんと目を瞬かせた。 私はジャケットを肩から外して彼に返し、エレベーターに乗り込んだ。 扉が閉まりかけたその瞬間、隙間に彼の手が差し込まれる。 私は胸の内でため息をついた。ふいに、何もかもがどうしようもなく虚しくなった。 「紗英、もういい大人なんだからさ。どこに行っても揉め事を起こすのはやめてくれよ」 扉に挟まれ、赤くなった彼の手を見つめて、私は「開」のボタンを押した。 拓真が安堵したように小さく息を吐く。また私が折れたと思ったのだろう。 けれど私は1歩、また1歩と後ろへ下がり、エレベーターの奥の壁に背中をつけた。 「ひとつだけ、言っておきたかったの。苺のショートケーキが好きなのは、莉緒よ。私が好きなのは、ビターチョコレート」 エレベーターの扉が、音もなく閉じていく。 その向こうで立ち尽くしたまま、拓真は初めて、私を追いかけてこなかった。 第2話 翌日、母は家に代々受け継がれてきたアンティークのエメラルドのブレスレットを、私の会社まで届けてきた。 箱を開けると、中に修理伝票が1枚入っていた。 留め金の部分には、直したばかりの不自然なろう付けの跡が残っている。 「……これ、どうしたの?」 母はすっと目を逸らした。 「莉緒がつけてみたら外れなくなっちゃってね。切って外すしかなかったのよ」 このブレスレットは、祖母が遺してくれたものだ。 亡くなる間際、祖母は私の手を握って、結婚式の日にこれをつけた姿を見たいと言ってくれた。 その願いは叶わなかった。そしてこのエメラルドのブレスレットが、祖母から受け取った最後の贈り物になった。 「誰が莉緒に触らせたの?」 「ちょっとつけさせてみたかっただけよ。まさか、あんたの手首があんなに細いとは思わなかったの」 母は、真新しいエメラルドのブレスレットを私の前に押しやった。 「拓真くんが今朝買ってきてくれたのよ。前のよりずっと重くて立派なんだから。古い物より、新しい物の方が縁起がいいじゃない」 「これとあれが、本当に同じだと思ってるの?」 「たかがアクセサリーじゃないの」 「だったら、どうしてお母さんのブレスレットを切らなかったのよ!」 母の表情がこわばった。 「あんた、結婚を控えてるっていうのに、どうしてそんなにヒステリックなのよ!」 同僚たちの視線が、こちらに集まっていた。 職場で言い争いをしたくなくて、私は黙って箱の蓋を閉じた。 けれど母は、私の腕をつかんで離さなかった。 「莉緒ね、インターン先から内定をもらえなかったのよ。あんたの会社、湊南支社でリーシング担当のポジションが空いてるんでしょう?上の人に口を利いて、莉緒を推薦してあげてちょうだい」 それは、私が半年かけてつかみ取ったポストだった。 先週、部長から、湊南に異動する気があるなら任せたいと言われたばかりだ。 私は結婚の準備があるし、拓真に遠距離恋愛は嫌だと言われて、泣く泣くその話を断った。 そのチャンスを、今度は莉緒に渡せというのだ。 「莉緒は美術専攻でしょう。商業施設のリーシングなんて、完全に畑違いじゃない」 「最初から何でもできる人なんていないわよ。あんたが教えてあげればいいじゃない」 「そもそも会社のポストは私の私物じゃないわ。応募したいなら、莉緒が自分でエントリーシートを出せばいいでしょう」 「結局、あんたは助けたくないだけなのよ!」 母が声を荒らげた。 「莉緒はあんたみたいに、すぐにいい就職先が見つかるわけじゃないのよ。何をやってもうまくいかないの。ちょっと手を貸してあげるくらい、そんなに大変なこと?」 「私の仕事だって、誰かにもらったものじゃないわ」 ちょうどそこへ、拓真が近くまで来たからと、ランチを差し入れにやってきた。 慣れた手つきでお弁当の蓋を開け、箸を私の手元に置く。 「胃の調子が悪いって言ってただろ。消化にいいもの買ってきたから、食べなよ」 母はすぐさま、彼に一部始終を話して聞かせた。 黙って聞いていた拓真は、やがて口を開いた。 「確かに、莉緒に商業施設のリーシングは向いてないですね」 今回ばかりは、彼も私の味方をしてくれるのだと期待した。 けれど彼は続けた。 「黒木延(くろき のぶ)さんのギャラリーで運営スタッフを募集してるんです。俺から口を利いておきますよ」 母はようやく満足げに頷いた。 「ほらね。拓真くんはいつだって何とかしてくれるんだから」 私は彼を見つめた。 「先月、私が黒木さんのギャラリーで副業したいって言ったとき、あなたは何て言った? あの人は仕事に厳しいから、コネなんかに頼るなって言ったわよね」 「お前はもう正社員で働いてるんだから、無理する必要ないだろ。莉緒は今、収入がないんだ。状況が違うんだよ」 「莉緒は収入がないからコネを使ってもいい。私は仕事があるから、挑戦することすら許されないってわけ?」 彼の口調は穏やかなままだったが、その目の奥に苛立ちがちらついた。 「それとこれとは話が別だろ。俺は問題を解決しようとしてるんだ」 そうだ。彼はいつだって、問題を解決してくれる。 ただ、そのたびに片付けられる「問題」は、決まって私の気持ちだった。 その日の午後、莉緒から内定の報告が届いた。 拓真がわざわざ付き添って延に会わせてくれて、ギャラリーのスタッフみんなに食事までご馳走してくれたのだという。 添えられた写真の中で、ふたりは肩が触れそうなほど寄り添っていた。拓真のネクタイは、少し歪んで結ばれている。 その結び目には見覚えがあった。 莉緒ができるネクタイの結び方は、昔からひとつだけなのだ。 17時半、拓真からメッセージが来た。 【今夜は取引先と会食だから、夕飯は先に済ませておいて】 18時。私はギャラリーの前を通りかかった。 そこには、しゃがみ込み、靴擦れで赤く剥けた莉緒の踵に薬を塗ってやっている拓真の姿があった。 使っている軟膏は、私がいつも使っているものと同じだった。 お前が靴擦れしたときのために車に常備してある、と彼は言っていたはずだ。 先に私に気づいたのは莉緒だった。彼女は拓真の肩にそっと手を置く。 「お姉ちゃん、誤解しないでね。拓真くん、あたしが初日から遅刻しないか心配してくれただけなの」 拓真が立ち上がった。 「足を怪我してたんだ。放っておけないだろ」 彼は軟膏をしまうと、今になってようやく私の存在を思い出したかのように言った。 「まだ胃が痛むのか?」 私は首を横に振った。 本当は、午後の間ずっと痛み続けていた。 けれどそのときの私には、それを彼に伝える気力さえ残っていなかった。 第3話 結婚式まであと10日となった日は、父の誕生日だった。 私は前もって個室を予約し、父が数か月も前から欲しがっていた高級な釣り竿を買っておいた。 ところが店に着いてみると、直前になって店が変更されたと知らされた。 家族のLINEグループには、一言の連絡も入っていなかった。 母に電話すると、あっけらかんとした声が返ってきた。 「莉緒がお寿司がいいって言うから、お店変えたのよ。場所なら拓真くんが知ってるから、訊いてみて」 つまり、みんな知っていたのだ。 私以外の、全員が…… 外は土砂降りだった。傘を持っていなかった私は、店の軒先で迎えを待つしかなかった。 先に電話をかけてきたのは拓真だった。 「今どこ?」 「最初のお店の前」 「グループLINEに新しい店の場所、送られてなかったか?」 「誰も何も送ってこなかったわ」 彼は少し黙った。 「みんなうっかりしてたんだろ。そこで待ってろ、迎えに行くから」 20分後、車が路肩に停まった。 助手席には莉緒が座っていた。 助手席はいつも私が座っていた場所なのに、今は莉緒に取られていた。それどころか、後部座席には額装された絵がぎっしりと積まれていた。 拓真が後ろのドアを開けてくれた。 「莉緒って、後ろの席だと車酔いするって言うからさ」 私はキャンバスや額縁の隙間に、無理やり体をねじ込んだ。膝に木枠の角が食い込む。 拓真が急ブレーキをかけた拍子に、額縁が勢いよく私のすねにぶつかった。思わず息を呑む。 拓真がバックミラー越しにこちらを見た。 「大丈夫か?」 莉緒は私より先に、額縁へと手を伸ばしてかばった。 「気をつけてよ、お姉ちゃん。それ、あたしがギャラリーで初めて担当する大事な作品なんだから」 拓真の視線は、青ざめた私の顔からすっと離れていった。 「気をつけろよ。傷つけるなよ」 私はうつむいた。 すねの皮膚は擦り剥け、血が足首のほうへと伝い落ちていた。 食事の席で、私が持ってきた釣り竿は部屋の隅に追いやられた。 莉緒が贈ったマフラーを、父はその場で首に巻き、気が利くなと彼女を褒めた。 「お姉ちゃんのプレゼントは高価だけど、あたしのは毎日使えるものだから」 莉緒はにこにことお酌をしながら言った。 母もすかさず相槌を打つ。 「紗英はすぐお金で済ませようとするんだから。昔から、莉緒みたいに気が利く子じゃなかったわよね」 料理がひと通り出揃うと、店員がケーキを運んできた。 そこにピンクのクリームで書かれていたのは、【莉緒、就職おめでとう!】の文字だった。 私は凍りついた。 父の誕生日だったはずの食事会は、いつの間にか莉緒のお祝いの席に変わっていた。 「一緒にお祝いした方が賑やかでいいじゃない」 母は言った。 拓真は最初のひと切れを莉緒に渡し、もうひと切れを切り分けて私の前に置いた。 その上には、砕いたピーナッツがたっぷりとかかっていた。 私はピーナッツアレルギーだ。 付き合い始めた最初の年、彼はそれをちゃんと覚えていた。 一度、レストランが手違いでピーナッツを添えたとき、彼は店員を呼んで厳しく抗議し、作り直させたことさえあった。 その彼が、今はすっかり忘れている。 「これ、食べられないわ」 拓真の手が止まった。 莉緒がすぐさま、私の皿と自分の皿を取り替える。 「ごめんね、お姉ちゃん。お店の人に伝えるの忘れちゃってた」 拓真は私の前からケーキを引き寄せた。 「莉緒だって1日中バタバタしてたんだ。そこまで気が回らないだろ。食べられないなら、残せばいい」 「ケーキ、あなたが頼んだの?」 彼は答えなかった。 母の顔が険しくなる。 「お父さんの誕生日なのよ。そんな顔するのはやめなさい」 「別に、普通にしてるけど」 「だったら笑いなさいよ。いつまでも拓真くんに機嫌を取らせてないで」 私は顔を上げた。 「私に黙ってお店を変えて、ケーキはお父さんのためのものですらない。私が何を食べられないのか、誰も覚えていない。それで私は、笑顔でみんなにお礼を言わなきゃいけないの?」 父がグラスを置いた。 「大したことじゃないだろう。せっかくの場を白けさせる気か」 莉緒の目がみるみる赤くなった。彼女はバッグをつかみ、出口へと向かう。 「……全部あたしが悪いの。来なきゃよかったっ」 拓真が弾かれたように立ち上がった。 「紗英、今夜のお前は言いすぎだ」 「追いかけるの?」 「雨が降ってるんだ。それに、莉緒は落ち込んでる」 「私だって、足を怪我してるのよ」 私はワンピースの裾をめくり、青あざになって腫れ上がったすねを見せた。 彼の表情が揺らいだ。身をかがめかけたそのとき、ドアの外から莉緒の泣き声が聞こえてきた。 「拓真くん、雨がひどくてタクシーが捕まらないよ……」 宙に浮いたまま、彼の手が止まる。 「ここで待ってろ。莉緒を送ったら、迎えに戻るから」 「嫌だって言ったら?」 「今はわがまま言わないでくれ」 彼はジャケットをつかむと、急ぎ足で出ていった。 その背中を見送りながら、私はふと5年前のことを思い出した。 私が高熱を出したとき、彼は一晩中、寮の前に立っていてくれた。どうして帰らないのかと尋ねた私に、彼はこう言った。 「お前が具合悪いのに、帰れるわけないだろ」 けれど本当は、彼はいつだって帰ることができたのだ。 ただあの頃は、他に彼を呼び出す人がいなかった。それだけのことだった。 第4話 結婚式の7日前、私は書類を取りに新居のマンションへ向かった。 何度暗証番号を入力しても、スマートロックは無機質なエラー音を返すばかりだった。 3回目の入力を試したところで、内側から莉緒がドアを開けた。 私が新調したルームウェアを着て、水の入ったグラスを手にしている。 「お姉ちゃん、どうしたの?」 玄関には莉緒の靴がずらりと並び、リビングにはイーゼルが立てられ、ベランダには彼女の服が干されていた。 どう見ても、これから私が暮らす家ではない。莉緒の家だった。 「どうして、あなたがここに住んでるの?」 「あぁー。前のアパート、契約更新のタイミングで退去することになっちゃってね。お母さんが、とりあえずここに住めばって言うから」 「誰が勝手にそんなこと決めたの?」 キッチンから物音がした。 私が買ったエプロンをつけた拓真が、オートミールの入った器を手に出てくる。 「俺だよ」 「どうして私に一言の相談もなかったの?」 「お前、最近ピリピリしてただろ。これ以上ストレスかけたくなかったんだよ」 どっと疲れが押し寄せてきた。私は拓真の目をまっすぐに見つめた。 「いつまでいるの?」 彼が答えた。 「部屋が見つかるまで」 莉緒が小さな声で付け加えた。 「お母さんがね、結婚式のあとも住んでていいって。ギャラリーにも近いし、あたしはゲストルームを使うだけだから。邪魔はしないよ」 私はその部屋へ足を踏み入れた。 私が選んだカーテンはピンクのものに替えられ、本棚を置くつもりで空けておいたスペースには、イーゼルがずらりと並んでいた。 ベッド脇の棚に、写真立てがひとつ置いてある。 写真の中では、拓真と莉緒が母を挟むように並んで立っていた。 裏返すと、こう書かれていた。 【仲良し家族 新居おめでとう!】 母の字だった。 私はその写真をじっと見つめた。 「家族って、誰のこと?」 莉緒の顔からさっと血の気が引いた。彼女は写真をひったくろうと手を伸ばす。 その拍子に、手にしていたグラスが滑り落ちて砕け散った。破片が私の手の甲を切り、すぐに血が玉のように滲み出す。 拓真がとっさにしたのは、莉緒を自分の背後にかばうことだった。 「怪我はないか?」 莉緒は首を横に振った。 「その写真を持って、何してるんだよ」 私は血の滲む手を掲げた。 「拓真。怪我をしてるのは、私よ」 彼の顔に動揺が走った。慌てて救急箱を取りに行ったものの、消毒スプレーは空になっていた。 「何日か前に、莉緒が指を切ったときに使い切っちゃったんだ。すぐ買ってくるから」 「いいわ、いらない」 私はティッシュで傷口を押さえ、もう一度写真を手に取った。 「このマンションの頭金4000万円のうち、1350万円は私が払ったのよ。500万円のリフォーム代だって、350万円は私が出してる。 それなのに、私にひと言の相談もなく莉緒を住まわせて、部屋の模様替えまでさせて、暗証番号まで変えさせた。あなたたち、私は絶対に出ていかないとでも思ってるの?」 拓真が眉をひそめた。 「誰もお前を追い出そうなんてしてないだろ。莉緒は一時的にいるだけだ。どうしてそうやって、いちいち細かく勘定するんだよ」 「今日中に出ていってほしいって言ったら?」 莉緒の目から、たちまち涙がこぼれ落ちた。 「出ていくよ。お姉ちゃんは昔からあたしのこと嫌いだもんね。邪魔者扱いされるのは嫌だもん……っ」 彼女は踵を返し、荷物をまとめ始めた。 戸口に立った拓真の目には、失望の色がありありと浮かんでいた。 「これで満足か?」 ほとんど間を置かずに、彼のスマホが鳴った。 母は、実の妹ひとり受け入れられないのかと私を責め立てた。父は、どうせ誰も住んでいないのだから、莉緒がしばらくいたところで減るものでもないだろうと言った。 友人たちからさえ、式を目前にして揉め事を起こすなというメッセージが届いた。 誰もが莉緒の肩を持った。 私の手は痛くないのかと訊く人は、誰ひとりもいなかった。 書類を取りに主寝室へ入ると、ベッド脇の棚に1冊のノートが置かれていた。結婚式で読む、誓いの言葉のノートだ。 拓真はまだ、半分しか書いていなかった。 その1行目には、こう書かれていた。 【まずは、女性を大切にするとはどういうことか、教えてくれた莉緒に感謝したい】 紙を持つ手が、かすかに震えた。 結婚式で私に贈るはずの言葉でさえ、始まりは莉緒だったのだ。 私はノートを元の場所に戻した。 「拓真、あなたの言う通りね。いちいち細かいことにこだわるべきじゃなかったわ」 私が折れたと思ったのだろう。彼の表情がふっと和らいだ。 「今回は俺も悪かった。結婚式が終わったら、ちゃんと埋め合わせするから」 「その必要はないわ」 私は指輪を外し、玄関脇の棚の上にそっと置いた。 「マンションの頭金とリフォーム代の私の負担分については、弁護士を通して連絡するから。式のキャンセル料も、私の分はちゃんと払うわ」 彼の顔から、すうっと血の気が引いていった。 「……何言ってるんだよ」 「花嫁をやめるって言ってるの」