恋の勝負、夜明けまで待てない

GoodNovel new Completed

私、渡辺杏梨(わたなべ あんり)と桐谷旭(きりや あさひ)は、いつもバチバチに張り合っているカップルとして有名だった。 幼い頃から、私たちは何事においても競い合ってきた。 成績トップの座、奨学金、そしてディベート大会の優勝トロフィー。 恋愛でさえも、まるで勝敗を決めるゲームのようだった。 私はずっと、それが私たちなりの不器用な愛し方なのだと思っていた。 旭が私を打ち負かす「最も簡単な方法」を見つけるまでは。 彼はただ、自分のそばに別の女の子がいるのを私に見せつけるだけでよかった。 それだけで私は激しく動揺し、自ら歩み寄ってこう言ってしまうのだ。 「旭、私の負けだわ」 以前は、この手が面白いように効いた。 旭が友達との飲み会で、私の親友の肩を抱き寄せるまでは。 小林梓(こばやし あずさ)は旭のジャケットを羽織り、彼のすぐ隣に寄り添い、甘えるように愛らしく笑っていた。 周りの誰かが囃し立てるように聞いた。 「旭さん、この子誰っすか」 旭は気怠げに視線を上げ、私を見た。 その口調は面倒くさそうで、ひどく意地が悪かった。 「新しい彼女」 カラオケボックスは一瞬にして静まり返った。 誰もが、私がどんな反応をするのかと息を潜めて待っていた。 けれど今回、私は数秒間じっと旭を見つめただけだった。 そして、ふっと笑みをこぼす。 「お似合いね。末長くお幸せに」 愛という名のもとに行われたこの勝負を、私は長く続けすぎた。 もう、このゲームは終わりにする。 旭のことも、もういらない。

Chapters (1)

第1章

私、渡辺杏梨(わたなべ あんり)と桐谷旭(きりや あさひ)は、いつもバチバチに張り合っているカップルとして有名だった。 幼い頃から、私たちは何事においても競い合ってきた。 成績トップの座、奨学金、そしてディベート大会の優勝トロフィー。 恋愛でさえも、まるで勝敗を決めるゲームのようだった。 私はずっと、それが私たちなりの不器用な愛し方なのだと思っていた。 旭が私を打ち負かす「最も簡単な方法」を見つけるまでは。 彼はただ、自分のそばに別の女の子がいるのを私に見せつけるだけでよかった。 それだけで私は激しく動揺し、自ら歩み寄ってこう言ってしまうのだ。 「旭、私の負けだわ」 以前は、この手が面白いように効いた。 旭が友達との飲み会で、私の親友の肩を抱き寄せるまでは。 小林梓(こばやし あずさ)は旭のジャケットを羽織り、彼のすぐ隣に寄り添い、甘えるように愛らしく笑っていた。 周りの誰かが囃し立てるように聞いた。 「旭さん、この子誰っすか」 旭は気怠げに視線を上げ、私を見た。 その口調は面倒くさそうで、ひどく意地が悪かった。 「新しい彼女」 カラオケボックスは一瞬にして静まり返った。 誰もが、私がどんな反応をするのかと息を潜めて待っていた。 けれど今回、私は数秒間じっと旭を見つめただけだった。 そして、ふっと笑みをこぼす。 「お似合いね。末長くお幸せに」 愛という名のもとに行われたこの勝負を、私は長く続けすぎた。 もう、このゲームは終わりにする。 旭のことも、もういらない。 第1話 私が「負けた」と言うのを聞けず、旭は目に見えて不機嫌そうに眉をひそめた。 次の瞬間、彼は突然手を伸ばし、梓の腰を抱き寄せて自分のそばに引き寄せた。 梓は小さく声を上げ、そのまま彼の胸に倒れ込むように寄りかかり、恥じらいを帯びた瞳で彼を見つめた。 旭の口角が再び上がる。 だがその瞳は、梓越しに私の顔を真っ直ぐに射抜いていた。 まるで私が取り乱し、感情を爆発させ、以前のように目を真っ赤にして負けを認めるのを待っているかのように。 私は喉の奥がキュッと締め付けられるのを感じ、きびすを返して立ち去ろうとした。 しかし突然、背後から旭の冷笑が聞こえた。 「杏梨、今ならまだ、負けを認めても間に合うぜ」 私は両手を強く握りしめた。 それでは物足りないかのように、彼はゆっくりと言葉を付け足す。 「初めてじゃないだろ。お前、昔から頭を下げるのは得意だったじゃないか」 その瞬間、私は人前で傷口を無理やりこじ開けられたような気がした。 最後に残っていた僅かなプライドでさえも、踏みにじられてしまったのだ。 突然、胸がひどく苦しくなり、目の前が真っ暗になって、危うく床に崩れ落ちそうになった。 旭は少し顔色を変え、無意識に手を伸ばして私を支えようとした。 だが、梓は彼よりも早く立ち上がった。 慌ててバッグの中から飴を一つ探し出し、私の前に歩み寄る。 「杏梨、また晩ご飯抜いたの?低血糖なんだから、無理しちゃダメだよ」 そう言って、飴を差し出してきた。 声は相変わらず優しくて、その眼差しも――これまで何度も見てきた、心からの心配に満ちたものだった。 私はその飴を見つめ、目頭が熱くなるのを感じた。 梓は私が低血糖であることを知っているから、いつもバッグの中に飴を常備してくれている。 私たちは出会って七年になる。 私と旭がここ数年、どれほどもつれ合ってきたか、梓は誰よりもよく知っていた。 旭が他の女の子を使って私に屈服を迫ることを、私がどれほど恐れているかも。 負けを認めるたびに、私が一人隠れてどれほど長く泣き続けるかということも。 それなのに、今日。 旭の隣に座っているのは、梓なのだ。 問いただしたいことは山ほどあったが、言葉は一つも出てこなかった。 結局、私は彼女の手を避け、静かに言った。 「二人とも楽しんで。私、寮に帰るね」 梓はまだ何か言いたげだった。 だが、旭の表情は再び冷酷なものに変わり、梓を強引に自分の腕の中に引き戻した。 「放っておけ」 そして、私に視線を向ける。 「わかったよ、杏梨。意地を張るなら勝手に出て行け。後になって、泣いてすがりついてきても知らないからな」 私は二度と二人を見ることなく、振り返りもせずに店を出た。 帰宅ラッシュの時間帯で、タクシーを捕まえるのは難しかった。 その時、スマートフォンが鳴った。 旭からだった。 私は数秒間画面を見つめ、やがて電話に出た。 電話口からは、相変わらずの面倒くさそうな声が聞こえてきた。 第2話 「杏梨、最後のチャンスをやる。今負けを認めるなら、まだ間に合うぞ」 私は何も言わなかった。 しかし旭は、私が折れると確信しているかのように、こう付け足した。 「女の子が夜一人で帰るのは危ないだろ。負けを認めろよ、送ってってやるから」 私は思わず声を上げて笑ってしまった。 夜道が危ないことくらい、旭も分かっていたのだ。 私が夜の道端に一人で立っているのを怖がることも、彼は知っていたのだ。 それなのに旭は、それらすべてを私に負けを認めさせるためのカードとして使ってくる。 これまでの数年間、私たちはいつもこうだった。 一番を争い、勝敗を争い、どちらがより相手を愛しているかを争ってきた。 喧嘩をするたびに、旭は決まって「新しい彼女」とやらを作った。 私が慌てふためき、涙を流し、頭を下げたところで、旭はこう言うのだ。 「杏梨、またお前の負けだな」 けれど、恋愛は戦争ではない。勝敗などつくはずもなく、ただお互いを傷だらけにするだけだ。 私はもう、本当に疲れた。張り合う気力すら残っていないほどに。 だから私はスマートフォンを握りしめ、静かに言った。 「旭、私たち別れよう」 電話の向こうは長い間静まり返り、通話が切れたのではないかと思ったその時―― 鼻で笑うような冷たい声が聞こえてきた。 「いいぜ、別れよう。杏梨、今回は後で泣いてすがってきても、もう元には戻れないからな」 その言葉を聞いた瞬間、冷水を頭から浴びせられたような感覚に襲われた。 まるで底知れない氷の底へ突き落とされたかのようだった。 旭が言っているのは、前回のあの時のことだ。 あの時、私が負けを認めなかったから、旭の方から別れを切り出してきた。 私はパニックになり、泣きながら長い間旭にすがりついた。 それは私が最も惨めな思いをした瞬間であり、旭が最も得意気だった瞬間でもあった。 けれど今回は違う。 今回は、私から切り出したのだ。 私は本気だった。 私は目を閉じ、消え入るような声で言った。 「安心して、もう二度とないから」 そう言い残し、私はそのまま通話を切った。 タクシーを拾って寮に戻った頃には、もう夜の十時近くになっていた。 エントランスに入ると、梓はその腕に真っ赤なバラの大きな花束を抱えていた。 誰からの贈り物かなど、推測するまでもない。 同じ階の寮友たちが梓を取り囲み、羨ましそうな声を上げている。 「旭さん、行動早すぎない?告白してすぐに花束なんて、こんなの反則でしょ。 梓、あんた幸せ者すぎ!」 私が帰ってきたのを見て、梓の顔に浮かんでいた笑顔がふっとこわばった。 「杏梨、おかえりなさい」 彼女は立ち上がり、無意識に花束を横に置いた。 「誤解しないで、これはね……」 私はバッグを下ろし、彼女の言葉を遮った。 「説明はいらない。私と旭はもう別れたから。あなたたちのことは、私には関係ないわ」 梓はすっと顔を青ざめさせた。 彼女は何か言おうと口を開きかけたが、最後にはただ小さな声でこう言った。 「まだご飯食べてないよね?メロンパン、買ってきてあるの。低血糖なんだから、空腹はダメだよ」 彼女はくるりと背を向け、メロンパンを取りに行こうとした。 「お腹空いてない」 私はそれを受け取ることなく、ただ自分の部屋に戻り、ドアを閉めた。 ドアはすべての視線を遮ってくれるが、音まで遮ることはできなかった。 しばらくすると、談話室では寮友たちが再び梓の周りに集まっていた。 声のトーンは落とされていたが、それでも私の耳にはっきりと入り込んできた。 「あんたと旭さん、いつから付き合ってたの?あんなにプライドの高い人が、まさか公開告白するなんてね。学内掲示板でも、その話題で持ちきりだよ」 私はスマートフォンを握る手をピタリと止めた。 画面は明るく光っている。 学内掲示板のトップには、旭の告白動画が掲載されていた。 動画の中で、旭は寮の前に立ち、手にバラの花束を持っていた。 梓は白いワンピースを着て、目を赤くしながらその花を受け取っている。 周囲は冷やかす声で溢れかえっていた。 誰かが叫ぶ。 「キスしろよ!」 旭は俯いてふっと笑った。 その笑顔を、私は何度も見たことがある。 ただ以前は、それは私に向けられたものだった。 けれど私たちは三年付き合ってきて、一度も交際を公にしたことはなかった。 恋愛は二人の問題であり、他人に見せびらかす必要はないと旭は言っていた。 俺たちにそんな見栄は必要ない、と旭は言っていたのだ。 第3話 だから、私たちの関係を知っているのは、数人の共通の友人だけだった。 胸が何かに重く押し潰されそうになる。 旭とはもう別れたはずなのに、あの動画を見た時、息ができないほど胸が痛んだ。 薄い壁越しに、また談話室から寮友たちの声が聞こえてきた。 「梓、推薦入試、あんたも東雲大学に受けるの?」 梓は少し黙り込み、それから小さく肯定するように返事をした。 「旭も行くから、一緒にいたくて」 私は目を開け、部屋の天井を長い間見つめていた。 それからスマートフォンを取り出し、大学院推薦入試の出願ページを開く。 東雲大学。 それは旭がずっと目指していた大学であり、私も本来選んでいた志望校だった。 そのために、私たちは何年も前から計画を立てていた。 けれど今はもう、その必要はない。 画面に表示された出願先の入力欄を見つめる。 画面の上で、指先が数秒間立ち止まる。 そしてゆっくりと東雲大学を削除し、別の大学を入力し直した。 旭からも、梓からも遠く離れた場所へ。 この先一生、二度と顔を合わせることもないほどの距離へ。 送信完了の通知がポップアップした時、私はようやくホッと息をついた。 スマートフォンを枕の下に突っ込み、無理やり目を閉じて眠りについた。 翌朝早く、私はバッグを背負って図書館へ向かった。 これまで集めた資料はすべて、東雲大学の推薦入試に向けて準備したものだった。 志望校を変えたからには、研究の方向性も、指導教員も、推薦入試の内容も、すべて調べ直さなければならない。 二階に着いた途端、不意に旭と梓の姿が目に入った。 二人は手を繋ぎ、とても親しげにしている。 私は足を止め、踵を返して立ち去ろうとした。 だが、旭はすでに私に気づいていた。 彼は片眉を上げ、笑みを含んだ声で言う。 「杏梨、偶然だな?それとも、わざと俺に会いに来たのか」 私は彼を無視して、そのまま前へ歩き続けた。 しかし、梓が小走りで追いかけてきた。 「杏梨、もしかしてまだ怒ってる?昨日のことは、本当にあなたが思ってるようなことじゃなくて……」 梓が最後まで言い終わらないうちに、旭が鼻で軽く笑った。 「こいつに説明なんかしてやる必要ないだろ。分からないか? わざと俺の前に姿を現して、俺に機嫌を取らせたいだけなんだよ」 梓はハッとしたように言葉を失った。 「旭……」 旭は私を見つめていた。その眼差しは自信に満ちていて、それでいて気怠げだ。 「杏梨のこういうやり口、俺は知り尽くしてるんだよ。冷たいフリをして、気にしてないフリをする。要するに、気を引くための駆け引きだろ」 私は本を握りしめ、指の関節が少し白くなっていた。 「それ、自分のことを言ってるの?」 そういう駆け引きはすべて、旭自身がいつも使っている手だ。私ではない。 旭の顔に浮かんでいた笑みが少しこわばった。反論しようとしたが、言葉が見つからないようだった。 ふと、旭の視線が私の手元に落ちた。まだ返却しそびれていた本だ。 次の瞬間、旭は笑った。 「東雲大学の推薦入試の資料?」 旭は手を伸ばして一番上の本を抜き取り、パラパラと数ページめくってから、再び視線を上げて私を見た。 「杏梨、お前もなかなか演技が上手いな。口では別れるなんて言いながら、結局、推薦入試の出願先は東雲大学のままか?なんだ、あそこが俺の志望校だって知ってるから、こっそりついてきて俺を驚かせようとでも思ったのか」 旭はその本を私の胸元に投げ返し、嘲るような口調で言った。 「やっぱり気を引くための駆け引きじゃないか。まだ認めないのか? ほら、やっぱり図星だろ」 私は反論しなかった。 彼の言っていることは、半分当たっていたからだ。 以前は確かに、そのつもりだった。 卒業後は実家の会社でインターンをするようにと、すでに家族からお膳立てされていたにもかかわらず。 それでも、旭が東雲大学に行ってもう数年学びたいと言ったのを聞いた途端、私は実家の話を断ったのだ。 あの頃の私は彼に寄り添い、どんな時も一緒にいたいと願っていた。 だから必死にGPAを上げ、論文の準備をし、推薦入試の対策をしてきた。 旭の未来を、私の未来の中にも組み込んでいたのだ。 けれど今はもう、違う。 私は確かにまだ大学院へ推薦で進学したいと思っているが、それはもう東雲大学ではないし、旭のためでもない。 第4話 梓は私の沈黙に気づかないふりをして、パッと目を輝かせた。 「杏梨、あなたも東雲大学を受験するの?よかった、これでまた三人とも同じ学校に通えるね」 そう言いながら、梓は少し恥ずかしそうに俯いた。 「でも私、GPAがギリギリだから、推薦入試に通るかどうかわからないけど」 旭は梓を見下ろし、少しだけ声を和らげた。 「俺がいるんだ、何も心配いらないだろ。手伝ってやるよ」 梓の頬が、ほんのりと赤く染まる。 「本当?」 旭は短く頷き、それから再び私の方を見た。 「それでお前は……杏梨、どっちが東雲大学の推薦入試で上の順位になるか、勝負しようぜ」 その言葉を聞いて、私はただ滑稽に思えた。 この期に及んで、私がまだ彼のゲームに付き合うとでも思っているのだろうか。 私は本を強く抱きしめ、冷たい声で言った。 「どいて」 旭は数秒間私を睨みつけ、みるみるうちに表情を険しくした。 「いいだろう。いつまでそんな強がりを続けるか、見物だな」 私は彼を押しのけ、図書館の五階へ上がると、東雲大学の推薦入試対策の本を、一冊ずつ本棚へと戻していった。 それから隅の席に座り、別の大学の資料を検索し直した。 お昼頃、スマートフォンが震えた。 旭からのメッセージだった。 【東雲大学の大学院推薦入試の出願書類、ここ数日のうちに提出だぞ。忘れるなよ】 数秒の間を置いて、彼からもう一通送られてきた。 【杏梨、今回はもう一度勝負だ。賭けの条件は、勝者が敗者に一つ要求でき、敗者はそれを拒否できないこと】 そのメッセージを見て、私はただ馬鹿馬鹿しいとしか思わなかった。 すでに別れているというのに、まだ勝ち負けにこだわっているなんて。 まるで賭けの条件さえ決めれば、私が必ずこのゲームに付き合い続けると信じ込んでいるかのようだ。 私は返信することなく、そのまま旭の電話番号ごと着信拒否リストに放り込んだ。 それからは、持てるすべてのエネルギーを推薦入試の準備に注ぎ込んだ。 研究計画書を練り直し、面接の練習をする。 朝六時に図書館へ行き、夜の閉館時間になってようやく寮へ帰る日々。 旭と梓は、それでも時折私の目の前に姿を現した。 しかし、私はもう気にも留めなかった。 口述試験の前日、私は試験に向けて万全の準備を整えた。 分厚い試験資料を見つめ、私は長く安堵の息をついた。 その瞬間、旭のいない未来も、それほど恐ろしいものではないような気がしたのだ。 --- 翌日は、東雲大学の口述試験の日だった。 旭は梓と共に、朝早くから東雲大学へ向かった。 受付の順番を待ちながら、旭は上の空で資料をめくっていた。 だがその心中では、今回の口述試験では少しだけ手を抜き、杏梨に一度勝たせてやろうと考えていた。 そうすれば、杏梨は堂々と彼に要求を突きつけることができる。 例えば、ヨリを戻してほしい、と。 例えば、もう怒らないでほしい、と。 その時が来たら、「仕方ないな」と渋々受け入れてやり、杏梨に折れる口実を与えてやるつもりだったのだ。 しかし、いざ会場への案内が始まっても、控室のどこを見渡しても杏梨の姿はなかった。 ついに旭は少し不安になり、慌ててスマートフォンを取り出して杏梨に電話をかけた。 だが、旭を待っていたのは、無機質で冷たい機械の自動音声だった。 そこでようやく、旭は自分が杏梨に着信拒否されていることに気付いた。 結局、旭は学生課の職員に電話をかけるしかなかった。 「先生、杏梨がまだ東雲大学の口述試験に来てないんですが。何かトラブルに巻き込まれたんでしょうか、俺からは連絡がつかなくて……」 電話の向こうで、職員は一瞬呆気に取られた。 「渡辺さん?彼女が大学院の推薦で出願したのは東雲大学じゃなくて、湊浜大学ですけど」 それを聞いた瞬間、旭はまるで全身が凍りついたかのようにその場に立ち尽くした。