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私が早産した日、夫は元カノと海外にいた
私の名前は白井夏帆(しらい かほ)。娘を産んだとき、夫の白井悠(しらい ゆう)は篠原美里(しのはら みさと)の出張に付き添ってヨーロッパにいた。 悠が帰国したのは、娘が生まれてから五日後のことだった。 悠は保育器から娘の白井安奈(しらい あんな)をそっと抱き上げ、申し訳なさそうに私を見つめた。 それ以来、悠は毎日のように育児について調べ、ベビーシッターを探し、産後の私の回復具合まで細かく気にかけるようになった。 夜中に安奈が目を覚まして泣き出すたび、悠は真っ先に飛び起き、安奈を抱き上げて背中を優しくトントンと叩きながらあやしてくれた。 それなのに私は、次第に悠を避けるようになり、何かと理由をつけて別の寝室に移った。 ある日、親友の鳴海遥(なるみ はるか)が会いに来て、小さな安奈をそっと抱きながら言った。 「あの日は本当に生きた心地がしなかったよ。急に転んで早産になっちゃうし、悠さんに何度電話しても出てくれないし…… でも、悠さんも帰ってきたし、今はいいパパになろうって頑張ってくれてるんだから、よかったよね」 私は安奈の頬を指先でちょんとつついて答えた。 「うん。でもね、私、一人で安奈を育てることになっても、ちゃんとやっていけると思うんだ」 その瞬間、遥は顔色を変え、私の手の甲を軽く叩いた。 顔を上げると、哺乳瓶を手にした悠が、沈んだ表情で部屋の入り口に立っていた。
Chapters (1)
第1章
私の名前は白井夏帆(しらい かほ)。娘を産んだとき、夫の白井悠(しらい ゆう)は篠原美里(しのはら みさと)の出張に付き添ってヨーロッパにいた。
悠が帰国したのは、娘が生まれてから五日後のことだった。
悠は保育器から娘の白井安奈(しらい あんな)をそっと抱き上げ、申し訳なさそうに私を見つめた。
それ以来、悠は毎日のように育児について調べ、ベビーシッターを探し、産後の私の回復具合まで細かく気にかけるようになった。
夜中に安奈が目を覚まして泣き出すたび、悠は真っ先に飛び起き、安奈を抱き上げて背中を優しくトントンと叩きながらあやしてくれた。
それなのに私は、次第に悠を避けるようになり、何かと理由をつけて別の寝室に移った。
ある日、親友の鳴海遥(なるみ はるか)が会いに来て、小さな安奈をそっと抱きながら言った。
「あの日は本当に生きた心地がしなかったよ。急に転んで早産になっちゃうし、悠さんに何度電話しても出てくれないし……
でも、悠さんも帰ってきたし、今はいいパパになろうって頑張ってくれてるんだから、よかったよね」
私は安奈の頬を指先でちょんとつついて答えた。
「うん。でもね、私、一人で安奈を育てることになっても、ちゃんとやっていけると思うんだ」
その瞬間、遥は顔色を変え、私の手の甲を軽く叩いた。
顔を上げると、哺乳瓶を手にした悠が、沈んだ表情で部屋の入り口に立っていた。
第1話
悠は唇をきゅっと結び、少し眉を寄せていた。機嫌が悪いときにいつも見せる表情だった。
以前なら、悠の顔色をうかがって、何とか機嫌を直してもらおうとしていた。でも今は、気づかないふりをしてうつむいた。
すると、悠がこちらへ歩み寄ってきた。
「ミルク、作ったよ」
そう言って哺乳瓶に手を当てた。
「うん、ちょうどいいよ」
私は哺乳瓶を受け取り、改まった口調で「ありがとう」と礼を言った。
悠は一瞬、戸惑ったようだった。
「夏帆、俺たち夫婦なんだから、そこまで他人行儀にしなくてもいいだろ」
悠が私と安奈を病院から連れ帰って以来、私はずっとこんなふうに距離を置いていた。
少し間を置いて、悠が言った。
「……もういいよ。二人でゆっくり話してて」
そう言って、悠は背を向けて部屋を出ていった。
私は安奈をあやしながらミルクを飲ませた。少し飲んだところで、安奈は眠そうに目を閉じた。
遥もさっきのやり取りで気まずくなったのか、それ以上は深く聞かず、早まったことはしないようにとだけ言って帰っていった。
そのあと、ベビーシッターが安奈を連れていき、寝かしつけてくれた。
午後、家政婦が軽い食事を用意してくれたとき、悠が私の向かいに座り、突然こんなことを聞いてきた。
「……俺、これでも頑張ってるつもりなんだけど。それでもまだ足りない?」
ヨーロッパから帰ってきてから、悠は確かに安奈の世話もよくしてくれたし、私のことも何かと気にかけてくれていた。
私は首を横に振った。
「ううん、そんなことないよ。十分よくしてくれてる」
「でも、最近ずっと俺のこと避けてるよな」
私は少し気まずくなった。さっきあんなことを言ったうえに、普段からあれだけ悠を避けていたのだから、気づかれても仕方がなかった。
何と言ってごまかそうか迷っていると、悠がまた口を開いた。
「誕生日のこと、わざと忘れたわけじゃないんだ。
それに、安奈のことだって、ちゃんと大切に思ってる」
私はもう、何と返せばいいのかわからなかった。
去年の私の誕生日、悠は仕事の付き合いだと言って出かけ、私は家政婦が用意してくれた夕食を一人で食べた。
その夜、日付が変わる少し前、悠の友人のSNSで美里の誕生日を祝う投稿を見つけた。
写真には悠の後ろ姿も写っていた。
私は思わず、以前見た「YY」というアカウントをもう一度検索した。
案の定、5年間も更新されていなかったそのアカウントに、新しい投稿があった。
【15年続けてきた約束、今年も守れたね。今でも一緒に誕生日を祝ってくれる誰かさん、ありがとう】
気持ちが一気に沈んだ。あの頃の苦しさが、またよみがえってきた。
悠と結婚して間もない頃、知らない相手から何枚ものツーショット写真とSNSのアカウント名が送られてきた。見てみるように言われ、私はそのアカウントを検索した。
そこで、悠と美里の過去を知った。
二人は出会って恋に落ち、何度も別れてはよりを戻し、最後は美里が海外へ渡った。
あれほど好き合っていた二人も、結局は結ばれなかった。まるで切ない青春恋愛小説のような話だった。
私はきっと、その主人公が最後に妥協して結婚した相手なのだろう。
けれど今になって、二人はよりを戻しそうだった。そうなれば、私は二人の邪魔になるだけだ。
それでも、まだどこかで期待を捨てきれず、私は悠に電話をかけた。
電話に出た悠は、「どうかした?」と聞いてきた。
私は言おうかどうかずっと迷っていた言葉を、ようやく口にした。
「今日、私の誕生日なんだけど……まだおめでとうって言ってくれてないよ」
電話の向こうでは誰かがカウントダウンをしていて、かなり騒がしかった。悠には私の声がよく聞こえなかったようだ。
もう一度言おうとしたら、誰かが悠に声をかけた。
「悠さん、もうすぐ0時ですよ!美里さんが待ってますよ。一番におめでとうって言ってあげてくださいね!」
悠はその人に返事をしてから、私に言った。
「今ちょっと用があるから。またあとで話そう」
日付が変わって30分ほど経った頃、ようやく思い出したのか、悠からメッセージが届いた。
【誕生日おめでとう】
目頭がつんと熱くなった。私は泣きそうになるのをこらえながら、返事を打った。
【ありがとう。でも、もういいよ】
それきり悠から返事はなかった。どうしてあのとき、たった一言でも祝ってほしかったのか、悠にはきっとわからなかったのだろう。
私の誕生日はひっそりと終わったのに、美里は盛大に祝ってもらっていた。
そのことを知った悠の祖父が悠を呼び出すと、悠は冷ややかに言った。
「夏帆がまた、何か告げ口でもしたんですか?」
第2話
悠が言っていたのは、先月の雨の日のことだった。
あの日、私は悠に車で家まで送ってほしいと頼んだが、断られてしまった。そのあと雨がひどくなり、タクシーもつかまらず、結局ずぶ濡れになってしまった。
その後も何日も熱が下がらず、中耳炎にまでなってしまった。
家政婦から事情を聞いた悠の祖父は、悠をひどく叱った。
悠の祖父は首を振った。
「お前、夏帆をそんな子だと思ってるのか。あの子はこんなこと、私に言いつけたりしないよ」
悠は気のない様子で目を伏せ、信じているようには見えなかった。
悠の祖父はため息をついて続けた。
「夏帆は結婚してからずっと、お前のことを大事にしてきただろう。もう結婚して4年になるんだ。そろそろ子どものことも考えたらどうだ?
このままずっと、子どもを作らないつもりなのか?」
悠はふっと笑い、すぐに答えた。
「あのとき美里と結婚させてくれていたら、今ごろは子どもも走り回る年頃になっていたでしょうね」
悠の祖父は杖を振り上げ、悠の太ももを思い切り叩いた。
「馬鹿なことを言うんじゃない!もう結婚してるんだぞ。いい加減、昔のことは忘れて、夏帆を大事にしなさい!」
それでも悠は、冷ややかに返した。
「そもそも、あのとき結婚しろと言われなければ、夏帆とは結婚してませんよ。子どもなんて、なおさらです。
夏帆のこと、好きじゃないんですから」
……そういうことだったんだ。
避妊だけはいつも徹底していて、万が一コンドームが破れたときも、悠はすぐにアフターピルを飲むように言った。
私は仕事が大事な時期だから、子どもはまだ先でいいと自分に言い聞かせていた。
でも、まさか悠が今も美里を忘れられず、私のことも好きではなくて、私との子どもを望んでいなかったなんて。
それなら、どうして自分からプロポーズしてきたのだろう。いくら考えてもわからなかった。
部屋を出ようとした悠は、目を真っ赤にした私と鉢合わせになった。
一瞬驚いたようだったが、何も言わず、そのまま私の横を通り過ぎていった。
悠の祖父はそんな私を慰めてくれた。
「気にしなくていい。あいつは私に叱られて、腹を立ててるだけだよ。ただな、やっぱり二人に子どもができれば、夫婦仲ももっとよくなると思うんだ」
私は胸の痛みをこらえ、嘘をついた。
「はい、わかっています。でも、私もあまり体が丈夫じゃないので……子どものことは、もう少し先にしようかと思っていて」
あのとき初めて、離婚しようと思った。でも、そんな矢先に妊娠がわかり、離婚どころではなくなってしまった。
当時、私はあるプロジェクトを担当していて、毎日仕事に追われていた。そんなある日、書類を届けに行く途中で突然倒れ、病院に運ばれた。
そこで初めて、妊娠4か月だと知らされた。
妊娠を知っても、悠は特に嬉しそうな様子もなく、しばらく黙ってから、ようやく口を開いた。
「……じゃあ、産めばいいんじゃないか」
私の妊娠はすぐに社内に広まり、それを快く思わない人も出てきた。
私が中心となって進めてきたプロジェクトは、期間が1年近くに及ぶ大きな仕事だった。しかも、ちょうど出産予定日とプロジェクトの終盤が重なっていた。
私が産休に入れば、残りの大量の仕事をほかのメンバーが引き受けることになる。
同僚たちは私の前では何も言わないのに、陰ではよく文句を言っていた。私も何度か、たまたま聞いてしまった。
「夏帆さんって、なんでこんな時期に妊娠するかな……」
「最後の大変なところは産休で休めるもんね。残りの仕事は全部こっちに回ってくるのに、成果は夏帆さんのものになるんでしょ」
そんなふうに言われているのが、悲しくてたまらなかった。
このプロジェクトを取るために、私がどれだけ夜遅くまで働き、何度も企画書を書き直してきたか、みんな知っているはずなのに。
私はただ、チームのみんなと頑張ってプロジェクトを成功させ、みんなで少しでも多くボーナスをもらえたらと思っていただけだった。
ところが、妊娠がわかった途端、上司に呼び出され、「残念だけど、今はお子さんのことを優先したほうがいい」と言われ、部長への昇進も見送られてしまった。
悔しかった。でも、そんな気持ちを表に出すわけにはいかなかった。少しでも弱音を吐けば、妊娠を盾にして被害者ぶっていると言われるに決まっていた。
一時は、この子を産まないことまで考えてしまった。子どもは大切だけど、私の将来だって同じくらい大切だった。
それでも、気づけばお腹に手を当てていた。お腹の中にいるこの子には、何の罪もない。
そんなふうに迷っていた頃、美里が突然、私たちの部署にやってきた。
上司は私の仕事を手伝わせると言って、美里を私の下につけた。
美里と顔を合わせるのは、これが初めてだった。
想像していたよりもずっと落ち着いた人だった。物おじせず、必要以上に目立とうとすることもなく、何か問題が起きても手際よく対処していた。
美里が来たことで、同僚たちはみんなほっとしたようだった。
でも、私にはわかっていた。美里は私の代わりになるために来たのだ。
これで、今回の昇進はもう無理だろうと思った。
第3話
私は悠に直接話を聞きに行った。
「どうして篠原さんがうちの会社に来たの?」
悠は社長室の椅子に背を預けたまま、あっさり答えた。
「美里が適任だからだ」
「でも、篠原さんが来たら、産休から戻ったときに気まずいじゃない。あのプロジェクトだって、ずっと私が担当してきたのに……」
悠は平然と言った。
「でも、今の時期に妊娠したのはお前だろ。ほかの人にチャンスが回ってきたなら、昇進したっていいじゃないか」
喉が詰まり、声が震えた。
「妊娠したのは、私だけの責任だって言うの?悠は私の夫でしょ。それなのに、こんなときに元カノを会社に呼んで、私と同じ役職につけるなんて……不公平だよ」
それでも悠は、冷たい目で私を見つめたままだった。
「世の中、不公平なことなんていくらでもあるだろ。
お前だって、学歴が高いわけでも、経験が豊富だったわけでもないだろ。それでもうちの会社に入れたのは、入社前に父親と一緒にうちのじいさんに頼みに行ったからじゃないか」
私は言葉に詰まったが、悠はさらに声を強めた。
「お前より優秀で、もっと頑張ってる人たちからしたら、それこそ不公平なんじゃないのか?」
体がすっと冷えた。
今までの努力を否定されたのもショックだった。けれど、悠がそこまで言う理由に、ようやく気づいてしまった。
悠は美里を昇進させるために、わざわざ手を回していたのだ。
私が入社した頃の話まで持ち出したのも、これ以上何も言わず、おとなしく引き下がれということなのだろう。
私の顔色が悪くなっていくのを見て、悠は少し口調を和らげた。
「大丈夫か……?無理しないで、しばらく休めるようにしようか?」
私はお腹を押さえたまま、ぐっと顔を上げた。
「……ううん、大丈夫。そこまでしなくていい」
ここまで頑張ってきた仕事を、どうしても諦めたくなかった。
離婚したい気持ちは強くなるばかりだった。それでも、まだ踏み切れずにいた。
そんな私をよそに、担当していた仕事はあっという間にほとんど美里へ引き継がれてしまった。
みんな口では妊娠中の私を気遣ってのことだと言っていた。でも、本当は私を面倒に思っているのが、顔を見ればわかった。
そのうち、社内では悠と美里の噂も広まり始めた。
「篠原さんって、社長の元カノだったんだって。今は二人とも独身なんでしょ?もしかして、ヨリを戻すんじゃない?」
「いいよねえ。社長が元カノのために、わざわざあのポストを用意したんでしょ?そのうち部長にもなりそうだよね」
「ねえ、そういうこと言うのやめようよ。夏帆さんがかわいそうじゃない?5年も頑張ってきたのに、まだ部長になれてないんだから」
私は拳を握りしめ、唇を噛んで、噂話を必死に聞き流した。
その日の午後、下腹部に何度も痛みが走った。
真っ先に悠のことが頭に浮かび、病院まで送ってもらおうと電話をかけようとした。けれど、スマホを開くと、同僚たちのグループチャットに次々とメッセージが届いていた。
【ねえ見て!社長と篠原さんが一緒に歩いてるところ、撮れちゃった!】
【地下駐車場のほうに向かってない?もしかして、これからデートだったりして!】
メッセージを見て、思わず足が止まった。結局、悠には連絡せず、一人でタクシーに乗って病院へ向かった。
病院では切迫流産の兆候があると言われ、医師からはできるだけ横になって安静にするよう勧められた。
家に帰ってから、悠がテーブルに置いてあった検査結果を見つけた。
「……そんなに悪かったのか。しばらく仕事を休めるようにしておこうか?」
私はちらっと悠を見た。
「私だけ特別扱いしなくていいから」
悠は少し眉を寄せたが、それ以上は何も言わなかった。
その後も私は、いつもどおり会社に通い続けた。
妊娠してから、些細なことにも敏感になっていたのかもしれない。
そんなある日、また同僚たちのグループチャットに、悠と美里が親しげに食事をしている写真が投稿された。
その写真を見て、もう我慢できなくなった。私は悠に、今すぐ私たちの結婚を公表してほしいと迫った。けれど、悠はすぐに断った。
「私たち、ちゃんと結婚してるんだよ?どうして会社のみんなに言っちゃいけないの?
篠原さんが不倫相手だって思われるのが嫌なの?」
「美里は関係ないだろ」
悠はちらりと私のお腹を見た。
「もういいだろ。わがまま言うなよ。そんなに怒ってたら、お腹の子にもよくないだろ」
悠は最後まで冷たかった。私がどんなに頼んでも、ただのわがままだと片づけられてしまった。
落ち込んだままエレベーターを待っていると、書類を届けに来た美里と顔を合わせた。
美里は私を見るなり、馬鹿にしたように笑った。
「妊娠したからって、何でも思いどおりになるわけじゃないみたいね」
ずっとこらえていた涙が、とうとう頬を伝った。
第4話
翌日、私は人事部へ行き、休職の申請を取り下げて、代わりに退職届を出した。
悠と大きく揉めたのは、妊娠8か月のときだった。
美里が1か月間ヨーロッパへ出張することになった。すると、悠まで何かと理由をつけて、一緒に行くと言い出した。
美里と一緒に行きたいだけだとわかっていたから、私は悠を引き止めた。
「どうして篠原さんと距離を置いてくれないの?仕事を口実にしてまで、一緒にヨーロッパへ行く必要あるの?私のこと、ちゃんと妻だと思ってる?お腹の子のことも、少しは考えてよ」
悠は少し笑った。
「本当に仕事で行くんだよ。もう、いい加減にしてくれないか。
それに、妊娠したからって俺を脅せると思うなよ。離婚だって、しようと思えばいつでもできるんだから」
あまりのショックに、立っているのもやっとだった。ふらつく私を、悠がとっさに支えた。
さすがに言いすぎたと思ったのか、悠は少し気まずそうに言った。
「もう余計なことは考えるな。家でゆっくりしてろ。予定日までには帰るから」
そう言い残して、悠はその日のうちにヨーロッパへ発った。
悠が出発して3日後、公園を散歩していたときに転んでしまい、そのまま陣痛が始まった。
通りかかった人が、病院まで連れていってくれた。
緊急連絡先には悠の名前を一番に書いていたのに、何度電話してもつながらなかった。
結局、その日病院に来てくれたのは、親友の遥だけだった。
早産だったため、娘は生まれてすぐに新生児集中治療室へ運ばれた。
私は痛みをこらえながら、ガラス越しに小さな娘を見つめた。どうか無事でいてほしい。ただそれだけを必死に祈っていた。
娘には「安奈」と名づけた。
どうか何事もなく、元気に育ってほしい。そんな思いを込めた名前だった。
この子さえ無事でいてくれるなら、もうほかには何もいらなかった。
そんなとき、美里のSNSの投稿が目に入った。
ヨーロッパでホームレスの男に襲われ、持ち物を奪われそうになったところを、悠に助けてもらったらしい。
投稿には、こんな言葉が添えられていた。
【あなたがいてくれてよかった】
その言葉をじっと見つめているうちに、もう耐えられなくなった。
出産して3日目、ずっと弟につきっきりだった母が、ようやく見舞いに来た。
母は保育器に入っている安奈を見ると、ため息をついた。
「なんだ、女の子だったのね……悠さんが会いに来ないのも、女の子だからじゃないの?
やっぱり悠さんとの間に男の子を産まないと。あれだけ財産のある家なんだから、跡継ぎが必要でしょ」
母の言葉を聞いているうちに、もう何も考える気力さえなくなっていた。
母が帰ってしばらくすると、悠の祖父が付き添いの人に支えられながら、よろよろと病室に入ってきた。
悠の両親は夫婦仲が悪く、二人とも長年海外で暮らしていた。
悠の祖父には退院するまで出産のことを知らせないつもりだったのに、母が話してしまったらしい。
悠の祖父はベッドでぼんやりしている私を見ると、慌てて付き添いの人に悠への連絡を頼んだ。
翌日、悠は慌てて帰国し、そのまま病院に駆けつけた。
悠は私を見ると、申し訳なさそうに言った。
「夏帆……遅くなってごめん」
私は何も答えず、寝返りを打って悠に背を向けた。
もう、悠が帰ってきても、何とも思わなくなっていたのかもしれない。