夫も息子も、喜んで差し上げます

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私、露木ひより(つゆき ひより)は、冷徹な社長として知られる露木夏彦(つゆき なつひこ)と結婚した。 職場では旧姓の涼野(すずの)を使い、結婚していることを隠し続けて、もう6年。息子の鏡也(きょうや)も、父親にそっくりな、無愛想な子に育った。 職場の人から性的暴行を受けそうになった事件の裁判に、私が出廷した日。 夫と息子は、スイスへ飛んでいた。 夏彦が7年間交際していた元恋人、笠原紫苑(かさはら しおん)の気晴らしに付き合うために。 二人が悪びれもせず帰ってきたのは、裁判の日から一週間も経ってからだった。 夏彦は眉間を指で押さえ、疲れた顔で言った。 「紫苑は落ち込んでいたんだ。 今度何かあったら、必ずそばにいてあげるから」 鏡也も父親の真似をして、すました顔で私をなだめてくる。 「パパと、おみやげ買ってきたよ。 これあげるから、もう怒らないで。ね?」 私はただ、静かに頷いた。 以前のように取り乱して、声を荒らげることもなかった。 そんな私の態度に、今度は夫と息子のほうが戸惑い始めた。 ある日、親友の三浦莉奈(みうら りな)としゃぶしゃぶを食べていると、彼女はTikTokを見ながらぽつりと言った。 「ねえ、最近SNSでよく見るんだよね。長く付き合ってた元カノがいる男とは、結婚しないほうがいいんだって。 元カノに呼ばれたら、すぐそっちに戻っちゃうんだって。 ひよりも気をつけなよ。旦那さん、7年も付き合ってた元カノがいるでしょ」 私は肉をさっと湯にくぐらせながら、ふっと笑って答えた。 「別に、どうでもいいよ。戻りたいなら、鏡也も連れていけば? もう、二人ともいらないから」 その時、背後で物音がした。 思わず振り返ると、すぐ後ろに夏彦と鏡也が立っていた。 二人の顔は、揃いも揃って真っ青だった。

Chapters (1)

第1章

私、露木ひより(つゆき ひより)は、冷徹な社長として知られる露木夏彦(つゆき なつひこ)と結婚した。 職場では旧姓の涼野(すずの)を使い、結婚していることを隠し続けて、もう6年。息子の鏡也(きょうや)も、父親にそっくりな、無愛想な子に育った。 職場の人から性的暴行を受けそうになった事件の裁判に、私が出廷した日。 夫と息子は、スイスへ飛んでいた。 夏彦が7年間交際していた元恋人、笠原紫苑(かさはら しおん)の気晴らしに付き合うために。 二人が悪びれもせず帰ってきたのは、裁判の日から一週間も経ってからだった。 夏彦は眉間を指で押さえ、疲れた顔で言った。 「紫苑は落ち込んでいたんだ。 今度何かあったら、必ずそばにいてあげるから」 鏡也も父親の真似をして、すました顔で私をなだめてくる。 「パパと、おみやげ買ってきたよ。 これあげるから、もう怒らないで。ね?」 私はただ、静かに頷いた。 以前のように取り乱して、声を荒らげることもなかった。 そんな私の態度に、今度は夫と息子のほうが戸惑い始めた。 ある日、親友の三浦莉奈(みうら りな)としゃぶしゃぶを食べていると、彼女はTikTokを見ながらぽつりと言った。 「ねえ、最近SNSでよく見るんだよね。長く付き合ってた元カノがいる男とは、結婚しないほうがいいんだって。 元カノに呼ばれたら、すぐそっちに戻っちゃうんだって。 ひよりも気をつけなよ。旦那さん、7年も付き合ってた元カノがいるでしょ」 私は肉をさっと湯にくぐらせながら、ふっと笑って答えた。 「別に、どうでもいいよ。戻りたいなら、鏡也も連れていけば? もう、二人ともいらないから」 その時、背後で物音がした。 思わず振り返ると、すぐ後ろに夏彦と鏡也が立っていた。 二人の顔は、揃いも揃って真っ青だった。 第1話 まだ5歳の鏡也は小さな体を強張らせ、私を見上げている。 幼い顔には、傷つき、途方に暮れたような表情が浮かんでいる。 いつも自分を一番に愛し、甘やかしてくれた母親が、なぜ「いらない」などと言ったのか、理解できないのだろう。 一方の夏彦は、冷ややかな目つきでしばらく私を見つめている。 やがて、ゆっくりと手を差し出す。 「ひより、迎えに来た。帰ろう」 私は思わず鼻で笑いそうになった。 皮肉なものだ。 以前は私がいくら頼み込んでも、夏彦は決して車で送り迎えをしてくれなかった。 会社では、夫婦だと知られたくないから。 外では、知り合いに見られるかもしれないから。 結婚して6年、彼の車に乗せてもらった回数は、片手で数えられるほどしかない。 そのことで、何度も泣いて喧嘩した。 妻なのに、助手席に座ることさえ許されないのかと。 そう訴えても、夏彦は冷めた顔で私を見るだけだった。 私が泣いて、怒って、疲れ果てるまで。 それがどういう風の吹き回しか、今日はわざわざ迎えに来てくれた。 親友に別れを告げて車の助手席に座ると、足元が少し窮屈に感じる。私はシートを少し後ろに下げた。 どうやら普段ここに座っているのは、小柄な人らしい。 例えば、夏彦が7年間付き合っていた元カノ、紫苑のように。 シートを調整した後、視界の端で何かが揺れているのが見えた。 振り返ってみると、鏡也のリュックに付いている戦隊ヒーローのキーホルダーだった。 私が買ってあげたピカチュウは、いつの間にか外されていた。 鏡也はキーホルダーをいじりながら、じっと私を見つめて言った。 「これ、紫苑ちゃんがくれたんだ」 私の反応をうかがい、少し間を置いてから、慌てて付け足した。 「ママが嫌なら、これ……」 「別に、嫌じゃないよ」 私はスマホに目を落としたまま、淡々と答える。 鏡也はピタリと動きを止めた。運転席の夏彦も一瞬驚いたようで、訝しげに私を横目で見た。 しばらくして、彼は口を開いた。冷ややかな声には、珍しく気遣うような響きが混じっていた。 「そういえば、裁判はどうなった?」 「今は結果待ち。弁護士さんがなんとかしてくれるって」 私は顔を上げることもなく、友達とのLINEのやりとりを続けた。 車内は再び静まり返った。私が一向に取り乱さないからか、今度は夏彦のほうが苛立ち始めたらしく、指でハンドルを叩いた。 そして次の赤信号で停車した時。彼はとうとう眉をひそめ、譲歩するような口ぶりで切り出した。 「分かってる。俺と鏡也が裁判に付き添わなかったことを、まだ怒ってるんだろ? こうしよう。会社で結婚を公表したいって、ずっと言ってたよな。 来週の月曜、朝礼が終わったら、俺からみんなに話す」 私は思わず顔を上げ、夏彦の見下ろすような視線と真っ向からぶつかった。 彼は平然としていたが、その目は「これで満足だろう」とでも言いたげだった。 その瞬間、私はなんだか可笑しくて吹き出しそうになった。 結婚を公表する? そんなこと、もうとっくに望んでいないのに。 第2話 婚姻届を出した日。会社での体裁を気にして、夏彦はしばらくの間、結婚の事実を伏せておこうと言った。 「お前はまだ入社したばかりで、社内でこれといった実績を上げていないだろう。 今の時期に俺の妻だと公表したら、この先、昇進したり給料が上がったりするたびに、あらぬ噂を立てられかねないからな」 その言葉は、確かに筋が通っていた。 だから、上司から嫌がらせを受けても、勤続年数が長いだけのお局社員から仲間外れにされても、コネ入社の社員に担当案件の手柄を横取りされても――私は歯を食いしばって耐え続けた。 どうしても腹の虫が治まらない時は、私たちの関係が公になる日を密かに思い描いた。 相手の立場によって態度を変えるあの人たちは、私が社長の妻だと知ったら、どんな顔をするだろう。 そう考えるだけで、少し気が晴れた。 それでも、どうしてもやりきれないことはあった。 鏡也を出産して職場復帰した後、上司は面談と称して私を呼び出し、授乳で張った胸をいやらしい目でじろじろ見るようになった。 すれ違いざまに、さりげなく体を押しつけてくることも、何度かあった。 我慢の限界に達した私は、家に帰って夏彦にそのことを訴えた。 しかし、彼は冷たい目を私に向け、突き放すように言った。 「考えすぎだ。お前は昔から自意識過剰なんだよ。 そういう被害妄想で、仕事に支障をきたさないでもらえるか。 会社では実力が全てだ。セクハラだと騒いで、特別扱いしてもらおうなんて考えるな」 私はその場に立ち尽くし、信じられない思いで彼を見つめた。 目の奥が熱くなり、悔しさに涙がこぼれそうだった。 その時ようやく気がついた。社長であり私の夫でもあるこの人は、私を信じてくれないし、私の味方にもなってくれないのだと。 それなら、自分の力でどうにかするしかない。 あの上司だって、役職は私のすぐ上というだけだ。絶対に昇進して見返してやる。その一心で、私は必死に仕事に打ち込んだ。 そしてついに、次期プロダクトマネージャーを決める社内選考で、私は審査担当者の八割から支持を得た。他の候補を大きく引き離し、確実にその座を勝ち取ったと信じていた。 しかし、結果発表の会議当日。 喜ぶ暇などなかった。 夏彦が、一人の女性を連れて会議室に入ってきたからだ。 彼女は全身をハイブランドで固め、何不自由なく育ったお嬢様のような雰囲気を漂わせていた。その表情には、無邪気とも言える傲慢さが透けて見えた。 夏彦は彼女を見つめ、珍しく口元に笑みを浮かべていた。 「紹介する。新しくプロダクトマネージャーに就任する、笠原紫苑さんだ」 会議室は静まり返った。 その場にいた全員が、驚いたように私を見た。 一方で私は、ただ呆然と夏彦を見つめていた。 彼女が新しいプロダクトマネージャーなら、私の努力は何だったの? この選考のために、3ヶ月間休みなく交渉に奔走し、顧客を開拓してきた。 手がけた企画書は、どれも推敲を重ねて仕上げた。 鏡也を寝かしつけている時でさえ、頭の中は仕事のことでいっぱいだったのに。 夫である夏彦は、そんな私を間近で見ていた。 私がどれほど必死だったか、誰よりも知っているはずなのに。 私はもう堪え切れず、声を詰まらせながら口を開いた。 「あなた……実力で勝負しろって言ったじゃ――」 「誰に向かって言っている」 夏彦は険しい顔つきで私の言葉を遮った。 私を見るその目には、わずかな温かみもなかった。まるで赤の他人を見るような目だった。 「昇進できなかったのなら、自分の実力不足を反省しろ。社長である私に、馴れ馴れしい口を利くんじゃない。 余計なことを考えている暇があるなら、自分の仕事に集中するんだな」 その言葉に、会議室のあちこちから、くすくすと笑う声が漏れた。 普段から私を快く思っていない同僚たちが、こちらを見ながら口元を隠し、何かを囁き合っていた。 その顔には、隠そうともしない嘲りが浮かんでいた。 私はその場から動けず、顔から血の気が引いていくのを感じた。 恥ずかしくて、惨めで、消えてしまいたかった。 第3話 数日後、会社のリフレッシュルームに入ろうとした時、同僚たちの話し声が聞こえてきた。 「社長って、笠原さんには本当に優しいよね。今日も車で会社まで送ってきてたよ」 「さっき社長室の前を通ったら、笠原さんに『会社で何か嫌なことがあったら、いつでも俺を頼ってくれ』って、すごく優しい声で言ってたのが聞こえたの」 「えっ、あの社長が?いつも隙がなくて近寄りがたいのに、あんな風に甘やかすんだ」 もう一人の同僚が、ニヤニヤしながら口を挟んだ。 「あんたたち、分かってないわね。笠原さんは社長の元カノなのよ」 私はドアの外で立ちすくみ、マグカップを持つ手に力を込めた。 心臓がドクンと跳ね、胸の奥が重く沈んだ。 「高校から大学まで、7年も付き合ってたんだって。学生時代をずっと一緒に過ごした仲なんだよ。 笠原さんがミラノに留学に行かなければ、別れてなかったんじゃない?」 「じゃあ、戻ってきたんだし、二人はよりを戻すんじゃない?」 「絶対そうでしょ。ふふっ、そしたら涼野さん、泣き喚くんじゃない?」 「自業自得よ。この前の会議でも、社長のこと『あなた』なんて呼んで、勝手に社長の奥さん気取りでいるんだから。社長の態度を見ればわかるじゃない。涼野さんを見るだけでもうんざりしてるって感じだったよ!」 私は壁にもたれかかった。震えが止まらず、全身が氷のように冷え切っていくのを感じた。 その時、はっきりと思い知らされた。 いつも冷静で、感情を表に出さない夫が、あんな風に誰かを優しく気遣うこともできるのだと。 周りの誰もが気づくほど、その人を大切にできるのだと。 ただ、その相手が私ではなかっただけだ。 その夜、家に帰ってから夏彦と大喧嘩になった。 私は、元カノへの未練を捨てられずにいる彼を責め立てた。 体裁を気にするふりをして、人前では絶対に私たちの関係を認めようとしないくせに。 それなのに、元カノのことは堂々と贔屓して、私が実力で勝ち取った役職まで彼女に与えるなんて。 どうして彼女のことになると、体裁なんて気にしなくなるのよ! 夏彦は言い返すことも、私の言葉を遮ることもなかった。 ただソファに深く腰掛け、グラスを傾けながら、声を荒らげる私を静かに眺めているだけだった。 最初から最後まで、表情ひとつ変えずに。 私が涙ながらに鬱憤をすべて吐き出し、ようやく言葉が途切れた時、彼は冷ややかに口を開いた。 「もう気は済んだか? 済んだのなら、鏡也を寝かせてこい」 外は激しい雨が降っていた。 叩きつけるような土砂降りの中、雷の音が窓ガラスを震わせた。 私は涙を拭い、鏡也を抱き寄せた。 ベッドに横たわらせ、背中をそっと撫でながら、寝かしつけようとした。 夫婦のいざこざに、子供を巻き込みたくはなかった。だから、息子の前では夫への不満を一言も口にしなかった。 だが、鏡也は私の赤く腫れた目を見つめ、小さな手を伸ばして、ぎこちなく涙を拭ってくれた。 「ママ、泣かないで。 ママが悲しいと、ぼくも悲しくなっちゃう」 私は息を呑んだ。 その温かい小さな体をきつく抱きしめると、堰を切ったように涙が溢れ出した。 この子を悲しませるわけにはいかない。 そう思うと、結局、離婚を切り出すことはできなかった。 第4話 けれど、子どもはあっという間に成長する。 父親譲りの冷めた気質も、少しずつ顔を出し始めた。 気づけば鏡也は、口数が少なく、無愛想な子になっていた。 鏡也は体が弱く、アレルギー体質だった。 そのため、私はつい神経質になり、あれは駄目、これは駄目と口を出してしまっていた。 鏡也には、それが鬱陶しかったのだろう。 次第に私を嫌がるようになり、夏彦が休日に連れ出した先で、何でも好きにさせてくれる紫苑と過ごしたがるようになった。 ある日、私は夏彦と口論になった。 「笠原さんがみんなの前で、私が彼女の企画を盗んだって言い掛かりをつけてきたの。謝らないなら会社を辞めろって。 でも、あの人の企画書は、あなたが手取り足取り直してあげてるんでしょう? 私の企画書を見せたんじゃないの? いくらなんでも、酷すぎるわ!」 夏彦は眉間を揉み、呆れた様子で私を見た。 「彼女が俺の元カノだというだけで、目の敵にして、そんな理不尽な言いがかりをつけるのか? 相手の過去にまで嫉妬するなんて、どうかしてるぞ。 必要なら、カウンセリングでも予約してやろうか?」 その卑劣な言い草に頭に血が上り、私は体を震わせながら、最低な男だと彼を罵った。 怒鳴り散らしているうちに、また涙がこぼれ始めた。 泣きたくなんかなかった。 それなのに止められず、私はますます惨めになった。 子どもは、大人の振る舞いをよく見ている。 もともと私を鬱陶しがっていた鏡也は、あのとき覚えてしまったのだと思う。 優しい紫苑ちゃんを一方的にいじめているママには、こんな態度を取ってもいいんだと。 それ以来、彼は夏彦の真似をするようになった。 私が紫苑を責めるたびに、鏡也は理由も聞かずに彼女を庇った。 私にはそっぽを向き、生意気な口答えをして、何を言っても取り合おうとしない。 私が取り乱して泣き叫ぶ姿を、ただ見ていた。 その目には、時折勝ち誇ったような色さえ浮かんでいた。 そんな日々が2年も続いた。 夏彦は元カノにすっかり心を奪われているくせに、私と離婚しようとはしなかった。 しかも、彼女が職場でミスをするたびに、その尻拭いをさせられるのは私だった。 そんな毎日に、私はすでに心身ともに疲れ果てていた。 私を限界まで追い込んだのは、二度目の昇進選考だった。 その時、私はもう入社7年目になっていた。 私は誰よりも真面目に働き、社内でも仕事ぶりを認められていた。取引先からの評価も高かった。 それなのに、同期たちが次々と昇進や昇給を果たしていく中で、私だけは、給料が上がるどころかボーナスまで減らされ、いつまでもヒラ社員のままだった。 社内でも、私を嘲笑う人より、同情する人の方が多くなっていた。 私は二度目の選考に大きな期待を寄せていた。 選考では、審査に当たった人たちの九割から支持を得て、一位になった。 今回こそは昇進確実だろうと思った。 さすがに、また別の元カノが現れて、私のポストを奪うことはないだろう。 確かに、別の元カノは現れなかった。 だがその代わり、外部から一人の男性が中途採用された。 そしてまたしても、私が就くはずだったポストは、その人のものになった。 納得がいかず、私は説明を求めようと、社長室のある最上階へ向かった。 けれど、廊下の角を曲がろうとしたところで、紫苑の声が聞こえた。 そっと角の向こうをうかがうと、紫苑があの男性に親しげに呼びかけていた。 「先輩」 第5話 その後、私は紫苑の「先輩」と一緒に地方へ出張することになった。 彼は私の飲み物に薬を盛り、意識の朦朧とした私をホテルに連れ込もうとしたのだ。 あと少しで、取り返しのつかないことになるところだった。 どうにか逃げ出した私は、その夜のうちに警察署へ駆け込んだ。 駆けつけた夏彦は、震える私を力強く抱きしめた。 顎を私の頭にそっと乗せ、背中を何度も撫でた。 顔を上げると、その目には私を案じる色が浮かんでいた。 「もう大丈夫だ、ひより。 あいつには、必ず責任を取らせてやる」 彼の温かい腕に身を委ねながら、私は鼻の奥がツンとするのを感じた。 とっくに彼に愛想を尽かしたつもりだったのに、その瞬間、心がほんの少しだけ揺らいだ。 その言葉通り、夏彦はすぐさま腕の立つ弁護士を手配してくれた。 証拠を集め、資料を整理し、ほどなくして損害賠償を求める訴えを起こした。 鏡也も、少し大人びた顔で私を慰めてくれた。 「ママ、怖がらなくていいよ。ぼくとパパが、ずっとそばにいるから」 しかし、裁判の当日。 二人は私に黙って空港へ行き、紫苑と一緒にスイスへ飛び立った。 「紫苑は、信頼していた先輩があんな人間だったなんて、受け入れられないみたいで。 ここ数日、何度も泣くほど落ち込んでいたから、気晴らしに付き合うことにした」 スイスからの電話の向こうで、夏彦は悪びれる様子もなく淡々と説明した。 私は何も答えなかった。 ただ静かに目を閉じ、自嘲気味に笑っただけだった。 その日の法廷では、相手側の要求により、証拠として提出した動画の原本データを確認することになっていた。 けれど、当事者席でスマホを開いた私は、目を疑った。 あの日、隙を見て隠し撮りした最も重要な動画が、完全に消去されていた。 裁判官は眉をひそめ、事務的な口調で私と弁護士に告げた。 「スマホの元の動画データが確認できないとなると、提出されたコピーの信憑性や証明力について、相手方から厳しく争われる可能性が高くなります。 ほかの証拠と合わせて被害の事実を判断することになりますが、よろしいですね?」 私は青ざめた顔で答えた。 「はい」 その日の審理が終わった後、私は再び夏彦に電話をかけた。 ここ数日、私のスマホに触れる機会があったのは、彼と鏡也だけだ。 すると、電話の向こうから鏡也の声がした。 「ぼくが消したんだよ。だって紫苑ちゃん、すごく悲しんでたから。 先輩があんな悪いことしたなんて信じられないって、いっぱい泣いてたんだ。 ぼく、紫苑ちゃんに泣いてほしくなかったから。あの動画がなくなれば、先輩も悪い人じゃなくなるんでしょ?」 そして、鏡也は付け加えた。 「だってママ、結局、無事だったんでしょ?」 電話の向こうから聞こえる鏡也の幼い声には、無邪気さと残酷さが入り混じっていた。 私はスマホを握りしめたまま、裁判所の入り口に立ち尽くしていた。 6月の日差しが、頭を焼くように照りつける。 それなのに、体の芯まで冷えきっていた。 その瞬間。 6年間、胸の奥で必死に守り続けていたものが、ふっと消えた気がした。 そして、初めて思った。 この二人がいなくても、私は生きていける。 第6話 車内には、沈黙が流れていた。 私が何も言わないでいると、夏彦はわずかに眉を寄せた。 「なんだ、その顔は。 結婚を公表するのは、お前がずっと望んでいたことだろ?」 私はスマホの画面を消し、静かに答える。 「結構よ。今さら、公表する必要はないと思う」 夏彦は、ハンドルを握る手にぐっと力を込めた。喉仏を上下させ、少し掠れた声で尋ねた。 「どういう意味だ?お前、まさか……」 そのとき、夏彦のスマホが鳴った。 明るくなった画面に、紫苑の名前が表示された。 夏彦が通話をつなぐと、スピーカーから甘えた声が流れてくる。 「東城の案件なんだけど、いくつか分からないところがあって。 ねえ夏彦、教えてくれない?」 夏彦の返事を待たず、彼女はふと何かを思い出したように、わざとらしく付け加えた。 「あ、そうだ。こんな時間に電話したら、また奥さんに怒られちゃうかな?」 夏彦は淡々と答えた。 「あいつのことは気にするな」 そうして、夏彦は案件の要点を説明し始めた。普段とは別人のような優しい口調で、同じことを何度聞かれても、丁寧に答えている。 しばらく話したところで、夏彦はちらりと横を向き、私の反応をうかがった。 私は頬杖をつき、ただ窓の外を眺めている。 表情は穏やかで、何の感情も浮かんでいない。 窓ガラスに映る彼は、一瞬呆気にとられたように固まり、それから訝しげに眉を寄せた。 無理もない。以前の私は、二人が親しげにしているだけで夏彦を問い詰め、取り乱していた。今日はどうしてこんなにも無関心でいられるのか、理解できないのだろう。 紫苑はまだ、電話の向こうで楽しそうに話し続けている。 それを聞いていた私は、小さくため息をつき、静かな声で言った。 「電話、やめてもらえる?」 夏彦の口元に、やっぱりそうか、とでも言いたげな笑みが一瞬浮かんだ。 「前にも言っただろ。紫苑とは、もう終わってる。くだらないやきもちはよせ」 「そんなんじゃないわ」 私は首を横に振る。 「運転に集中してって言っているの。私、自分の命は惜しいから。事故に巻き込まれるのはごめんだわ」 夏彦は気まずそうに視線を前に戻し、そのまま、何も言えなくなった。 …… 翌日は土曜日だった。 私は親友の莉奈と、その息子の陸(りく)と一緒に、湖畔へデイキャンプに出かけた。 陸は鏡也より一つ年上だ。 少しぽっちゃりしていて、笑うと両頬にえくぼができる。 明るくて人懐っこく、本当に愛嬌のある子だ。 私は新作のラジコンカーを持ってきていた。 赤と青を基調にした流線型の車で、本当は鏡也のために買ったものだった。 しかし鏡也は、箱を開けようともせず、冷めた顔で「いらない」と言い放った。 それどころか、私を見上げ、小馬鹿にするように鼻で笑ったのだ。 「紫苑ちゃんが買ってくれるおもちゃって、もっといいやつなんだよ。ママ、知らないの?」 私は何も言えず、そのラジコンカーを戸棚の奥に仕舞い込んだのだった。 けれど、陸はそれを見て目を輝かせた。 彼は箱を大事そうに抱え込み、「ひよりママ、ありがとう!最高!」と歓声を上げた。 それから、私の腰にギュッと抱きつき、満面の笑みを向けてくれた。 「ぼく、ひよりママのこと世界一だーい好き!」 莉奈がわざと拗ねた顔をする。 「じゃあ、こっちのママは?」 陸はえへへと笑った。 「二人ともだーい好き!」 午後は三人で遊んで過ごした。 この可愛いお調子者のおかげで、私の口元は緩みっぱなしだった。 夕暮れ時、私たちは荷物をまとめ、駐車場へと向かって歩き出す。 陸はコントローラーを握り、ラジコンカーを走らせている。 彼はすっかり夢中になって、キャッキャと声を上げて笑っていた。 そして、弾けるような笑顔で私を見上げた。 「ひよりママ、これすっごく楽しいよ! なんでぼくが好きなの、わかったの!ひよりママって天才?」 莉奈は彼のおでこを指でツンと突いた。 「もう。調子がいいんだから」 私は思わず吹き出し、何か言おうと口を開きかけた。 その時、斜め後ろから小さな人影が飛び出し、陸を思い切り突き飛ばした。 そして、憎悪に満ちた金切り声を上げた。 「誰がおまえのママだよ!ママはぼくだけのママだ! そのおもちゃも、ぼくのものだ!返せ、泥棒!」