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花火が消えた夜、恋も終わった
鎌仲白斗(かまなか はくと)は、世界でいちばん有名な花火デザイナーだ。 彼と7年も付き合ってきた私・作田穂香(さくだ ほのか)は、私だけのために花火を打ち上げてほしいと、何度も遠回しに伝えてきた。 そのたびに、白斗は私の頭を優しく撫でた。 「次の誕生日には、いちばんきれいな花火を作ってやる」 誕生日の夜、胸を弾ませて海辺へ急いだ私が目にしたのは、夜空いっぱいに咲く花火の下で、竹森千夏(たけもり ちなつ)と白斗が抱き合っている姿だ。 花火が海の上で大きく弾ける。 そのきらめきは、まるで私には縁のない夢のようだ。 その場に立ち尽くしていると、誰かが楽しそうに噂している声が聞こえてきた。 「このデザイナー、毎年ここで、憧れの女のために花火を打ち上げてるんだって。 一回で何千万円もかかるらしいよ。ほんと、一途だよね」 私は人垣のいちばん外側に立ち、夜空から降り注ぐ光に包まれた二人を見つめている。 ふいに、胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。 家に帰ると、白斗はきれいにラッピングされた箱を取り出し、私に差し出した。 「誕生日おめでとう!プレゼントはこれ、ロボット掃除機。 これからは家事をこいつに任せれば、穂香も腰を痛めなくて済むだろ」 私はうつむいて、そのロボット掃除機を見つめた。 そして、ふっと穏やかに笑った。 白斗を7年も愛してきたけれど、その恋に終止符を打つのは、ほんの一瞬で十分だ。
Chapters (1)
第1章
鎌仲白斗(かまなか はくと)は、世界でいちばん有名な花火デザイナーだ。
彼と7年も付き合ってきた私・作田穂香(さくだ ほのか)は、私だけのために花火を打ち上げてほしいと、何度も遠回しに伝えてきた。
そのたびに、白斗は私の頭を優しく撫でた。
「次の誕生日には、いちばんきれいな花火を作ってやる」
誕生日の夜、胸を弾ませて海辺へ急いだ私が目にしたのは、夜空いっぱいに咲く花火の下で、竹森千夏(たけもり ちなつ)と白斗が抱き合っている姿だ。
花火が海の上で大きく弾ける。
そのきらめきは、まるで私には縁のない夢のようだ。
その場に立ち尽くしていると、誰かが楽しそうに噂している声が聞こえてきた。
「このデザイナー、毎年ここで、憧れの女のために花火を打ち上げてるんだって。
一回で何千万円もかかるらしいよ。ほんと、一途だよね」
私は人垣のいちばん外側に立ち、夜空から降り注ぐ光に包まれた二人を見つめている。
ふいに、胸の奥が締め付けられるように苦しくなった。
家に帰ると、白斗はきれいにラッピングされた箱を取り出し、私に差し出した。
「誕生日おめでとう!プレゼントはこれ、ロボット掃除機。
これからは家事をこいつに任せれば、穂香も腰を痛めなくて済むだろ」
私はうつむいて、そのロボット掃除機を見つめた。
そして、ふっと穏やかに笑った。
白斗を7年も愛してきたけれど、その恋に終止符を打つのは、ほんの一瞬で十分だ。
第1話
白斗はロボット掃除機の箱を開けながら、真剣な表情で言った。
「これ、最新型なんだ。すごく賢いんだぞ。
どんな汚れでもきれいに取れるんだって。穂香はきっと楽になる」
私は箱に書かれた値段を見た。
54万円。たしかに安くはない。
以前の私なら、きっとこう自分に言い聞かせていたのだろう。
白斗は私を愛している。ただ、その愛し方が現実的すぎるだけなのだと。
けれど今夜、私はあんなにも盛大な花火を見てしまった。
金色の光が海面から空の果てまで伸び、まるでいつまでも終わらない夢のようにきらめいていた。
それなのに、その夢は私のものではなかった。
私はそっと尋ねた。
「今夜の花火、白斗がデザインしたの?」
白斗の手が一瞬止まった。けれど、口を開いたときには、いつもと変わらない調子だ。
「ああ。千夏が帰国したんだ。
彼女には毎年花火を打ち上げるって約束してるからな」
毎年。
その言葉がゆっくりと響き、心の奥に何かがじわりとのしかかってきた。
私は7年も待っていた。
白斗に余裕ができるのを。彼の言う「今度」を。
そして、いつか必ず、いちばんきれいな花火を作ってやると、彼が口にするその日を。
けれど、千夏は待つ必要なんてなかった。
毎年、花火を見られるのだから。
白斗は私が黙り込んだことに気づいたのか、傍らに寄ってきて私の手を握った。
「穂香、花火なんて、燃え尽きたらそれで終わりだろ。
掃除機を買ったのは、本当に少しでも楽になってほしいと思ったからなんだ」
私は小さく笑った。昔のように、責め立てるような口調で問い詰めたりはしなかった。
白斗はほっとしたように息をつき、私の頭を撫でた。
「気に入ってくれると思った。
穂香は昔から聞き分けがいいからな」
聞き分けがいい。
また、その言葉だ。
この7年、私は何度もそう言われてきた。
誕生日に花束がほしいと言えば、白斗は新しいオーブンを買ってきた。
「花なんて数日で枯れちゃうだろ。こっちなら何年も使える」
記念日には海へ行きたいと言ったのに、渡されたのはマッサージ器だった。
「いつも肩や首が痛いって言ってるだろ。わざわざマッサージ店に行くより、こっちのほうが役に立つぞ」
もう少し特別なことがしたいと言うと、白斗は笑いながら私を抱き寄せた。
「もうこんなに長く一緒にいるんだぞ。
そんなわがままなこと言うな」
あの頃の私は、白斗がただロマンチックなことには疎いだけなのだと思っていた。
花火のデザインを仕事にしている白斗は、華やかなものやきらびやかなものを見慣れている。
ロマンチックなことを知り尽くしている人ほど、日々の生活にそんなものを持ち込むなんて馬鹿げていると思うのかもしれない。
そう思っていた。
けれど、今夜ようやくわかった。
白斗はロマンチックなことに疎いわけじゃない。
ただ、私にはそうしてくれないだけだった。
千夏が金色の尾を引く花火を好きだと言えば、白斗は彼女のために午前3時まで調整を重ねる。
千夏が海を好きだと言えば、海一面を舞台に花火を打ち上げる。
そこでふと、思い出した。
今夜の花火の中でもひときわ美しかった、青紫色の尾を引く花火。
あれは7年前、私が何気なく描いて白斗に見せたものだった。
あのとき私は机に突っ伏し、興奮しながら話した。
「白斗、いつか私のために花火を打ち上げてくれるなら、海に落ちていく天の川みたいにしてくれない?」
それを聞いた白斗はふっと笑った。
「子供っぽいな。花火って、そういうふうにデザインするもんじゃないんだ」
なのに今夜、その子供っぽい天の川は、千夏の頭上に広がっていた。
そのとき、白斗のスマホが光った。
画面に浮かんだのは、千夏の名前だ。
白斗は画面を一瞥すると、スマホを持ってベランダへ出ていった。
ベランダの扉は、きちんと閉まっていない。
白斗が声を潜めて話しているのが聞こえてくる。その声には、私が一度も向けられたことのない甘さが滲んでいる。
「今日の青紫色の尾を引く花火、気に入った?」
「うん、あれは昔、穂香が何気なく話してたアイデアなんだ」
「あいつは花火のことなんてわかってない。ただ、口ではうまいことを言うから、少し手を加えて使ってみたんだ」
指先がびくりと強張った。
次の瞬間、千夏が何かを尋ねる声が聞こえた。
白斗は小さく笑った。
「気にしないに決まってる。あいつは昔から聞き分けがいいからな。
それに、毎日洗濯と飯の支度ばっかりしてるんだぞ。花火の何がわかるっていうんだ?
俺の花火は、わかる人にだけ見せるんだ。
たとえば、千夏みたいな人にな」
私は、スマホに表示された中絶手術の予約完了画面を見つめている。
急に、何もかもがおかしく思えてきた。
7年も待ち続けた花火は、白斗にとって、私を愛しているかどうかの証ではなかったのだ。
そもそも、私にはそれを見る資格などないのかもしれない。
以前の私は、もう少し待てば、いつか白斗も振り向いて私を見てくれるはずだと思っていた。
けれど今、花火はすべて消えた。
私もそろそろ、白斗の世界から身を引くときなのだ。
第2話
翌日、白斗と私は大学の同窓会に出席した。
まさか千夏まで来ているとは思いもしなかった。
千夏は白いドレスを身にまとい、白斗の隣に座っている。
誰かが面白がるように、からかうような声を上げた。
「竹森も来たのか?
昔、お前と鎌仲はうちの大学でいちばん有名なカップルだったな。
片や花火デザインの天才、片や写真学科のマドンナ。
卒業したら結婚するんだろうって、みんな思ってたぞ」
入口に立った私は、思わず足を止めた。
千夏は私より2学年上だった。
学生時代、私はずっと彼女に憧れていた。
きれいで、明るくて、作品はいつも学校の展示室のいちばん目立つ場所に飾られていた。
あの頃、私が初めて白斗の名前を耳にしたのも、千夏がきっかけだった。
誰もが口をそろえて、二人は運命の人だと言っていた。
その後、白斗が私に告白してきたとき、私はひそかに思ったことがある。
もしかしたら、運命が一度くらい、私の味方をしてくれたのかもしれない、と。
けれど今、千夏は彼の隣に座っている。
周りの人たちが口にする冗談交じりの言葉が、細い針となって、私の胸に何本も何本も突き刺さった。
私はどうにか笑顔を作り、白斗のもう片側に座った。
同窓会も半ばを過ぎた頃、トイレに立った。
戻ってくると、個室の扉が少し開いたままになっている。
中では誰かが酔っ払い、笑いながら尋ねた。
「なあ、鎌仲。正直に聞かせてくれ。
昔はあんなに竹森と仲がよかったのに、どうして急に作田を口説くようになったんだ?
今でも、あれだけはどうにも理解できないんだぞ」
個室の中が、数秒間静まり返った。
白斗は酒を飲んでいたせいか、いつもより気の抜けた口調で答えた。
「もう昔のことだろ」
すると、千夏がふいに笑った。
「別に隠すようなことじゃないでしょ。
あの頃、私と白斗はひどい喧嘩をしてたの。彼は、自分が私じゃなきゃ駄目ってわけじゃないんだって、意地になって証明しようとしたのよ」
声はとても小さかった。それでも、その言葉はひとつ残らず私の耳に届いた。
「あの日、ちょうど作田さんが通りかかったの。
白斗ったら、適当に指を差して言ったのよ。
『千夏、見てろ。3日以内に、あいつを落としてみせる』ってね。
『俺が、お前じゃなきゃ駄目だとでも思ってるのか?』って」
個室の中で、誰かが吹き出した。
「マジ?じゃあ、作田は二人が喧嘩してるときに、たまたま巻き込まれただけってことか?」
千夏はすぐには答えなかった。
数秒して、ようやく口を開いたときには、さすがにまずいと思ったのか、そっとため息をついた。
「そういうつもりで言ったんじゃないの。
作田さんはいい子よ。
ただ、あのときのことがきっかけだったのは、本当なの」
その瞬間、周りの音がすべて遠のいた。
胸の奥から込み上げる苦しさに、息さえまともにできなくなりそうだ。
運命が私に与えてくれた恋だと思っていたもの。
それは、白斗が意地を張って、たまたま指差した相手に仕掛けた、ただの悪ふざけだった。
私は何度も何度も、初めて白斗と出会った日のことを思い返してきた。
本を抱えて歩いていた私を彼が呼び止め、目元に笑みを浮かべて尋ねた。
「よかったら連絡先を交換しない?」
白斗の肩に陽の光が降り注いでいた。まるで夢の中から現れた男の子のようだった。
あのとき、私は思ったのだ。
ようやく、運命が一度くらい私を選んでくれたのだと。
けれど今になって、ようやくわかった。
私の7年間は、最初から最後まで、まるごと笑いものだったのだ。
誰かがさらに尋ねた。
「じゃあ、白斗は今、後悔してるのか?」
個室の中が、ふいに静まり返った。
私は息を潜めた。
ここまでのことがあったのに、私はまだ白斗の答えを待っている。
後悔なんてしていない、と。あれから本当に私を愛するようになったのだと、そう言ってほしい。
けれど、白斗は長い間、黙り込んだままだ。
あまりにも長く、手のひらが少しずつ冷たくなっていくほどだ。
それでも、彼は何ひとつ答えなかった。
あの瞬間、私はむしろ、白斗に一度くらい嘘をついてほしいとさえ思った。
せめて、私を騙してくれたらよかったのに。
けれど、白斗は最後まで答えなかった。
世の中には、口に出されないほうが、かえって残酷な答えもあるのだ。
そのとき、個室の中から、食器が倒れる音がした。
千夏が小さく悲鳴を上げた。
「熱っ!」
白斗は、ほとんど思わず立ち上がった。
次の瞬間、個室の扉が勢いよく開いた。
白斗は千夏を抱きかかえ、慌ただしく外へ出てきた。そして、扉の前に立っていた私に、まともにぶつかった。
勢いよく押し倒された私は、床に激しく叩きつけられた。
お腹に、鋭い痛みが走った。
何かが、無理やり引き裂かれたような痛みだ。
白斗は私を見下ろし、眉をひそめた。
「穂香、こんなところで何してるんだ?」
痛みで声を震わせながら、私は思わずお腹を押さえた。
「実は私、白斗の子を……」
最後まで言い終える前に、千夏が小さく息を呑んだ。
白斗の視線は一瞬で彼女に向き、目には隠しきれない焦りが浮かんでいる。
「俺が千夏を病院へ連れていくから、穂香は先に一人で帰っててくれ。
ちょっと転んだだけだろ。家で少し休めばよくなる」
私は彼の袖をつかみ、指先まで震えている。
「違うの、私……」
言い終える前に、白斗は私の手を振りほどき、足早にその場を去っていった。
私のそばを通り過ぎる一瞬、千夏がこちらに笑いかけるのが見えた。
その目には、むき出しの挑発と勝ち誇った色が浮かんでいる。
私は冷たい廊下の床に座り込み、遠ざかっていく白斗の背中を見つめた。
お腹が、何度も何度も鈍く痛む。
生温かい血が、脚を伝って少しずつ流れ落ちていく。
結局、私は一人で病院へ行った。
医師は検査結果に目を通すと、眉をひそめて言った。
「赤ちゃんは、今のところ無事です。
でも、これ以上、心身に負担をかけてはいけません。無理も禁物です」
医師は、コートを腕にかけ、カバンを抱え込む私に目を向けた。
「ご家族の方は?」
私は長い間黙っていて、それからそっと答えた。
「いません」
その瞬間、ひどく馬鹿らしく思えた。
この子には、確かに父親がいる。
それなのに、その父親に知らせる機会さえ与えてもらえなかった。
第3話
病院を出る頃には、すっかり日が暮れている。
薬袋を握りしめ、家へ帰った。
扉を開けた途端、リビングから千夏の笑い声が聞こえてきた。
彼女は私のウェディングドレスを着て、姿見の前に立っている。
その後ろでは白斗がうつむきながら、彼女の肩にかかったベールを丁寧に整えている。
そのドレスは、私が5軒もの店を回って、ようやく決めたものだった。
試着のとき、白斗に写真を送って、どっちが似合うか尋ねたことがある。
彼はずいぶん時間が経ってから、ようやく返事をくれた。
【どっちでもいいんじゃない?】
けれど今、ウェディングドレス姿の千夏を見つめる白斗は、明らかに一瞬、目を奪われた。
鏡越しに私に気づいた千夏は、すぐに慌てた様子でドレスの裾を押さえた。
「作田さん、誤解しないでね。
ウェディングドレス、さっきちょうど届いたの。
今日、作田さんの顔色がよくなかったから、代わりに試着してあげただけよ」
私は玄関に立ったまま、薬袋を指が白くなるほど強く握りしめている。
ドレスのウエストは、安全ピンで留め直されている。
ちょうど千夏の体にぴったり合うように。
ふと、最初に私が試着したときのことを思い出した。
腰のあたりが、少し緩かったのだ。
店員が調整してくれている間、私は振り返って白斗に尋ねた。
「このくらいがいい?それとも、もう少しぴったりしたほうがきれいかな?」
あのときの白斗は、上の空でちらりと私を見ただけだった。口調もそっけなかった。
「どっちでもいい」
それなのに今、彼は千夏のために、ドレスの皺を一つひとつこんなにも丁寧に整えている。
もう、問い詰める気力さえ残っていない。
心の中には、虚しさだけが広がっている。
千夏はすぐに、テーブルの上にあった結婚式の花火の企画書を手に取った。
「あ、そういえば。結婚式で打ち上げる花火の企画書、さっきちょっと見たんだけど。
今のテーマだと、ちょっとありきたりよね。
青紫色の天の川に変えられないかな?」
そう言ってから、何かを思い出したように私の方を振り返った。
「作田さん、気にしないでね。
ただ、そっちのほうがロマンチックだと思っただけなの」
その瞬間、喉の奥が何かで塞がれたように苦しくなった。
青紫色の天の川。
また、青紫色の天の川。
それは7年前、私が白斗のために描いた花火だった。
7年も待ち続けて、結局叶わなかった願いだった。
なのに白斗は、企画書に目を落としたまま答えた。
「いいよ」
少し間を置いて、さらに言った。
「結婚式の花火なんだから、確かに華やかなほうがいい。
やっぱり千夏は、俺のことをよくわかってるな」
私は、急に馬鹿馬鹿しく思った。
私のウェディングドレスを、千夏が着ている。
私の結婚式が、千夏の好きな形に変えられていく。
私の願いでさえ、千夏に認められて初めて、夜空に打ち上げる資格を得るのだ。
千夏はさらに、席次表をめくった。
「私がもう少しメインテーブルの近くに座ったほうがいいかな?」
私に誤解されるのを恐れたのか、千夏は小さな声で言い添えた。
「私と白斗は、昔付き合ってたでしょ?
あまり離れた席だと、かえって後ろめたいことがあるみたいに思われちゃうかもしれないし」
白斗は落ち着いた声で答えた。
「もちろん、メインテーブルのすぐ近くに座ればいい。千夏は他人じゃないんだから」
私は玄関に立ったまま、おかしくてたまらない。
千夏は、他人ではない。
それなら、花嫁である私は、昔話に花を咲かせる二人の邪魔をしに来た他人のようなものなのだろう。
白斗がこちらに歩み寄り、私を支えようと手を伸ばした。
「先に休んでろ。
結婚式のことは、千夏に見てもらえばいい。穂香よりセンスがいいしな」
私は冷たくその手を避け、寝室へ向かった。
白斗は、ほっとしたようだ。
きっと、私がまたいつものように折れたと思っているのだろう。
私はクローゼットから、自分の服を一着ずつ取り出した。
ロボット掃除機はまだリビングで動き回っており、テーブルの脚に何度もぶつかっている。
まるで、この7年間にあった、ことごとく場違いな気遣いのように。
もう、振り返ることはない。
ただ静かに、身分証やカード、パスポートを荷物にまとめた。
リビングでは、白斗と千夏が、次の花火をどれだけ盛大なものにするか、まだ話し合っている。
幸いなことに、どれほど盛大な花火も、もう私にはいらないのだ。
第4話
午前2時、お腹を襲う激痛で目が覚めた。
壁に手をつきながら体を起こすと、目の前が何度も暗くなった。
白斗は家にいない。
数秒迷った末、彼に電話をかけた。
何度も呼び出し音が鳴って、ようやくつながった。
千夏が泣き声まじりに白斗の名前を呼ぶ声が聞こえた。
白斗の声はひどく慌てている。
「穂香、どうした?」
私は壁にもたれ、息をするのも苦しいほどの痛みに耐えながら答えた。
「白斗……
私、ものすごく血が出てる……」
電話の向こうが、一瞬静かになった。
けれど次の瞬間、千夏がまた泣きながら白斗を呼んだ。
白斗はすぐに口を開いた。
「とりあえず自分でタクシーを呼んで病院に行ってくれ。
千夏が花火の火の粉で手を火傷したんだ。今はそばを離れられない」
私は指先に少しずつ力を込めた。
千夏の手の甲に飛んだのは、ほんのわずかな火の粉。
それでも、血まみれになっている私より大事なのだ。
私は静かに尋ねた。
「白斗、もし私が本当に大変なことになったら、どうするの?」
彼は苛立ったように息を吸った。
「そんなこと言うな。どうしていつも、こんなときに限って面倒を起こすんだ?
千夏は本当に痛がってるんだ。少しは聞き分けよくしてくれ」
電話の向こうで、また千夏の泣き声が響いた。
白斗は声を落として言った。
「もう切るぞ。病院に着いたら連絡してくれ」
通話が切れ、ツーツーという音が鳴った。
部屋は再び静まり返った。
私はうつむき、手のひらについた血を見つめた。
ふいに、7年分の恋なんて、結局この程度のものだったのだと思った。
もう、これ以上何かを言う意味さえない。
自分で救急車を呼んだ。
搬送される間、ずっとお腹を押さえている。
それでも血は止まることなく流れ続けた。
痛みがいちばんひどくなったとき、ふと思った。
このまま道の途中で死んでしまっても、それはそれでいいのかもしれない、と。
少なくとも、7年間も白斗に費やした時間が無駄だったと認めずに済むのだから。
病院に着くと、看護師が慌てて私を支えた。
「ご家族の方は?」
私は数秒黙った。
それから、首を横に振った。
「いません」
そう口にすると、意外にも、想像していたほどの痛みはない。
ただ、空っぽだ。
何かがようやく、すっかり抜け落ちてしまったような感覚だ。
診察を終えた医師は、ひどく険しい顔をしている。
「赤ちゃんは助かりませんでした。
流産による出血もひどかったんです。もう少し処置が遅れていたら、命に関わるところでした」
医師は少し間を置き、声を和らげた。
「今後、妊娠するのは難しくなるかもしれません」
私はベッドに横たわり、頭の上の青白い照明を見つめている。
涙は一滴もこぼれなかった。
そのとき、スマホが震えた。
千夏がSNSに写真を投稿したのだ。
写真の中で、彼女の手の甲はほんの一部が赤くなっているだけだ。
白斗は彼女の前に片膝をつき、ひどく慎重な手つきで薬を塗っている。
添えられた言葉は、こうだ。
【火の粉が降ってきたとき、そばにいてくれてよかった】
その下には、こんなコメントが並んでいる。
【鎌仲くんが心配しすぎじゃないの?
火傷っていうより、愛されすぎてるって感じだね】
千夏は照れている顔の絵文字で返信した。
【もう、大げさなんだから】
私はその言葉を見つめ、ふっと笑った。
大げさなほどの心配。
そんなもの、どうして一度も私に向けてくれなかったのだろう。
千夏の手の甲が少し赤くなっただけで、白斗は大騒ぎした。
一方、血まみれの私に対しては、ただ騒ぎ立てているとしか思わなかった。
夜が明ける頃、ようやく点滴が終わった。
私は疲れきった体を引きずるようにして家へ帰った。
リビングは静まり返っている。
ロボット掃除機は、いつの間にか充電が切れて止まっていた。
まるで、ようやく役目を終えた道化のようだ。
私は診断書を取り出し、食卓の上に置いた。
その隣には、指輪も置いた。
もはや、どちらもどうでもいいものだ。
3時間後の飛行機に乗り、ここを離れる。
そして、白斗の世界から消えるのだ。
……
白斗が帰ってきたのは、午前中になってからだ。
手には薬をぶら下げている。
昨夜、穂香がひどく血を流していると言ったことを、ようやく思い出したようだ。
彼は扉を開け、まずリビングの真ん中に止まったロボット掃除機を見た。
次に、半分ほど空になったクローゼット。
最後に、食卓の上に置かれた指輪と診断書に目を留めた。
白斗はぴたりと足を止め、診断書を手に取った。
視線が、そこに書かれた文字の上を走る。
【流産】
【流産後の大量出血】
【今後、妊娠しにくくなる可能性あり】