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恋の幕引きは私から
彼氏の小田島弘也(おだしま ひろや)は、デリバリーを注文してくれた。 届いたのは、チーズがどろりと溶け出したダブルチーズバーガーと、揚げたてのフライドポテト。 こってりした料理は、彼の元カノの大好物だった。 けれど、私・桑谷夢子(くわたに ゆめこ)は脂っこいものが苦手で、少し食べただけでもすぐ胃もたれしてしまう。 あれほど何度も言っておいたのに。 彼がフードデリバリーアプリでお気に入りに登録しているのは、どれもこってりした料理のお店ばかりだ。 彼はいつも「忘れてた。次はちゃんと選ぶ」と言った。 そして私は、いつだってその言葉を信じてきた。 今日までは。 今日は、腸の手術を終えて退院し、家に帰った初日だ。 退院する前、医師は弘也に念を押していた。 今の私は、まだ脂っこいものを食べてはいけないと。 そうしなければ、再発して命に関わるおそれもあると。 それなのに、彼はまた忘れた。 いつものように黙って我慢して、届いたものを食べるようなことはしなかった。 そのせいで午後ずっと胃の痛みに苦しむのも、もうごめんだ。 私は3年間、自分の好みに合わないデリバリーを食べ続けてきた。 でも、もうこれ以上、我慢したくない。 自分の口に合わないものを、もう食べたくない。 私のものではない人に、これ以上しがみついていたくもない。
Chapters (1)
第1章
彼氏の小田島弘也(おだしま ひろや)は、デリバリーを注文してくれた。
届いたのは、チーズがどろりと溶け出したダブルチーズバーガーと、揚げたてのフライドポテト。
こってりした料理は、彼の元カノの大好物だった。
けれど、私・桑谷夢子(くわたに ゆめこ)は脂っこいものが苦手で、少し食べただけでもすぐ胃もたれしてしまう。
あれほど何度も言っておいたのに。
彼がフードデリバリーアプリでお気に入りに登録しているのは、どれもこってりした料理のお店ばかりだ。
彼はいつも「忘れてた。次はちゃんと選ぶ」と言った。
そして私は、いつだってその言葉を信じてきた。
今日までは。
今日は、腸の手術を終えて退院し、家に帰った初日だ。
退院する前、医師は弘也に念を押していた。
今の私は、まだ脂っこいものを食べてはいけないと。
そうしなければ、再発して命に関わるおそれもあると。
それなのに、彼はまた忘れた。
いつものように黙って我慢して、届いたものを食べるようなことはしなかった。
そのせいで午後ずっと胃の痛みに苦しむのも、もうごめんだ。
私は3年間、自分の好みに合わないデリバリーを食べ続けてきた。
でも、もうこれ以上、我慢したくない。
自分の口に合わないものを、もう食べたくない。
私のものではない人に、これ以上しがみついていたくもない。
第1話
私はスマホを取り出し、かけうどんを注文した。
それこそが、私の好みに合う料理だ。
私がいつまでたっても動かないのを見て、弘也が顔を上げ、こちらを見た。
「どうした?食べないのか?まだお腹が痛む?」
私は首を横に振り、ダブルチーズバーガーを彼の目の前に押しやった。
チーズと肉の脂がぎらぎらと輝き、いかにも食欲をそそりそうな一品だ。
弘也は一瞬きょとんとしたが、すぐに何かを思い出したように、申し訳なさそうな顔で私を見た。
「ごめん、夢子。また脂っこいものを頼んじゃった」
これで何度目の謝罪になるのか、もう数えきれない。
仕事ぶりは几帳面で知られる弁護士の弘也が、食べ物を選ぶことに限っては、呆れるほど忘れっぽくなる。
もしかしたら、忘れっぽいわけではないのかもしれない。ただ、心のどこかで、私のことをずっと無視し続けてきたのだ。
元カノ・斎村真礼(さいむら まあや)の好きなものを、無意識のうちに選んでしまうのだろう。
二人が別れてから、もう4年も経つというのに。
彼と付き合っているのは、私だというのに。
私は彼を見つめ、落ち着いた声で言った。
「何度も何度も言ったよね」
それなのに、一度だって覚えていてくれなかった。
その一方で、真礼に関することは、弘也は何年経っても忘れずにいる。
真礼は生理痛がひどかった。だから私が生理になるたび、弘也はいつも、カイロと生理痛の薬を用意してくれた。
私には、生理痛なんてないというのに。
真礼は自分でフードデリバリーを頼むのが好きではなかった。だから弘也はいつも、気を利かせて私の分まで頼んでくれているのだ。
最初の頃、私はその気遣いにひどく感動した。これこそ彼が私を愛している証拠なのだと思った。
けれど、あとになって気づいた。その細やかな気遣いは、もともと真礼が彼に教え込んだものだったのだ。
彼が私にしてくれることは、実のところ、真礼にしてあげていたことだった。
二人が別れたあとも、その習慣は弘也の中にずっと残っていた。
そして今度は、私に向けられるようになった。
そんな何気ない小さなことの一つひとつが、かつて彼と真礼が愛し合っていた証拠だった。
私はただ、お下がりを拾い集めただけの存在に過ぎなかった。
それなのに、愚かな私は、弘也の細やかな気遣いも優しさも、私だけのものだと思い込んでいた。
彼の愛も、私だけに向けられたものだと信じていた。
だから多少つらくても、自分を押し殺してまで彼に合わせてきた。
愛されている証拠だと思い込もうとして、何度だって我慢して飲み込んできた。
でも、もうしない。
弘也は額を揉み、手にしていた処理中の書類を置くと、私に約束した。
「もう二度と、こんなことはしない」
そう言ってフォークを手に取ると、ハンバーガーからチーズをひとつ残らず、丁寧に取り除いていった。
そして、ハンバーガーを私の目の前に置いた。
「ほら、食べな。ちゃんとチーズを全部取り除いたから」
弘也のいつもの言葉を思い出した。「忘れてた。次はちゃんと選ぶ」と。
聞き慣れた言葉。聞き慣れた約束。
けれど、一度だって守られたことはなかった。
真礼が帰国した夜のこと。
私は弘也に、真礼の離婚訴訟を引き受けるつもりがあるのかと尋ねた。
弘也は私をぎゅっと抱きしめ、長いこと黙り込んだあと、引き受けないと言った。
「真礼とは、もう二度と関わらない」
そう言っていたのに、翌日の午後には、真礼のSNSに弘也の法律事務所との契約書が投稿されていた。
「今夜は残業だ」と言っていた弘也は、真礼と夕食を共にしていた。
私は弘也を問い詰めた。
けれど、返ってきたのは、たった一言だった。
「彼女にはもう頼れる人がいないんだ。元夫には権力も財力もある。追い詰められた彼女は、俺を頼るしかなかったんだ」
喉元まで出かかった問いは、胸の奥につかえて、声にならなかった。
――じゃあ、私は?私はいったい、何なの?
第2話
「約束する。俺たちは仕事上の付き合いだけだ。それ以外何もない」
私は、もう一度だけ彼を信じることにした。
けれど、その結果はどうだっただろう。
私は伏せた目元から、そのハンバーガーを見つめた。
分厚いチーズは、すでに取り除かれている。
それでも、肉から滲み出る脂を見て、胸がむかむかしてくる。
真礼と弘也は、もう4年も前に別れたはずなのに。
今もなお、彼女が私と弘也の暮らしに、当たり前のように入り込んでいる。
そして、私たちの間では決して触れてはいけないタブーになっていた。
私はハンバーガーを押し返した。
「ううん、もういい。弘也が食べて」
もう、いらない。
いつまでたっても覚えてもらえない、私の好きなものも、味の好みも。
いつまでたっても守られない、約束も誓いも。
いつだって私を真礼の後回しにする、弘也のことも。
もう、何もいらない。
……
私が頼んだうどんが届く頃には、弘也はすでに法律事務所へ戻っていた。
真礼の離婚訴訟の対応をするためだ。
事務所のエースである弘也は、この半月、休む間もなく働き続けていた。
私が腸の手術を受けた日でさえ、駆けつけてくれなかった。
手術当日、私は午後いっぱい彼を待ち続け、何十回も電話をかけた。
仕事中でも必ず連絡がつくようにしていた弘也が、あの日に限ってスマホの電源を切っていたのだ。
医師から何度も急かされたが、最後にはもう待ちきれなくなった。
手術の同意書には、私が一人で署名した。
手術を終えた翌日、周りの患者にはみんな、お見舞いに来てくれる人がいた。
取り残されていたのは、私一人だけだった。
結局、事務所の同僚が同情して、顔を出しに来たのみだった。
弘也が姿を現したのは、手術から3日目のことだった。
真礼と一緒に。
それまでは、弘也の古い写真の中でしか見たことのなかった人。
その人が今、弘也と並んで、私の目の前に立っていた。
愛らしい笑みを浮かべ、すらりと背筋を伸ばした彼女は、むせ返るようなピンクのユリの花束を抱えて私に挨拶してきた。
芸能人にも負けないほど、美しい人だった。
古い写真の中で見た光景と、何もかも同じだった。
美男美女。まるでお似合いの二人。
夜中に何度も夢に見てはうなされた光景が、とうとう現実になってしまった。
やりきれなさと恐怖が、胸いっぱいに押し寄せてきた。
私は声を上げて泣いてしまわないよう、唇をぎゅっと噛みしめた。
かすれた声で、ようやく尋ねた。
「手術の日、どこに行ってたの?」
弘也は申し訳なさそうに、私に言い訳した。
「その日は真礼が元夫に家に閉じ込められてたんだ。車で助けに行ってた。
ごめん。夢子の手術に間に合わなかった。もう二度とこんなことはしないと約束する」
真礼が、涙のにじんだ目で私を見た。
「桑谷さん、弘也を責めないであげて。私が悪いの。弘也が桑谷さんの手術に間に合わなかったのは、全部私のせいだから。
怒るなら、私を叱ってほしい」
二人は私の目の前で、互いをかばい合っていた。
私こそが邪魔者なのだと、思い知らされた。
弘也の謝罪。真礼の涙。
だから私は、胸の中に渦巻く悔しさをすべて呑み込み、理解して受け入れるしかなかった。
そうすれば、弘也への愛が本物だと証明できるような気がしたから。
あの日から、弘也は自分の過ちを思い知ったかのように振る舞った。
仕事を休み、面会時間いっぱい、病院で私に付き添ってくれた。
仕事さえも病院で片付けていたほどだ。
私も、彼は変わってくれたのだと思った。
退院して家に帰った、今日までは。
脂っこいダブルチーズバーガーが届くまでは。
私が必死に保ってきた平穏な日常は、そこで音を立てて砕け散った。
弘也は、最初から何も変わっていなかったのだ。
思考を振り払い、私はうどんをゆっくりと口に運んだ。
私の好きなさっぱりした味で、まったく油っぽさを感じない。
飲み込んでも、胃がもたれる気配がない。
心ゆくまで食べた。
食事を終えると、書斎へ行き、退職届を印刷した。
今回の手術で、私はすっかり体力を奪われてしまった。
医師からも、体に負担のかかる仕事や、食事の時間もまともに取れないような働き方は控えるように言われていた。
私と弘也が勤める法律事務所は、業界でも飛ぶ鳥を落とす勢いのある大手だ。
毎日、目が回るほど忙しい。
かつては海外の法律事務所から、いくつもの誘いが舞い込んできた。
それでも弘也のために、彼のいる事務所に残った。
けれど、もうその必要はない。
私は履歴書を送り出した。
そして、身支度を整えて事務所へ向かった。
到着したとき、オフィスには誰もいない。
人の声でにぎわっているのは、会議室だけだ。
そちらへ足を運ぶと、事務所の弁護士が全員、集まっている。
第3話
扉の隙間から、弘也の声が聞こえてきた。
「今日はみなさんに力を貸していただきたく、集まってもらいました。斎村真礼さんの離婚訴訟について、話し合いたいと思います……」
また、真礼のこと。
弘也は、ひどくプライドの高い人だ。誰かに頭を下げて助けを求めることなど、決してしない。
弁護士になってから何年も経つが、彼が誰かに助けを求める姿を、私は一度も見たことがなかった。
以前、私は冗談交じりに尋ねたことがある。
一生のうち一度くらい、私のために誰かに助けを求めることはあるのか、と。
弘也の答えは、きっぱりとしたものだった。
「ない」
それなのに今は、真礼のためなら、あれほど誇り高い彼でさえ頭を下げるのだ。
私は前を向いたまま、いちばん奥にある人事部のオフィスへ向かった。
そして、退職届を差し出した。
人事担当者はひどく残念そうな顔をして、私を引き留めようとした。
けれど、私の診断書を見ると、それ以上は何も言えなくなった。
私が事務所を出るときも、会議室ではまだ話し合いが続いている。
真礼の離婚訴訟については、私も耳にしていた。
業界では、引き受けようとする弁護士がほとんどいないほど、厄介な案件らしい。
弘也はみんなの前に立ち、厳しい面持ちで話している。
初めて彼に会ったときと、同じ表情だ。
ただ、あのとき彼が弁護していた相手は、私だった。
私の弁護士として、法廷で戦い、私を勝たせてくれた。
けれど今、彼が力を尽くしているのは、真礼のためだ。
それから3日間、弘也は一度も家に帰ってこなかった。
同僚の話では、真礼の離婚訴訟で、重要な証拠が見つかったらしい。
弘也と真礼は、証拠を集めるために出かけているという。
この数日、私が送り出した履歴書には、数えきれないほどの返事が届いていた。
3日間、面接を受け続けた。
そしてようやく、フランスにある国際法律事務所への就職を決めた。
仕事はゆったりしていて、有休も多い。
引き継ぎの目処をつけると、私は3日後に出発する飛行機のチケットを予約した。
あと3日。
それで、弘也と過ごした3年間に、終止符を打つ。
……
翌日の午前中は、以前から予約していた術後の診察の時間だ。
昨夜、弘也からメッセージが届いていた。
私に待っているようにと言い、自分が迎えに来て、一緒に病院へ行くと約束していた。
私は断らなかった。
けれど、朝9時から昼の12時まで待っても、弘也は現れなかった。
スマホを開くと、真礼のSNSの投稿が目に飛び込んできた。
【いろいろ回り道をしたけれど、やっぱり私をいちばん大切にしてくれるのはあなただけ】
添えられた写真には、眠り込んだ弘也の横顔が写っている。
今日、彼が迎えに来ることはもうない。
私は立ち上がり、一人でタクシーを拾って病院へ向かった。
医師からは、回復は順調だと言われた。
もう次の診察に来る必要もないそうだ。
病院の階段を下りていると、急いだ様子でデリバリーの袋を手にした弘也の姿が目に入った。
私は彼のあとを追い、ある病室の前までたどり着いた。
ガラス越しに中を覗くと、真礼がベッドに横たわっている。
弘也は綿棒に水を含ませ、彼女の唇をそっと湿らせている。
真礼がそっと彼の手を握った。
弘也は、その手を振りほどかなかった。
デリバリーの蓋を開けると、目に飛び込んできたのは、衣から油が滲み出るからあげ。
真礼は感動したように、目を潤ませた。
「弘也、やっぱり覚えてくれたのね」
弘也は何も答えなかったけれど、真礼は涙を浮かべたまま問い続けた。
「今でも私の好きなものを覚えていてくれてる。私がお気に入り登録したお店も、そのまま残してくれてる。
それに、誰もが勝ち目のない負け戦だと思ってるこの訴訟を、引き受けてくれたのも弘也だけ。これが好きじゃないなら、いったい何なの?」
当時、弘也と真礼は、私より3学年上だった。
大学では、誰もが知る美男美女のカップルだった。
一方の私は、存在感なんて少しもない、地味な女子学生に過ぎなかった。
弘也に片思いしながら、告白する勇気も持てずにいた、数えきれない女の子たちの一人。
かつての私にとって、弘也は手を伸ばしても決して届かない星のような存在だった。
そんな彼らが別れたのは、私が大学を卒業した年だった。
真礼が海外へ留学したが、弘也は彼女についていこうとはせず、どうしても国内で働くと言い張った。
そのせいで、二人は別れることになった。
それから3か月も経たないうちに、真礼が海外で結婚したという知らせが届いた。
周りの人はみんな、弘也を気の毒に思わずにはいられなかった。
あの頃の弘也は、何事もなかったかのように振る舞っていた。
けれど、誰もがわかっていた。
彼が真礼に、心の奥深くまで傷つけられたことを。
私が彼の前に現れたのは、ちょうどその頃だった。
弘也の心の隙につけ込み、卑怯にもその中に入り込んだのだ。
かつて私は、時間をかければ、弘也の中に深く刻まれた真礼の痕跡を、すべて消し去ることができると思っていた。
けれど、忘れていた。
弘也は最初から、その痕跡を消したいなんて一度も思っていなかったのだ。
私は小さく笑い、病室の扉を開けることなく、その場を離れた。
もう、答えは出ていた。
夜11時、弘也が帰ってきた。
第4話
玄関を入った弘也は、テーブルの上に置かれた私の術後検査の結果を見て、少し驚いた顔をした。
それから、すぐに申し訳なさそうに謝ってきた。
「夢子、ごめん。今日は真礼が高熱を出したから、看病に行ってたんだ。
次の診察はいつ?今度こそ、必ず付き添うから」
次なんて、もうない。
内定は受けた。航空券も予約した。
弘也と私にも、もう先はない。
私はベッドに横になり、すっかり忘れかけていたフランス語を復習している。
「大丈夫よ」
感情のこもっていない声だ。まるで、どうでもいいことのように。
実際、私にとっても、もうどうでもいいことになっていた。
弘也が何か言いかけたとき、私はイヤホンを外し、あくびをした。
「早く寝よう」
彼のもとを去ると決めてから、悪夢にうなされることも不眠に悩まされることも、すっかりなくなっていた。
翌朝、弘也が起き上がっても、私は目を覚まさなかった。
私は親しい友人や同僚たちを全員誘い、食事に出かけた。
一日中、別れの挨拶に追われている。
この街の、あらゆるものとの別れ。
フランスの法律事務所が、就労ビザを手配してくれたのだ。
とっくに、この街にもこの国にも何の未練もなかった。
弘也を除いては。
そして今、その彼でさえ、もう私を縛りつけることはできない。
夜、家に帰ると、弘也の革靴の隣に、赤いハイヒールが置かれていた。
私のサイズではない。
キッチンからは、鼻をつくような油の匂いが漂ってきた。
私はドアを閉めた。すると、キッチンにいた弘也と真礼が顔をのぞかせた。
真礼が親しげに声をかけてきた。
「桑谷さん、お帰りなさい。
弘也と一緒に晩ご飯を作ったの。手を洗ってきて。もうすぐできるから」
弘也も、私に説明した。
「真礼が、訴訟を引き受けたお礼にって、ぜひ夢子にも手料理を振る舞いたいらしいんだ」
私は何も言わず、力なく微笑んだ。
食卓へ向かうと、すでに四品のおかずが並んでいる。
脂っこいものばかり。
食事の間、私はほとんど口をきかなかった。
真礼と弘也は、次々と話題を振ってきた。
けれど、もう話を合わせる気にもなれなかった。
何の意味もないのだから。
明日になれば、弘也と真礼が何をしようと、私にはもう一切関係なくなる。
夜11時、水を飲もうと部屋を出たときも、真礼はまだ帰っていなかった。
私が意外そうに彼女を見ていると、弘也が口を開いた。
「夢子、今夜、真礼をここに泊めてもいいかな。
昨日、彼女の泊まってたホテルで、不審者が見つかったらしいんだ。明日は裁判の期日だし、今夜、元夫がまた何か仕掛けてくるんじゃないかと心配で」
私が何も言わずにいると、彼は付け加えた。
「嫌なら、今から近くのホテルに部屋を取る」
私は静かに弘也を見つめた。
その顔立ちの隅々まで、目に焼きつけるように。
かつて、骨の髄まで愛した男の顔を。
「夢子?」
弘也は不思議そうに、私の名を呼んだ。
私はうなずいた。
「いいよ」
……
翌朝、9時。
目を覚ましたとき、隣に弘也の姿はない。
今日は真礼の離婚訴訟の期日。
そして、私がこの街を去る日でもある。
起き上がると、家の中を隅々まで掃除した。
もう使わない自分の持ち物は、近所の人や友人たちに譲った。
最後に寝室を片づけた。
クローゼットの服をきれいに整理し、荷造りを済ませた。
かつて弘也と共に手にした数々の賞状やトロフィーも、母校に寄贈した。
すべてを片づけ終えると、残ったのはスーツケース二つだけだ。
そこには、弘也と過ごした数年間のすべてが詰まっている。
午前11時ちょうど、私は空港へ向かった。
搭乗を待っているとき、真礼のSNSの投稿が目に入った。
【王子様が、またお姫様のために勝ってきてくれたよ】
添えられた写真には、真礼を見つめる弘也の目が写っている。
私は「いいね」を押した。
ほどなくして、弘也からメッセージが届いた。
【夢子、真礼の裁判、勝った!】
彼は興奮しきっていて、立て続けに何本ものボイスメッセージを送ってきた。
どれほど難しい訴訟だったのか、熱心に話した。
私は一つひとつ再生することはしなかった。
ただ、淡々と一言だけ返した。
【おめでとう】
そして、電源を切った。
私は静かに、フランス行きの飛行機に乗り込んだ。
二度と振り返ることなく。