あなたを愛した十年は、もう終わった

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江田朗真(えだ ろうま)が再び離婚を切り出した日、私たちは話し合いの末、30日後に離婚することを決めた。 3年前、彼の不倫を知ったとき、私・江田寧々(えだ ねね)は彼の車を壊し、ホテルまで押しかけ、挙げ句の果てには屋上に立って、狂ったように彼を問い詰めた。「あの女はいったい誰なの?」 けれど、彼は最後まで何も答えず、ただ同じ言葉を繰り返すだけだった。「寧々、離婚しよう」 両親には「どうかしてる」と責められ、兄には「もう自分を苦しめるのはやめろ」と懇願された。 親友の水城冴香(みずき さえか)でさえ、何度も涙ぐみながら私を抱きしめて言った。「もう調べるのはやめて。あんな男のために、自分を壊すことなんてないよ」 それでも、私は諦めきれなかった。

Chapters (1)

第1章

江田朗真(えだ ろうま)が再び離婚を切り出した日、私たちは話し合いの末、30日後に離婚することを決めた。 3年前、彼の不倫を知ったとき、私・江田寧々(えだ ねね)は彼の車を壊し、ホテルまで押しかけ、挙げ句の果てには屋上に立って、狂ったように彼を問い詰めた。「あの女はいったい誰なの?」 けれど、彼は最後まで何も答えず、ただ同じ言葉を繰り返すだけだった。「寧々、離婚しよう」 両親には「どうかしてる」と責められ、兄には「もう自分を苦しめるのはやめろ」と懇願された。 親友の水城冴香(みずき さえか)でさえ、何度も涙ぐみながら私を抱きしめて言った。「もう調べるのはやめて。あんな男のために、自分を壊すことなんてないよ」 それでも、私は諦めきれなかった。 第1話 離婚まで残されたこの30日間、私は朗真と一緒に行った思い出の場所を巡り、二人で座った席につき、彼の好きだった料理を注文して、かつて二人でしたことを一つずつ繰り返した。 そして、そのたびに撮った写真や動画を彼に送った。【もう一度だけ昔のことを思い出してくれない?】 けれど、彼から返事が来ることは一度もなかった。 最後の日、私はもう外へは出ず、大学時代に使っていた古いスマホを引っ張り出した。 トーク履歴を遡れば遡るほど、そこには私を愛していた頃の朗真がいた。 どんなにくだらないことを聞いても、彼はいつだって真剣に答えてくれた。私が何気なく雲の写真を一枚送っただけでも、【君と一緒に見たい】と返してくれていた。 そしてついに、私たちが付き合い始めた日まで遡った。 あの夜、彼は窓の外に広がる夜景の写真を送ってきて、もう家に着いたと教えてくれた。 思わず口元がほころんだ。けれど、その写真を開いた瞬間、私は凍りついた。 窓ガラスに映り込んだ景色の隅に、一人の女が彼の肩にもたれかかっていた。 その手首につけていたのは、私が冴香に贈ったお揃いのブレスレットだった。 ――そうだったんだ。 彼女が何度も私に諦めるよう勧めていたのは、ずっと私が自分から身を引き、朗真のそばから消えるのを待っていたからだった。 私はしばらく呆然と座り込んだあと、朗真にメッセージを一通送った。 【もうこれ以上待つ必要はない。離婚しよう】 メッセージを送ってから1分もしないうちに、朗真から電話がかかってきた。 この30日間で、彼が私にすぐ反応したのは初めてだった。 画面に浮かぶ彼の名前を見つめても、胸にはもう何の期待も湧かなかった。 電話に出ると、彼は少し黙ったあと、低い声で言った。「寧々、今度は何をするつもりだ?」 思わず笑ってしまった。 ようやく私が離婚に同意したというのに、彼には、それが私がこの結婚を諦めたからではなく、また何か騒ぎを起こそうとしているようにしか思えないらしい。 古いスマホの画面はまだ明るく、あの写真が目の前に映し出されていた。 窓ガラスの反射の中で、冴香は彼の肩にもたれかかり、その手首には、私がこの手で彼女につけてあげたお揃いのブレスレットがあった。 あの日、ブレスレットを贈ったとき、私は笑いながら言った。「この先、私が結婚して家庭を持っても、冴香はずっと私にとって一番大切な親友だからね」 冴香は私を抱きしめ、まるで誓いを立てるかのように真剣な声で言った。「寧々、私は絶対に裏切ったりしないから」 私は長い間、写真に映った二人の姿を見つめ続け、それから朗真に尋ねた。「3年前のあの女って、冴香だったの?」 電話の向こうが静まり返った。 彼の呼吸が次第に重くなっていくのが聞こえた。まるで3年間ずっと逃げ続けてきた彼を、ついに私が逃げ場のないところまで追い詰めたかのようだった。 長い沈黙のあと、彼は低い声で言った。「もう過ぎたことだ」 説明はなかった。 否定もしなかった。 涙がスマホの画面に落ち、そこに映る二人の姿が滲んで一つに溶けていく。 「過ぎたこと?」 笑おうとすると、胸が痛んだ。 「3年前、私はあの女が誰なのか突き止めたくて、毎晩ろくに眠れなかった。自分で手首を強く掴みすぎて、血が滲むほどの痕まで残った。そんな私を冴香は泣きながら抱きしめて、もう調べるなって言った。あなたなんかのために自分を壊す価値はないって」 声が掠れ、もう言葉を続けることさえ難しかった。 「私を心配してたんじゃなかったんだね。ただ、自分のことを突き止められるのが怖かっただけなんだ」 電話の向こうで、朗真は何も言わなかった。 私はもう彼の言葉を聞こうともせず、そのまま電話を切ると、立ち上がって家を出た。 第2話 冴香の家には、これまで何度も足を運んだことがある。 彼女は静かな暮らしが好きだから両親とは一緒に住みたくないし、恋愛にも興味がなく、一人で気楽に暮らすのが性に合っていると言っていた。 あの頃、私が少しでも落ち込むと、冴香はいつも自分の家に呼んでくれた。温かいスープを作って、夜が明けるまでずっとそばにいてくれた。 私は何度となく、あのソファに座って息もできなくなるほど泣いた。 けれど今、こうしてその家の前に立ってみると、すべてがひどく皮肉に思えた。 何度もインターホンを鳴らし、しばらくすると、ようやく中から足音が聞こえてきた。 ドアが開いた瞬間、冴香は真っ青な顔で私を見つめた。 彼女は男物のコートを羽織っていた。 そのコートには見覚えがあった。 去年の冬、私が朗真のために買ったものだった。 彼は厚すぎて動きづらいと言い、一度袖を通したきり、二度と着ようとしなかった。 気に入らなかったわけじゃなかったんだ。 とっくに別の女へ渡していただけだった。 冴香の目に、一瞬動揺が走った。「寧々、どうしてここに……?」 私は答えず、彼女の向こうにある部屋の中へ目を向けた。 ダイニングテーブルには二人分の食器と箸が並び、スープからはまだ湯気が立っている。玄関の棚には、朗真がいつも使っている車のキーまで置かれていた。 冴香は目を赤くし、私の手を取ろうとした。「寧々、お願い、話を聞いて」 私は一歩後ろへ下がり、その手を避けた。「何度も病院に付き添って、私が死にたいって話すのを聞いてたとき……何を考えてたの?」 冴香の目から、堰を切ったように涙がこぼれ落ちた。「寧々……違うの、そんなつもりじゃなかったの」 彼女を見つめ、震える声で言った。「冴香、私が聞いてるのはそんなことじゃない。この3年間、泣いてる私を抱きしめてたとき、一瞬でも私に申し訳ないって思ったことはあった?」 彼女の顔からさらに血の気が引いた。唇がわずかに動いたものの、声にはならなかった。 私は手を上げ、彼女の頬を平手で打った。 乾いた音が響き渡り、部屋の中が死んだように静まり返った。 次の瞬間、朗真が寝室から飛び出してきた。 彼は冴香を自分の背後に庇った。「寧々、いい加減にしろ!」 その声には怒りが滲み、私を見るその目には、まるで理不尽に騒ぎ立てる他人を見るかのような苛立ちと嫌悪が浮かんでいた。 冴香を庇う彼の姿を見た瞬間、心臓が締めつけられるように痛んだ。 3年前、うつ状態に陥った私は屋上の縁に立ち、泣きながら彼に、あの女はいったい誰なのかと問い詰めた。 あの日は風が強く、私は寒さで全身を震わせていた。背後では両親が泣き叫び、兄はその場に膝をつき、頼むから降りてきてくれと必死に懇願していた。 朗真は人だかりから離れた場所に立っていた。顔は真っ青だったのに、私にかけた言葉はそれだけだった。 「もうこんな馬鹿な真似はやめろ」 彼は最後まで、私に答えをくれなかった。 なのに今、冴香が少し泣いただけで、彼はこんなにも取り乱している。 私はもう何も言わず、そのまま背を向けて立ち去った。 第3話 家に戻る頃には、もう夜が明けかけていた。 部屋の中はひどく散らかっていた。ローテーブルの上には、この30日間、あちこちを巡って持ち帰ってきたレストランのレシートや、二人で撮った写真をプリントしたものが、まだそのまま置かれている。 その一枚一枚が、この30日間ずっと現実から目を背け、自分を騙し続けていた私を嘲笑っているように見えた。 私は床にしゃがみ込み、引き出しの一番奥にしまってあった書類袋を取り出した。 中に入っていたのは、3年前の診断書だった。 紙はすでに少し黄ばんでいたが、一番上に記された診断内容は今でもはっきりと読めた。 重度の抑うつ状態。 流産後、子宮内容除去術施行。 指先がその文字の上で止まった瞬間、あの日の血に染まった光景が鮮明に蘇った。 あの頃、私は自分が妊娠していると知ったばかりだった。 医師は検査結果を渡しながら、まだ妊娠初期だから無理をしないようにと笑顔で言ってくれた。 私はその一枚の紙を大切に胸に抱き、病院を出たときには、まるで雲の上を歩いているような気持ちだった。 朗真を驚かせたかった。 けれど、そのことを彼に伝えるより先に、ホテルの前で彼の車を見つけ、私はホテルの中へ入った。 ロビーに入ると、ちょうどエレベーターに乗り込む彼の姿が見えた。 私は咄嗟にあとを追い、少し距離を置いたまま同じ階まで上がった。 廊下の奥へ消えていく彼の姿を見届けてから、私は震える手でスマホを取り出し、彼に電話をかけた。 すると、廊下の先にある一室から、聞き慣れた着信音が聞こえてきた。 やがてドアが開き、そこには明らかに動揺した様子の彼が立っていた。 そのとき、廊下の先にある非常階段へ駆け込んでいく女の後ろ姿が見えた。顔までは見えなかったが、すれ違いざまに漂ってきた香水の香りには、どこか覚えがあった。 私は咄嗟に女のあとを追った。朗真もすぐに追いかけてきた。 非常階段の前で振り返り、私は彼の袖を掴んで、震える声で問い詰めた。「あの女、誰なの?」 朗真の表情が険しくなった。「俺を尾行したのか?」 「あの女が誰なのかって聞いてるの!」 彼は私の手を振り払い、冷たい声で言い放った。「いい加減、狂ったみたいに騒ぐのはやめてくれないか?」 私はよろめきながら後ずさりし、足を踏み外して、そのまま非常階段から転げ落ちた。 下腹部に激痛が走った瞬間、ようやく思い出した。 まだ彼に伝えていなかった。 私たちに、子供ができたことを。 そのあと、意識は途切れた。 次に目を覚ましたとき、鼻をつくような消毒液の匂いが漂う病室にいた。 朗真は一晩中、病室の外にいた。翌朝、彼が中へ入ってきたとき、その目は充血していた。 私はてっきり、抱きしめてくれるのだと思った。 けれど、彼はベッドのそばに立ったまま長い間黙り込み、やがて一言だけ告げた。「寧々、離婚しよう」 その言葉は、流産したあとの痛みよりも、ずっと深く胸を抉った。 …… 過去の記憶から我に返った私は、診断書の写真を撮って彼に送った。【この子のこと、覚えてる?】 けれど、いつまで経っても返事はなかった。 ところが30分後、電話をかけてきたのは冴香だった。 彼女は泣きそうな声で言った。「寧々、もう彼を追い詰めないで。あのとき子供を失って、彼だってすごく苦しんでたの」 全身から血の気が引いた。「……知ってたの?」 冴香は黙り込んだ。 その瞬間、すべてを悟った。 私が子供を失ったことさえ、彼女は最初から最後まで知っていたのだ。 それなのにこの3年間、彼女は心療内科に通う私に付き添いながら、その一方で朗真を庇い、彼が私と距離を置いているのは、これ以上私を刺激したくないからだと言い続けていた。 突然、笑いが込み上げた。 笑っているのに、涙は止めどなく頬を伝っていった。 電話の向こうで、冴香が泣きながら私の名前を呼んでいた。「寧々、ごめん。本当にあなたを傷つけるつもりじゃなかったの」 けれど、もう彼女の声はよく聞こえなかった。 耳鳴りがひどく、激しい吐き気が込み上げ、まるで体ごと真っ暗な闇の中へ引きずり込まれていくようだった。 手が薬のボトルに当たり、床へ落ちた。白い錠剤が辺り一面に転がっていった。 そのあとのことは、あまりよく覚えていない。 ただ、手首に鈍い痛みが走り、部屋の明かりが次第にぼやけていったことだけは覚えている。 意識が闇に沈みかけたとき、玄関の外から激しくドアを叩く音が聞こえた。 そして次に目に入ったのは、ドアを破るようにして飛び込んできた朗真だった。 私を抱き上げた彼の手は、震えていた。 「寧々!」 …… 再び目を覚ましたときには、私は病院のベッドに横たわっていた。手首には包帯が巻かれ、喉はひどく乾いて痛んでいた。 朗真はベッドのそばに座っていた。目は赤く、シャツにはまだ血の跡が残っていた。 私が目を覚ましたのを見ると、彼はようやく安堵したような表情を浮かべた。けれど次の瞬間には、抑えきれない怒りが滲んだ。 「寧々、こんなことまでして俺を追い詰めないと気が済まないのか?」 私は震えている彼の手を見つめながら、心の中にほんのわずかな、馬鹿げた期待が芽生えるのを感じた。 少なくとも、私が死ぬのは怖かったんだ。 少なくとも、私が死にかければ、彼はまだ駆けつけてくれる。 そう思った、そのときだった。 彼のスマホの着信音が鳴り響き、画面に冴香の名前が表示された。 朗真が電話に出ると、その表情はたちまち変わった。 冴香が何を言っているのかまでは聞き取れなかった。ただ、彼が低い声で尋ねるのだけは聞こえた。「また胃が痛むのか?薬は飲んだ?」 電話を切ると、朗真は私へ視線を向け、その目に一瞬ためらいを浮かべた。 それから、こう言った。「少し休んでろ。すぐ戻るから」 彼は立ち上がると、コートを手に取り、足早に病室を出ていった。 病室のドアが閉まった瞬間、不思議なくらい心が静かになった。 命を懸けても引き留められなかった人を、冴香は「痛い」の一言だけで呼び出せるんだ。 その夜、私は病院のベッドにもたれたまま、まだ震えの残る手でセレヴィア行きの航空券を予約した。 ずっと昔から、一度は行ってみたいと思っていた場所だった。 朗真は以前、結婚記念日には一緒に雪山を見に行こうと約束してくれた。 でも、もうその必要はない。 一人で行く。 第4話 退院した日は、空一面を厚い雲が覆っていた。 私は誰にも知らせず、一人でタクシーに乗って家へ帰った。 リビングは、私が運び出されたときのままだった。薬の箱は床に散らばり、診断書も出しっぱなしで、ソファのクッションも斜めに崩れている。 まるで、あの日の惨状が誰にも片づけられないまま、そこに残されているようだった。 私はしゃがみ込み、一つずつ床の物を拾い上げた。 それからスーツケースを引っ張り出し、パスポートや衣類を詰めていった。 古いスマホもスーツケースの内ポケットへしまったところで、インターホンが鳴った。 ドアを開けると、そこには母と兄が立っていた。 母の目は赤く腫れていた。けれど、私の手首に巻かれた包帯を見るなり、最初に口にしたのは「痛くないの?」という言葉ではなかった。 「寧々、いつまでこんな騒ぎを続けるつもりなの?」 私は一瞬、言葉を失った。 母の後ろに立つ兄も眉間に深く皺を寄せ、その声には隠しきれない疲労が滲んでいた。「家族みんなで3年間、お前の騒ぎに付き合ってきたんだ。もう十分だろ」 二人を見つめていると、胸が少しずつ締めつけられていった。 3年前、私が流産したばかりの頃、母はずっとそばに付き添い、私の手を握りながら、まともに言葉も出ないほど泣いていた。 朗真をひどい男だと罵り、私がどんな状態になっても絶対にそばにいると言ってくれた。 兄も朗真のもとへ乗り込み、彼を思いきり殴った。 あのときの私は、たとえ世界中に裏切られても構わないと思っていた。 私にはまだ、家族がいるのだから。 なのに今、その家族にとってさえ、私はいまだに騒ぎを起こし続けているだけの人間だった。 私は震える声で尋ねた。「じゃあ……二人とも、とっくにあの女が冴香だって知ってたの?」 リビングが突然、静まり返った。 母は一瞬目を逸らし、兄は唇を引き結んだまま何も言わなかった。 その沈黙は、何よりも残酷な肯定だった。 やがて母が小さな声で言った。「冴香だってつらかったのよ。この数年、ずっとあなたの面倒を見てくれたでしょう。あの子があなたを大切に思っている気持ちは本物なの」 「本物?」 私は母を見上げた。胸の奥が痛みを通り越して痺れていく。 「3年前、私が手術室から出てきたとき、朗真はいなかった。冴香が私の手を握って、『寧々、私がいるから』って言ってくれた」 声は次第に掠れていった。「でもその翌日、朗真は冴香を連れて婦人科を受診してたんでしょう?」 母の顔からさっと血の気が引いた。 兄も思わず眉をひそめた。「どうしてそれを知ってる?」 私は答えなかった。 さっき荷物をまとめていたとき、久しぶりに古いスマホのメールボックスを開いたところ、3年前に兄から届いていた一通のメールに気づいた。当時は見落としていたらしく、未読のまま残っていたのだ。 メールを開くと、一枚の写真が添付されていた。 写真には、病院のベッドに腰掛ける冴香と、その襟元を優しく整える朗真の姿が写っていた。 日付は、私が流産した翌日。 メールの本文には、こう書かれていた。 【母さん、この写真は寧々には見せるな】 私はその写真を二人の目の前に差し出した。「みんなで冴香のことを隠してたの?」 母の目が赤くなり、唇が震えた。 けれど、先に口を開いたのは兄だった。「あの頃のお前は精神的に不安定だった。これ以上刺激したくなかったんだ」 私は兄を見つめた。 目の前にいるこの人が、突然恐ろしいほど見知らぬ人に思えた。 「だからって、私を傷つけた張本人に縋って、馬鹿みたいに3年間も泣き続ける私を、みんな黙って見てたっていうの?」 今度は、誰も答えなかった。 そのとき、玄関の外から足音が聞こえてきた。 冴香だった。 彼女は玄関先に立っていた。この前会ったときよりもさらに顔色が悪く、目はひどく腫れている。それでも手首には、あのお揃いのブレスレットがつけられたままだった。 私を見るなり、冴香の目から涙がこぼれ、ほとんどその場に跪くようにして言った。「寧々、私、朗真と別れるから」 泣き声は震えていた。「彼をあなたに返す。だからお願い、もう自分を傷つけないで。あなたがそうしてくれるなら、私、本当に何もいらないから」 私は彼女を見つめていたが、心は少しも揺れなかった。 以前の私だったら、きっと心が揺らいでいたと思う。 彼女が私にしてくれたことを、今でも覚えているから。 大学時代、ルームメイトたちから仲間外れにされたとき、一緒にシェアハウスを出てくれたのは冴香だった。 急性胃腸炎になったときには、私を支えて病院まで連れていってくれた。 そして人生で最も苦しかったこの3年間も、治療を続ける私を支え、通院にも付き添い、終わりの見えない長い夜を何度も一緒に乗り越えてくれた。 けれど、それらがすべて本物だったからこそ、裏切りはなおさら深く胸に突き刺さった。 私は喉に込み上げるものを必死に押し殺し、彼女に尋ねた。「冴香、一度でも私に申し訳ないと思ったことはある?」 彼女は泣きながら何度も頷いた。その顔は透けてしまいそうなほど青白かった。 さらに問いかけようとした、そのときだった。 突然、冴香が下腹部を押さえ、そのまま力が抜けたように床へ崩れ落ちた。 母が悲鳴を上げた。 兄が駆け寄り、彼女を支える。 ほとんど同時に、冴香を追ってきたらしい朗真がエレベーターのほうから駆け込んできた。 床に倒れている冴香を見るなり、彼の顔色が一変した。すぐさま彼女を抱き上げ、そのまま外へ向かおうとする。 私の横を通り過ぎる瞬間、朗真は一度足を止めた。 その目には、隠そうともしない嫌悪が浮かんでいた。「寧々、もし冴香とお腹の子に何かあったら、絶対に許さない」 私はその場に立ち尽くした。 ――お腹の子。 その言葉が、冷たい釘のように胸へ深く突き刺さった。 彼があれほど離婚を急いでいたのは、冴香を愛しているからだけではなかった。 冴香が、彼の子供を妊娠していたからだった。 第5話 病院の廊下は、白い照明が目に痛いほど明るかった。 誰もが冴香のそばに集まっていた。 朗真は彼女の手を握り、母は白湯を用意し、兄は受付や会計の手続きに追われている。父は病室の入り口に立ち、険しい顔で私に釘を刺した。「もう妊婦を刺激するようなことはするな」 私は一人、廊下の端に立っていた。 手首はまだ痛んでいた。 退院したばかりの傷口は、あちこち動き回ったせいで再び血が滲み、真っ白なガーゼには、うっすらと赤い染みが滲んでいた。 けれど、誰も気づかなかった。 ふと、3年前に流産した日のことを思い出した。 あのとき病室にあったのは、すっかり冷めた雑炊と、鼻をつくような消毒液の匂いだけだった。 朗真は病室の外に立ったまま中へ入ろうとせず、母は泣き疲れてベッドのそばに突っ伏したまま眠っていた。 そんな中、冴香だけが私の手を握り、何度も「ずっとそばにいるから」と言ってくれた。 あの頃の私は、自分はもう十分すぎるほど惨めだと思っていた。 けれど今日になって、ようやく分かった。 もっと惨めだったのは、あのとき唯一縋ることのできた人まで、私を騙していたことだった。 医師が処置室から出てきて、ひとまずお腹の赤ちゃんは無事だと告げた。 その場にいた全員が安堵した。 朗真は目を閉じ、張り詰めていた肩からようやく力を抜いた。 母は小さな声で「よかった」と繰り返し、兄も壁にもたれながら長く息を吐いた。 私はそんな彼らの後ろに立ち、まるでそこにいる必要のない影のようだった。 目を覚ました冴香は、ずっと涙を流していた。 やがて私を見ると、弱々しい声で言った。「寧々、私のことを憎んでるのは分かってる。でも、子供には何の罪もないの」 彼女がそう言い終えると、朗真が私を振り返った。 その眼差しは、見知らぬ人のように冷たかった。 「謝れ」 一瞬、聞き間違いかと思った。 「……私に、彼女に謝れって言ってるの?」 朗真は眉をひそめ、冷えきった声で言った。「君が騒がなければ、彼女だってこんなことにはならなかった」 胸を締めつけられたように息が詰まり、しばらくしてようやく声が出た。「朗真、私のところに勝手に来たのは冴香のほうよ」 すると母まで目を赤くしながら歩み寄り、私の袖を掴んだ。「寧々、お願いだから謝って。お母さんからも頼むわ。もうこれ以上騒がないで。冴香は今、妊娠しているのよ。こんなふうに刺激されたら体がもたないわ」 私は母を見つめた。 この人はかつて、流産した私を抱きしめながら、朗真のことは一生許さないと言ってくれた。 なのに今は、私に冴香に頭を下げろと言っている。 さらに兄が、重い口調で言い放った。「お前はもう一人、子供を死なせてるんだぞ。まさか二人目まで死なせるつもりなのか?」 廊下が一瞬、静まり返った。 全身の血が、一気に凍りついたようだった。 「……私が死なせた?」 兄を見つめ、私は思わず声を荒らげた。「3年前、朗真が不倫して、そのせいで私はホテルの非常階段から落ちて、子供を失ったのよ」 目の奥が熱くなった。 私は一言一言噛みしめるように、兄へ問いかけた。「それがお兄ちゃんに言わせれば、私が子供を死なせたことになるの?」 兄は私から目を逸らした。それでも、無理に自分を正当化するように言った。「あのとき、お前があんな騒ぎを起こさなければ、ああはならなかっただろ」 目の前が真っ暗になった。 冷たい壁に手をつき、どうにか倒れずに立っているのが精いっぱいだった。 その瞬間、もう何も説明したくなくなった。 私は朗真を見た。 そして病室のベッドで弱々しく泣いている冴香にも目を向けた。 胸の奥にかろうじて残っていた最後の温もりが、とうとう完全に消えていった。 「……分かった」 自分の口から、ひどく小さな声が聞こえた。「じゃあ、私が死なせたってことでいいよ」 母の顔色が変わった。「寧々……」 私はもう、その先を聞かなかった。 背を向け、そのまま病院を出た。 今度は背後から、みんなが私の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。 それでも、私は一度も振り返らなかった。 家に戻ると、すでに荷造りを終えていたスーツケースを引っ張り出した。 リビングは静まり返っていた。 必要事項を記入した離婚届をテーブルの上に置き、その隣に結婚指輪を置いた。 指輪の内側には、かつて朗真が自ら選んだ言葉が刻まれていた。 彼は、それが私たちの始まりを意味するのだと言っていた。 私は一度だけ指輪を見つめると、3年前の流産に関する診断書と一緒に置いた。 最後に、航空券を取り出した。 行き先はセレヴィア。 かつて私は何度も朗真に、セレヴィアへ行って一面に降り積もる雪を見てみたいと話していた。 そのたびに彼は笑って言った。「この忙しさが一段落したら、絶対に一緒に行こう」 私は何年も待ち続けた。 待っているうちに子供を失い、結婚生活は壊れ、親友だった人までが私の胸を抉る刃になった。 だから、もう待つのはやめた。 …… 空港内に搭乗案内のアナウンスが流れたとき、朗真から電話がかかってきた。 画面が明るくなり、やがて暗くなった。 私はそこに表示された彼の名前を見つめたまま、電話には出なかった。 2回目、3回目。 何かに気づいたのか、彼は何度も何度も電話をかけてきた。 私はスマホの電源を切り、係員に搭乗券を差し出した。 飛行機が離陸すると、私は窓際の席にもたれながら、眼下の街が少しずつ遠ざかっていくのを眺めた。 あの街には、かつて私が愛した人がいる。 そして、かつて私が一番大切にしていた親友もいる。 でも、朗真、冴香。私はもう、死のうとはしない。 ただ、あなたたちを捨てるだけ。