半分こする愛なんていらない

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私の名前は周防澪(すおう みお)。 台風で街中が冠水したあの日。 夫の周防拓海(すおう たくみ)は車を出し、被害の大きい地区へ幼馴染の白鳥結月(しらとり ゆづき)を迎えに行き、そのまま彼女を家に連れ帰った。 その一方で、妻である私には「水浸しの道を歩いて地下鉄で帰れ」とメッセージを送ってきたのだ。 地下鉄の駅で、ずぶ濡れになった私を見た同僚は複雑な表情を浮かべた。 「澪さん……旦那さん、本当にあなたのこと大切にしてるの?」 私はスカートの裾を絞りながら、無理に笑って見せた。 「彼女の家、土地が低くて浸水しやすいから。それにわざわざ遠回りして私を迎えに来るのも大変だし」 潤んだ瞳に小さな唇、結月は誰もが思わず手を差し伸べたくなるような、儚げな雰囲気を纏う女性だ。 かつて拓海と結婚した時、共通の友人たちに冷やかされたことがあった。 もし結月が海外へ行っていなかったら、拓海と結婚したのは間違いなく結月だっただろう、と。 それを聞いた拓海は、私への愛を示そうとでもしたのか、ひとつのルールを設けた。 それからの数年間、記念日の高価なジュエリーから、話題のお店の限定スイーツに至るまで彼は必ず、同じブランドの全く同じものを「2つ」用意するようになった。 彼に言わせればそれが「公平」ということらしい。 家族に対してすら、これほど徹底的に「公平」を貫ける人間が、他にいるだろうか。 私の弁解を聞き終えると、同僚は静かに私を見つめ返した。 「ねえ、澪さん。あなた、それが本当に『公平』だと思ってるの? 妻として自分だけに向けられるべき愛まで、わざわざ他人と半分こしなきゃいけないなんて…… そんなの『公平』でもなんでもない……あなたに対する侮辱じゃないの?」 私はその場に釘付けになった。 まるで、長い夢から突然目を覚まされたような気分だった。 その日の夕食の席で、結月の前に置かれた、彼が丁寧に剥いたカニの身を見つめる。 私は、自分の目の前にある「全く同じ」カニを残らずゴミ箱に捨てた。 そして、淡々と口を開いた。 「拓海。私が欲しいのは『公平』なんかじゃない。私だけの『特別』なの。 もしそれができないなら……半分こする愛なんて、もういらないわ」

Chapters (1)

第1章

私の名前は周防澪(すおう みお)。 台風で街中が冠水したあの日。 夫の周防拓海(すおう たくみ)は車を出し、被害の大きい地区へ幼馴染の白鳥結月(しらとり ゆづき)を迎えに行き、そのまま彼女を家に連れ帰った。 その一方で、妻である私には「水浸しの道を歩いて地下鉄で帰れ」とメッセージを送ってきたのだ。 地下鉄の駅で、ずぶ濡れになった私を見た同僚は複雑な表情を浮かべた。 「澪さん……旦那さん、本当にあなたのこと大切にしてるの?」 私はスカートの裾を絞りながら、無理に笑って見せた。 「彼女の家、土地が低くて浸水しやすいから。それにわざわざ遠回りして私を迎えに来るのも大変だし」 潤んだ瞳に小さな唇、結月は誰もが思わず手を差し伸べたくなるような、儚げな雰囲気を纏う女性だ。 かつて拓海と結婚した時、共通の友人たちに冷やかされたことがあった。 もし結月が海外へ行っていなかったら、拓海と結婚したのは間違いなく結月だっただろう、と。 それを聞いた拓海は、私への愛を示そうとでもしたのか、ひとつのルールを設けた。 それからの数年間、記念日の高価なジュエリーから、話題のお店の限定スイーツに至るまで彼は必ず、同じブランドの全く同じものを「2つ」用意するようになった。 彼に言わせればそれが「公平」ということらしい。 家族に対してすら、これほど徹底的に「公平」を貫ける人間が、他にいるだろうか。 私の弁解を聞き終えると、同僚は静かに私を見つめ返した。 「ねえ、澪さん。あなた、それが本当に『公平』だと思ってるの? 妻として自分だけに向けられるべき愛まで、わざわざ他人と半分こしなきゃいけないなんて…… そんなの『公平』でもなんでもない……あなたに対する侮辱じゃないの?」 私はその場に釘付けになった。 まるで、長い夢から突然目を覚まされたような気分だった。 その日の夕食の席で、結月の前に置かれた、彼が丁寧に剥いたカニの身を見つめる。 私は、自分の目の前にある「全く同じ」カニを残らずゴミ箱に捨てた。 そして、淡々と口を開いた。 「拓海。私が欲しいのは『公平』なんかじゃない。私だけの『特別』なの。 もしそれができないなら……半分こする愛なんて、もういらないわ」 第1話 「澪、何怒ってんだよ?コーヒーならちゃんと二杯作っただろ。 お前と結月に一杯ずつだ。 グラム数までまったく同じにしてやったぞ。俺がこれだけお前に気を遣ったのに、まだ足りないって言うのか? カニだって、せっかく丁寧にほぐしておいたのに、お前が帰ってくるのをずっと待ってたんだぞ。 それを食べないばかりかゴミ箱に捨てるなんて、いくらなんでもやりすぎだろ」 拓海は、全く同じデザインの白い陶器のカップを2つ、ドンッと音を立ててダイニングテーブルに置いた。 コーヒーが数滴飛び散り、真っ赤なテーブルクロスに染みを作った。 彼はテーブルに置いたティッシュをゆっくりと引き抜き、指先を拭きながら不機嫌そうに眉をひそめた。 「結月の住んでる古いアパートは下水が逆流してたんだ。 俺が迎えに行かなかったら、彼女は一晩中屋上に取り残されてたんだぞ。 お前の会社のオフィスビルは地下鉄の駅に直結してるじゃないか。 少し水溜まりを歩けばすぐ駅に着くのに、どうしてこんな些細なことで俺に当たり散らすんだ?」 私はダイニングテーブルの端の椅子に座っていた。 水浸しの靴からは泥水が滲み出し、足元には小さな水たまりができていた。 足先から這い上がる冷たさとともに、腹の底を絞り上げるような激痛が波のように押し寄せてきた。 「拓海。地下鉄の駅からうちのマンションまでは、雨宿りできる場所もない並木道が3キロも続いているのよ」 私は顔を上げた。 声は今にも空気中に溶けて消えてしまいそうなほどかすれていた。 「水は私の腰の高さまであったわ。家まで歩いて帰るのに、丸2時間もかかったのよ。 途中でマンホールの蓋が2つも流されていて、危うく落ちて死ぬところだったの」 拓海の目線が一瞬泳ぐも、すぐにいつもの説教じみた口調に戻った。 「無事に帰ってこれただろ?結月の前で、そんな不安を煽るようなこと言うなよ。 彼女は昔から雷を怖がるし、体も弱いんだ。少し濡れただけで、今も震えが止まらないんだよ。 お前は彼女と違って強いんだから、ホットコーヒーでも飲んで体を温めれば、きっと大丈夫だ」 そう言いながら、彼はホットコーヒーを私の方へ押しやった。 「このコーヒー、お前の好きな豆を使った。結月の分と同じくらい、ちゃんとこだわってるんだぞ。 澪、少しは感謝してくれよ。俺はお前たち二人に対して、常に公平に接しているんだからな」 その時、主寝室のドアが開いた。 結月が拓海のダボダボのバスローブを羽織り、裸足のまま出てきた。 彼女の髪は生乾きで、白い首筋を一筋の雫が伝い落ちていた。 「拓海くん、澪さんを責めないであげて。全部私が悪いのよ」 結月は目を赤くして、怯えたような声を出した。 「こんなことになるなら、私、屋上で一晩中雨に打たれていればよかったわ。 私のせいで澪さんを一人で満員電車に乗せちゃったし、服までこんなに汚させちゃって……」 彼女はダイニングテーブルに近づくと、泥水まみれの私を見て、無意識に拓海の背中へと身を隠した。 「澪さん、早くシャワーを浴びてきて。風邪引いちゃうわよ」 拓海は自然な動きで結月の肩を抱き寄せ、私の足元の泥水を避けるように彼女を自分の横に引き寄せた。 「とりあえずコーヒーを飲め。その後はゲスト用のバスルームを使えよ。 主寝室のバスルームは結月が使ったばかりで湯気で真っ白だからな、お前が入ったら滑って転ぶかもしれない」 なに食わぬ顔でそう言い放つ彼を見て、私の心臓は鈍い刃物で切り裂かれたような痛みを覚えた。 5年前にも、今日のような猛烈な台風があった。 あの頃の拓海は起業したばかりで、タクシー代すら払えないほど貧しかった。 残業していた私を迎えに来るため、彼の中古のバイクは水没して途中で動かなくなってしまった。 それでも彼は、膝まで浸かる泥水の中を、私をおぶったまま5キロも歩いてくれたのだ。 家に着いた時、彼は39度の高熱を出していたというのに、唯一濡れていなかった彼の上着を私の肩にしっかりと巻き付けてくれた。 あの時、彼は私の濡れた髪を撫でながら言ってくれたのだ。 「澪、俺が生きている限り、お前には二度と惨めな思いなんてさせないから」 今、彼は数千万もする高級車に乗っているというのに、私を迎えに来るたった30分の遠回りでさえ、私には許されない贅沢になってしまった。 「何も言わないのか、澪? お前、普段はもっと聞き分けがいいのに」 私が黙っていると、拓海の口調には苛立ちが混じり始めた。 「結月は明日、ギャラリーの面接があるんだ。そんなお通夜みたいな顔をして、彼女を不安にさせるなよ」 私は立ち上がった。湯気を立てるコーヒーには目もくれなかった。 ずぶ濡れのスカートの裾が脚にまとわりつき、氷のように冷たい。 「分かったわ」 私はテーブルを離れ、コーヒーには手を出さず、そのままゲスト用のバスルームへと向かった。 鍵をかけた瞬間、下腹部に激しく引き裂かれるような痛みが走った。 濡れたスカートを脱ぎ、ふと下を見た。 太ももの内側を、嫌に鮮やかな血が伝い落ちていた。 私と拓海が何年も待ち望んでいたこの子は、この台風の夜に消えてしまう。 第2話 「拓海くん、澪さんまだ怒ってるのかな? 泥だらけの服を洗濯カゴに放り込んだせいで、泥水が飛び散って、私の限定モデルのハイヒールまで汚れちゃったのよ」 ドアの外から、結月の甘ったるい愚痴が聞こえてきた。 続いて、拓海の足音が急ぎ足で近づき、バスルームのドアの前に止まった。 「澪!お前、また何のつもりだ?」 拓海がドアをガンガンと激しく叩き始めた。 「結月が明日の面接であのハイヒールを履いていくって知ってて、なんでわざわざ泥だらけにしたんだ!」 私は冷たいタイルの床にへたり込み、バスタブに背を預けていた。 体から血が溢れ出し、白いタイルの上に恐ろしいほどの血溜まりを作り出していく。 指先は凍りついたようで、拳を握りしめる力すら残っていなかった。 「拓海……お腹が、すごく痛いの……」 ドアの向こうへ届かせようと声を絞り出したが、あまりに弱々しいその声は、シャワーの水音にかき消されて途切れてしまった。 「病院に連れて行って……お願いだから」 ドアの外の叩く音が2秒ほど止まった。 すると、拓海がフンと冷笑する声が聞こえた。 「澪、お前の小細工もだんだん見苦しくなってきたな。 台風警報はもう最高レベルに引き上げられてるんだ。 市内の主要道路は全部冠水してて、車なんか出せるわけないだろ。 お前はただ、俺が結月を少し特別扱いしてるのが気に入らなくて、こんな時にわざと俺を困らせようとしてるだけだろ?」 隣で結月が、わざとらしく宥めるような声を挟んだ。 「拓海くん、もしかしたら澪さん、本当に具合が悪いんじゃない? キッチンに行って、温かいうどんでも作ってあげたら?」 「いいんだよ。俺が普段から何でも大目に見てやってるせいで、図に乗ってるだけだから」 拓海は、さも自分がいかに心の広い夫であるかのように、呆れたような口ぶりでそう言い放った。 「結月、あいつを庇う必要はない。 ハイヒールが汚れちまったな。40万円振り込んでやるから、明日店で同じものを買えばいい。 台風が過ぎたら、ハワイにでも気分転換に行こう。 ちょうど向こうのギャラリーで展示会があるからな」 彼はそこで言葉を切り、わざとドアの中の私に聞こえるように声を張り上げた。 「澪!お前の分も同じ便のファーストクラスを予約しておいてやる! ホテルの部屋だって、結月と全く同じオーシャンビュースイートだ! シャワーを浴びたらさっさと床を拭いて、痛み止めでも飲んで寝ろ。 これ以上駄々をこねるなよ!」 足音が遠ざかり、リビングからはバラエティ番組の笑い声が聞こえ始めた。 私はうつむき、広がる血だまりを見つめた。 3年前、妊活がうまくいかなかった時、拓海は私を抱きしめて夜通し泣いたことがあった。 彼は私の平らな下腹部に顔を埋めて誓ったのだ。 もし子供ができたら、自分の命だって私たち母子に捧げると。 今、私の体内に宿ったこの子が消えかけている。 それなのに彼は、ドアの外で他の女に靴代を振り込んでいるのだ。 再び、結月の足音が近づいてきた。 彼女はドアのすぐ外に立ち、声を潜めて言った。 その声には、薄気味悪い笑みが混じっていた。 「澪さんが羨ましいわ。拓海くんはね、あなたが嫉妬しないように、私に靴を買う時は必ずあなたにも同じものを買ってあげるのよ。 たとえあなたが普段、数千円のペタンコ靴しか履かなくて、40万円もするピンヒールなんて絶対に履きこなせないと分かっていてもね。 澪さん、本当はもう気づいてるんでしょ? 拓海くんがあなたにお揃いのものを買うのはね、私へのプレゼントを優先して選んだ罪悪感を隠したいだけなのよ」 そう言い残し、彼女はスリッパをパタパタと鳴らして遠ざかっていった。 唇を強く噛み締めると、口の中に血の味が広がった。 二度と痛みに声を上げることも、拓海に助けを求めることもしなかった。 私は震えてスマホを落としそうになりながらも、病院に電話をかけた。 「助けてください。大出血しています……たぶん、流産です。 住所は……静安町4番地の2号棟、801号室です。 早く救急車をお願いします……もう、意識が……」 電話を切り、私は残された最後の力を振り絞って棚の上のバスタオルを引き下ろし、下半身をきつく巻き込んだ。 リビングから拓海が結月のリンゴを剥きながら楽しそうに談笑する声を聞きながら、私はゆっくりと目を閉じた。 第3話 「赤ちゃんの心拍が確認できません。 ただちに緊急手術を行わなければ、出血性ショックを起こします! すぐにご主人を呼んで同意書にサインさせてください!」 救急救命医は血まみれの手袋をはめたまま、厳しい口調で早口に言った。 冷たいストレッチャーの上に横たわり、意識が朦朧とする私の耳に、医療スタッフの慌ただしい足音とモニターの耳障りなアラーム音が響いていた。 「先生……夫は、来られません」 私は深く息を吸い込んだ。喉の奥が苦くてたまらなかった。 「私自身のサインでは……駄目ですか?」 「全身麻酔を伴う緊急手術です。配偶者かご家族の同意が絶対に必要なんですよ」 看護師がスマホを私の手に押し付けた。 「早く旦那さんに電話してください。 命に関わる事態なのに、奥さんの命より優先する用事なんてあるわけないでしょ」 私は画面に表示された見慣れた名前を見つめ、発信ボタンを押した。 呼び出し音が長く続いた後、ようやく電話が繋がった。 電話の向こうからは、優雅なバイオリンの調べと結月のくすくすという笑い声が聞こえた。 「澪、今度はまた何の真似だ?」 拓海は不機嫌そうに言い捨てた。 「マンションの下に救急車が来た時、住人のグループLINEで大騒ぎになってたぞ! お前、俺の気を引くためだけに救急車まで呼んだのか!?」 「拓海、私、今中央病院の救急救命室にいるの」 天井の白々しい蛍光灯を見つめながら、私は自分でも驚くほど落ち着いた声で答えた。 「妊娠3ヶ月だったの。さっき大出血して……赤ちゃんはもう…… 今すぐ手術が必要なの。だから、病院に来てサインしてもらわないと……」 電話の向こうはしばらく沈黙した。 その後、冷笑が漏れ聞こえた。 「澪、お前、俺を呼びつけるために妊娠なんて嘘までつくようになったのか? 前に健康診断を受けた時、医者はホルモンバランスが乱れていて妊娠しにくいって言ってたよな? なのにお前、妊娠3ヶ月だって? 結月が救急車のサイレンに怯えてたから、とりあえずペニンシュラに連れてきて泊まってるんだ。 俺の気を引くために、今度は他人に医者のフリまでさせて俺を騙す気か? いい加減にしろ!」 拓海からLINEに1枚の写真が送られてきた。 洗練された白い陶器の皿には黒トリュフのエッグベネディクトが盛られ、その横にはピンクの百合の花束が添えられている。 「お前にはデリバリーを頼んでおいた。お前が一番好きな海鮮料理だ」 拓海は電話越しに冷たく言い放った。 「結月が食べてるのと同じレストランで作られたものだし、配送料も俺が払った。 これで文句ないだろ? もう病院で恥を晒すのはやめろ。 さっさと家に帰って粥を食って、部屋の掃除でもしておけ。家の中が散らかってるぞ」 ツーツーツー…… 電話は一方的に切られた。 傍らにいた看護師が、怒りで顔を歪めていた。 「なんなのあの男!こんなに出血してるのに、お芝居だなんて……」 「サインさせてください」 私は目尻からこぼれ落ちた涙を拭い、医師に向かって手を伸ばした。 「私、あの人とは離婚します。 何があっても、全責任は自分で負いますから」 医師は深いため息をつき、やがて手術同意書を私に差し出した。 麻酔医が歩み寄り、冷たい液体が手の甲の点滴針から血管へと流れ込んでいった。 視界がぼやけ始めた時、私の脳裏に拓海がプロポーズしてくれた時の光景が浮かんだ。 彼は決して大きくも眩しくもない小さなダイヤの指輪を掲げ、アパートの安っぽいクッションフロアの上に片膝をついたのだ。 彼は言った。 「澪、お前の痛みも全部俺が背負う。これから先、一人で病院に行かせるような真似は絶対にしない。 もう二度と、一人ぼっちで寂しい思いなんかさせないから」 かつて永遠の愛を誓ってくれたのに、彼が口にする「公平」と幼馴染の存在の前では、紙くず以下の無価値なものでしかなかったのだ。 麻酔がゆっくりと感覚を奪っていく。 白く濁っていく意識の最後に、私はまだ一度も顔を合わせることのなかった我が子に心の中で「ごめんなさい」と深く詫びた。 私が拓海を愛したこの10年間のすべてがあの台風の夜と共に、跡形もなく消え去っていった。 第4話 手術が終わってから4時間後、私はベッドの背もたれに体を預けながら、あらかじめ用意しておいた離婚協議書を拓海に送信した。 財産分与で揉めるつもりはない。私は、自分名義の給与口座のキャッシュカード1枚だけを持っていくつもりだ。 彼が「公平」と称して私に押し付けてきた、お揃いのブランド品なんて要らなかった。 メッセージを送信してわずか30秒後、拓海から電話がかかってきた。 「澪、お前、いい加減にしろよ!」 その声には苛立ちと皮肉がにじみ出ていた。 「救急車なんか呼んで、あてつけがましく大騒ぎした挙句、住人たちに俺たちを笑い者にしようって魂胆か? 今度は離婚協議書だと?一体どこで何やってるんだよ!」 点滴のボトルからぽたりと落ちる雫を見つめながら、私は淡々と答えた。 「拓海、離婚協議書はメールで送ったわ。 プリントアウトしてサインしておいて、来週の月曜、朝9時に市役所の前で会いましょう」 「離婚を盾に取れば俺が慌てて機嫌を取るとでも思ってんのか!」 電話の向こうで、拓海が声を荒げた。 「結月はうちで少し雨宿りしただけだろう。 お前が不機嫌そうにしてたから、わざわざ外に泊まりに行ってくれたんだぞ。 それなのにまだ騒ぎ立てる気か? さっきお袋からも連絡があったぞ、いつも通りにお袋の薬を届けに行かなかったそうだな? お前、妻としての最低限の役割すら果たす気がないのか? 澪、よく聞いておけ! 音信不通にすれば俺が焦って謝ってくるなんて、そんな甘い考えは今すぐ捨てろ」 電話の向こうから、車のエンジン音とワイパーの音が聞こえてきた。 「さっき花屋の前を通ったから、シャンパンローズの花束を買ってやった。 結月がギャラリーに採用されたお祝いに買ってやったのとまったく同じものだ。 ついでに、結月と全くお揃いのネックレスも注文しておいてやったぞ。 だから、少しでも頭が冷えたら、大人しく家に帰って結月に謝れ。 そうすれば、この件は水に流してやる。 それが嫌なら、そのまま外で野垂れ死ね!二度と俺に泣きついてくるな!」 彼の独りよがりな言葉を聞いて、私は心の底から呆れ果てた。 「拓海、そのネックレスは結月にでもあげて、日替わりで着けさせれば? 私はもう、そんなもの要らないから。 それから、これからはお義母さんへの薬も、その優しい幼馴染にでも頼めば?」 そう言い捨てて、私は一方的に電話を切り、そのまま彼の番号を着信拒否に設定した。 点滴の交換に来ていた看護師が電話のやり取りを聞いて痛々しいものでも見るような視線を向けていた。 私の顔から血の気が引いているのに気づいたのか、彼女は何も言わずに点滴の速度を少し落としてくれた。 「澪さん、今はとにかく休んでくださいね。 手術を終えたばかりですし、あれだけ出血したんですから。 無理をなさってはダメですよ」 看護師は私のネームプレートを確認しながら、少し大きな声で言った。 「あんな身勝手な男のために命を削るなんて馬鹿げてます! 誰か他のご家族に連絡できませんか? 今のあなたはひどい貧血状態なんです。 もし午後になっても数値が上がらなければ、集中治療室に入っていただくことになりますよ」 ちょうどその時、枕元のスマホの画面が明るくなった。 知らない番号からだった。 何気なく電話に出ると、まだ私が一言も発しないうちに拓海の氷のように冷たく、怒りに満ちた声が響いた。 「澪、俺を着信拒否するとはいい度胸だな?適当な場所に隠れていれば俺は……」 看護師はそれ以上聞いていられず、私の手からスマホを奪い取った。 静まり返った病室に看護師の凛とした怒りに満ちた声が響き渡った。 「澪さんの旦那さんですね! 奥さんは流産で大量に出血して、今、集中治療室に入るかもしれないっていう危険な状態なんですよ! まさか、自分の妻を死ぬまで追いつめる気ですか!?」 電話の向こう、拓海の息遣いがピタリと止まった。 それに続いて騒がしい混乱の音が聞こえてきた。 急ブレーキの甲高い音と花束が地面に落ちる音、そして、拓海の震える裏返った叫び声が響いた。 「流産!?大出血だと!? 澪、お前、本当に病院にいるのか!?どこの病院だ!?今すぐ教えろ!」