第1章
私の名前は相沢知佳(あいざわ ちか)。彼氏の江坂隼(えさか はやと)は、私が離れていくんじゃないかといつも不安がり、SNSでもしょっちゅう私との仲のよさをアピールしていた。
私が少しそっけなく返しただけで、彼はあれこれ悪いほうに考え、まだ自分のことが好きなのかと聞いてきた。
そんなに私が離れるのが怖いなら、どうしてプロポーズしてくれないのか。そう聞くたび、彼は決まって私の頭を撫でながら、私のために最高の結婚式を挙げたいから、もう少し準備に時間をかけたいと答えていた。
でも、私たちはもう3年も付き合っていたし、そもそも私は豪華な結婚式なんて望んでいなかった。
それなら私からプロポーズしようと、彼の家で夜中まで待っていた。ところが、彼は私の親友の南条夕夏(なんじょう ゆうか)と抱き合い、キスをしながら帰ってきた。
夕夏は泣きながら、隼の頬を思いきり叩いた。
「毎日のようにSNSで知佳との仲をアピールしてたのは、私に見せるためだったんでしょ?
別れてからもずっとあなたのことが気になってたのは本当。でも、だからって知佳を裏切るわけにはいかない!」
隼は目を赤くし、夕夏を逃がすまいと強く抱き寄せた。
「ああ、そうだ。あの投稿はお前に見てほしくて載せてたんだ。あの頃の俺の悪いところはもう直したって、わかってほしかった。
知佳には俺からちゃんと話す。でも、お前と俺たちの子供を放っておくわけにはいかない。俺が責任を取る」
指輪の箱を握る手に力が入り、手のひらがじんじんと痛んだ。胸の奥も何かがつかえたようで、息苦しかった。
彼がSNSであれほど私との仲をアピールしていたのは、私のためじゃなかった。ただ、夕夏の気を引きたかっただけだった。
それなら、私が身を引けばいい。
第1話
視界がにじみ、スマホの画面に涙がぽたりと落ちた。
何より大切に思っていた二人に、こんなにも長い間騙されていたなんて。私って、本当に馬鹿だった。
私はこれまで何度も、隼に甘えて結婚をせがんでいた。
「ねえ、結婚してよ。私、あなたと家族になりたいの」
そのたびに隼は私を抱き寄せ、優しくも真剣な口調で答えてくれた。
「知佳、俺だってお前と結婚したい。でも、苦労はさせたくないんだ。今の貯金じゃ、満足な結婚式も挙げられないし、結婚してからの生活だって楽じゃない。もう少し余裕ができたら、すぐにプロポーズするから」
私はずっと、その言葉を信じて疑わなかった。少しでも彼の負担を減らしたくて、自分の出費を切り詰め、こっそり彼の口座にお金を振り込んでいた。
結婚に必要なお金が貯まり、私たちも一日でも早く結婚できればと、そればかり願っていた。
けれど、今になってようやく気づいた。あの「もう少し余裕ができたら」という言葉は、最初からただの言い訳だったのだ。
うつむいたまま、母にメッセージを送った。
【お母さん、この前の話だけど、受けることにしたよ】
母からはすぐに返事が来た。
【わかった。明日、彼が迎えに行くわ】
私は目元の涙を拭うと、迷わず指輪を箱ごと足元のゴミ箱に放り込んだ。
厚紙の箱がゴミ箱の底にぶつかり、鈍い音が部屋にはっきりと響いた。
その音に二人はびくりとし、そろって寝室のほうを振り向いた。
隼はとっさに夕夏を背後にかばい、寝室に向かって声をかけた。
「……誰かいるのか?」
私は隠れることなく寝室のドアを開け、静かに答えた。
「私だよ」
私を見るなり、隼も夕夏もその場で固まり、みるみる顔から血の気が引いていった。
隼は驚いたように目を見開いた。
「知佳?なんでここにいるんだよ。今日来るなら、先に連絡してくれればよかったのに」
隼は私を抱きしめようと近づきかけたが、夕夏の傷ついたような視線に気づき、足を止めた。
一瞬ためらったものの、結局は夕夏の隣に戻った。
並んで立つ二人を見て、私は思わず冷ややかな笑みを浮かべた。
もし今日、前もって連絡していたら、きっと私は一生、二人の本当の関係を知らずにいただろう。
夕夏はすかさず私に歩み寄り、親しげに腕を絡めてきた。
「知佳、起こしちゃった?変なふうに思わないでね。隼に呼ばれて来ただけなの。知佳にプロポーズするとき、何を用意したらいいか相談したいんだって」
夕夏はもっともらしい顔で話を続けた。
「二人で知佳を驚かせるつもりだったのに、先にバレちゃったね」
隼は夕夏の言葉に飛びつくように、すぐさま話を合わせた。
「そうなんだよ、知佳。今朝、いつプロポーズしてくれるのって聞いただろ?それで夕夏に相談に乗ってもらってたんだ。女の子の意見も聞いておきたかったし、せっかくならお前に喜んでもらいたくてさ」
私はそっと目を伏せ、二人の嘘には気づかないふりをした。
どうせもうすぐ、二人の前からいなくなるのだから。
そこまで私を大切にしているふりをしたいなら、私もその芝居に付き合ってあげよう。
第2話
突然、窓の外で低い雷鳴が響き、激しい雨が窓ガラスを叩いた。
その音に、隼はとっさに身をひねり、夕夏を背後にかばった。
あまりにも自然な動きで、すぐそばに私がいることなど、すっかり忘れているようだった。
夕夏はびくっと肩をすくめ、そのまま隼の胸に身を寄せた。
「雷、怖い……」
隼は夕夏のことばかり気にかけ、その腕を優しく叩いてなだめていた。ようやく私のほうを向くと、少し眉をひそめた。
口調は穏やかだったが、どこか有無を言わせない響きがあった。
「雨もこんなにひどくなってきたし、お前はそろそろ帰ったほうがいいぞ」
私は一瞬、言葉が出なかった。私だって雷が怖いのに、隼はすっかり忘れていたのだ。
外の雨はさらに強くなっていた。隼は玄関の棚から傘を一本取って私に押しつけると、背中を軽く押して帰るよう急かした。
「ほら、早く帰れって。着いたら連絡くれよ」
傘を開こうとしたら、カチッと音がして、骨の一本が変な方向に跳ね上がった。
「この傘、壊れてるよ」
小声でそう言うと、隼は傘をちらっと見ただけで、面倒くさそうに眉をひそめた。
「まあ、なんとか使えるだろ。タクシー拾えばすぐだし」
隼は何度も夕夏のほうを振り返り、別の傘を探そうともしなかった。
そして夕夏に向き直ると、今度はすっかり優しい声で話しかけた。
「寝室のシーツも布団カバーも替えたばっかりだ。雷が怖かったら、家中の電気、全部つけていいぞ」
私がなかなか動かずにいると、隼はドアノブに手をかけ、ゆっくりとドアを閉めていった。隙間から漏れる部屋の明かりも、少しずつ細くなった。
「知佳、外は寒いぞ。早く帰れよ」
私の名前を呼んでいるくせに、隼の目はずっと夕夏に向けられたままだった。
外はひどい土砂降りで、タクシーは一台もつかまらなかった。仕方なく家まで雨の中を歩き、ようやく帰り着いた頃には、全身びしょ濡れになっていた。
スマホには何の通知もなく、隼からのメッセージは一通すら届いていなかった。
頭が重く、ずきずきと痛んだ。シャワーを浴びる気力も残っておらず、そのままソファで体を丸めた。
ぼんやりしているうちに意識が遠のき、次に目を覚ましたときには、窓から朝の光が差し込んでいた。
額に温かい手が触れていた。
隼がソファのそばにしゃがみ、心配そうに私の顔を覗き込んでいた。眉をひそめながら何度も手の甲で熱を確かめ、少し責めるように言った。
「知佳、少しは自分の体を大事にしろよ。こんなに熱が出てるじゃないか」
隼は私の頬に張りついた髪を指でそっと払うと、ため息をついた。
「ほんと、いつまでたっても子供みたいだな。俺がいなきゃダメなんだよな」
頭はまだぼんやりしていた。それでも、昨夜の土砂降りや、隼に玄関から押し出されたときのことが次々と思い浮かんだ。
あの雷雨の中に私を追い出したのは隼なのに、今はまるでずっと私を心配していたかのような顔をしていた。
私は何も言わず、そっと顔を背けて、額に触れていた隼の手を避けた。
隼は私のよそよそしい態度にも気づかず、そのまま立ち上がり、キッチンへ向かいながら言った。
「薬も買ってきたし、おかゆも作ってあるから、少しでも食べろよ。
昨日の夜は夕夏が雷をひどく怖がっててさ。どうしても一人にしておけなくて、来るのが遅くなっちまった」
隼はそれだけで、昨夜のことをあっさり片づけてしまった。
私があの雨の中を歩いて帰り、熱まで出したことも、彼にとってはたいしたことではなかったのだろう。
第3話
体がだるくて手足に力が入らず、起き上がるのもやっとだった。
隼はおかゆの入った器を持ってくると、スプーンで一口ずつ食べさせてくれた。
温かいおかゆを食べても、気持ちは少しも和らがず、味もほとんどわからなかった。
何口か食べたところで、私はかすれた声で言った。
「隼……お願い、病院に連れてって。点滴してもらいたいの」
いつもよりそっけない私の態度が気に入らなかったのか、隼は手を止めて眉をひそめたが、少し迷った末にうなずいた。
「わかった。食べ終わったら病院に連れてくよ」
急いでおかゆを食べ終えると、厚手のコートを羽織り、やっとの思いで隼の車に乗り込んだ。
車の窓は半分ほど開いていて、ときおり冷たい風が吹き込んできた。私は熱で頭がぼうっとしたまま、助手席にもたれていた。
車が走り出してすぐ、隼のスマホが鳴った。
電話の向こうから、今にも泣き出しそうな夕夏の慌てた声が聞こえてきた。
「隼、どうしよう……家の水道管から水が漏れて、床が水浸しになっちゃったの。一人じゃどうしたらいいかわからなくて……」
「大丈夫、落ち着け。すぐ行くから」
隼は優しく答えると、車を路肩に寄せて停め、ぐったりしている私のほうを向いた。
「知佳、ごめん。夕夏の家、水道管から水がひどく漏れてるみたいでさ。あいつ一人じゃどうにもできないだろうし……」
私は呆然と隼を見つめた。喉がきゅっと締めつけられるようだった。
「私、熱があるんだよ……点滴してもらわなきゃいけないのに」
「つらいのはわかってるよ」
隼はそう言いながら私のシートベルトを外すと、ドアを開けて車から降ろした。
「病院まであと少しだろ?悪いけど、ここからは歩いて行ってくれ。俺は夕夏のところに行ってくる。終わったらすぐそっちに行くから」
私が何か言う間もなく、隼の車はあっという間に見えなくなった。
冷たい風が吹きつけ、熱で体は火照っているのに、寒くてたまらなかった。
でこぼこした道で何度も足を取られ、転びそうになった。それでも残った力を振り絞り、一歩ずつ歩き続けた。
病院にたどり着くまで、40分以上もかかった。
点滴の針を刺してもらい、冷たいベンチに一人座った。点滴が一滴ずつ落ちていくのを、ただぼんやりと眺めていた。
点滴が終わり、針を抜いてもらって廊下の角を曲がると、隼と夕夏にばったり出くわした。
夕夏は片手に妊娠検査の結果が書かれた紙を握りしめ、もう片方の手で隼と手をつないでいた。
二人とも幸せそうで、何かを心待ちにしているようだった。
ところが、私と目が合った途端、隼の笑顔が凍りつき、思わず口走った。
「あっ、知佳もここにいるの忘れてた……別の病院にすればよかった」
隼ははっとして夕夏の手を離すと、慌てて私のところへ駆け寄ってきた。
「いや、違うんだ、知佳!聞いてくれ。さっき夕夏の家の水漏れを直してきたんだ。それで夕夏もお前が心配だから、様子を見に行きたいって言うからさ。一緒に来たんだよ」
急に手を離された夕夏は、お腹をかばうように手を添えたまま、戸惑った顔で立ち尽くしていた。
慌てて言い訳する隼を見ていると、思わず口元がゆがみ、乾いた笑いが漏れた。
高熱を出した私を道端に置き去りにして、夕夏の妊娠検査には付き添っていたくせに。それなのに、まだそんな見え透いた嘘をつくなんて。
「もう言い訳しなくていいよ。全部知ってるから」
私は静かにそう告げた。
それでも隼は、私の腕をつかもうと手を伸ばしてきた。
私は身をかわしてその手を避け、隼の向こうにいる夕夏を見た。
すると、大学時代の思い出が次々とよみがえってきた。
あの頃、夕夏とはいつも一緒だった。同じ部屋で暮らし、ご飯も一緒に食べて、お互いに隠し事なんてほとんどなかった。
夕夏は私の幸せを願って隼を紹介してくれたのだと信じ、心から感謝していた。
でも、二人が昔付き合っていたなんて、夕夏は一言も教えてくれなかった。知っていたら、隼になんて近づかなかったのに。
隼とのことで嬉しかったことも、つらかったことも、私は何でも夕夏に打ち明けていた。それほど彼女を信頼し、一生の親友だと思っていたのだ。
まさか、最初から騙されていたなんて。
第4話
これ以上二人に付き合う気にもなれず、私は隼の横をすり抜けて病院の出口へ向かった。
「待ってくれ!頼むから話を聞いてくれよ!」
隼は焦った声で私を呼び止め、急いで追いかけてきた。
夕夏もお腹に手を添えたまま、隼の横に並んで小走りで追ってきた。そして、小さな声で言った。
「知佳、お願い……このまま帰らないで」
私は振り返りもせずに歩き続けた。二人の声を聞くだけで、吐き気がこみ上げてきた。
しつこく引き止められながらも、どうにか病院の外まで出た。歩道で足を止め、タクシーを拾おうと手を上げた。
二人もすぐそばまでついてきていた。
「なあ、頼むから話を聞いてくれよ。お前が思ってるようなことじゃないんだ」
私は何も答えず、ただ行き交う車を見つめていた。
そのとき、車道の中央に突然一台の車が飛び出してきた。
猛スピードで蛇行したかと思うと、そのまま歩道へ突っ込んできた。
「きゃあっ!」
夕夏が悲鳴を上げ、とっさに隼に身を寄せた。
あっという間に車が迫ってきた。
「危ない!」
隼は私ではなく夕夏に向かって叫び、とっさに彼女をかばった。
私もまだ、避けられるはずだった。
けれどその瞬間、夕夏をかばおうとした隼の腕が、私の背中を強く押した。
突然押し出されて踏ん張ることもできず、私は足を滑らせ、そのまま車道へよろめき出てしまった。
「隼、助けて!」
思わず叫んだ。恐怖で心臓が止まるかと思った。
車のライトが目の前に迫り、運転手の慌てた表情まではっきり見えた。
間一髪、運転手が急ハンドルを切り、タイヤが路面をこする甲高い音が響いた。
車体が私の二の腕を激しくかすめ、そのまま猛スピードで走り去った。
私は縁石に体を打ちつけ、ざらついたコンクリートで手のひらを擦りむいた。
焼けるような痛みが走り、腕にも擦り傷と赤紫色のあざが広がっていた。
痛みをこらえて顔を上げると、隼は夕夏をしっかり抱きしめていた。
私には目もくれず、夕夏のことだけを見ていた。
「大丈夫か?どこか痛くないか?お腹は平気か?」
隼は声を震わせながら、夕夏に怪我がないか何度も確かめていた。すぐそばに私が倒れていることなど、まるで目に入っていないようだった。
夕夏は青ざめた顔を隼の胸にうずめ、震える声で答えた。
「うん……大丈夫。だけど、怖くて……」
隼は険しい顔のまま、夕夏の腰とお腹をかばうように、そっと抱き上げた。
「念のため、もう一回診てもらおう。お腹の子に何かあったら大変だ」
隼は夕夏を抱えたまま、病院へ向かって歩き出した。立ち止まることも、こちらを振り返ることもなかった。
夕夏は隼の肩に頬を寄せたまま、ちらりとこちらを見た。
何か言おうとしたのか、唇がかすかに動いた。けれど、結局何も言わず、二人はそのまま遠ざかっていった。
手のひらの傷には砂や泥が入り込み、血がじわじわとにじんでいた。腕の痛みもまだ引かなかった。
でも、胸の奥はもっと痛かった。
遠ざかる隼の背中を見ていたら、鼻の奥がつんとした。なのに、涙は一滴も出なかった。
隼への未練も、もうすっかり消えていた。
でも、よかった。
もうすぐ、あの人が迎えに来てくれる。
さよなら、隼。
もう二度と会わない。