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私を捨てた夫が恋したのは、20歳の私でした
38歳の誕生日に、私、柏木美緒(かしわぎ みお)は夫から離婚を切り出された。 夫の柏木修平(かしわぎ しゅうへい)は40歳を目前にして、また本気の恋をしたらしい。 「美咲はまだ20歳で、素直で優しいんだ。お前みたいな、年を取ったつまらない女とは違う」 鏡の中の私は、すっかり生気をなくしていた。その姿を見つめ、私はうなずいた。 これで、最近の修平の変わりようにも納得がいった。 彼は急に身なりを気にし始めた。 出かける前には必ず香水をつけ、毎日花束を買っていた。 どんなに忙しくても、仕事が終わったら真っ先にジムへ向かった。 離婚を切り出したあと、修平は私に尋ねた。 「美緒、7年も専業主婦をしてきたお前が、俺と離婚しても平気なのか?あとになって別れたくないなんて言って、すがりついてくるなよ」 私は笑った。 「そんなことしないよ」 だって、夫が恋に落ちた彼女は、20歳の私だから。
Chapters (1)
第1章
38歳の誕生日に、私、柏木美緒(かしわぎ みお)は夫から離婚を切り出された。
夫の柏木修平(かしわぎ しゅうへい)は40歳を目前にして、また本気の恋をしたらしい。
「美咲はまだ20歳で、素直で優しいんだ。お前みたいな、年を取ったつまらない女とは違う」
鏡の中の私は、すっかり生気をなくしていた。その姿を見つめ、私はうなずいた。
これで、最近の修平の変わりようにも納得がいった。
彼は急に身なりを気にし始めた。
出かける前には必ず香水をつけ、毎日花束を買っていた。
どんなに忙しくても、仕事が終わったら真っ先にジムへ向かった。
離婚を切り出したあと、修平は私に尋ねた。
「美緒、7年も専業主婦をしてきたお前が、俺と離婚しても平気なのか?あとになって別れたくないなんて言って、すがりついてくるなよ」
私は笑った。
「そんなことしないよ」
だって、夫が恋に落ちた彼女は、20歳の私だから。
第1話
私の38歳の誕生日は、13回目の結婚記念日でもあった。
朝早く、10歳の息子、柏木悠斗(かしわぎ ゆうと)を算数のコンテストへ送り出したあと、修平が上の階から下りてきた。
今日も新しいネクタイを締め、珍しくタイピンまでつけている。
子熊がにっこり笑う、かわいらしいデザインだった。ひと目で、若い女の子が選んだものだと思った。
修平は、リビングにいた私へ冷めた視線を向けた。
またいつもの嫌みを言われるのだと思った。その言葉は、もううんざりだった。
「お前、いつもエプロン姿だな。まるで家政婦みたいだ」
けれど、その言葉は出てこなかった。
修平は淡々と告げた。
「美緒、離婚しよう。離婚協議書はもう用意してある」
私はエプロンのポケットに手を入れ、修平を振り返った。
「どうして?」
修平はタイピンに触れながら、悪びれもせず、好きな人ができたと話し始めた。
相手の女性は、会社に来たばかりのインターンだという。その子のことを話す修平の声は、優しかった。
「美咲はいつも明るくて、生き生きしてるんだ。ちゃんと離婚してから、付き合ってくれって言うつもりだよ。あの子を不倫相手だなんて呼ばせるわけにはいかないからな」
美咲のことを愛おしそうに話していた修平が、私を見るなり、うんざりした顔になった。
私は思わず、冷めた笑みを浮かべた。
私だって、昔は生き生きしていて、修平に愛されていたのに。
年を取って、若い頃のような魅力がなくなった私は、もう目障りでしかないのだろう。
「お前にとって、離婚が簡単じゃないのは分かってる。お前が20歳の頃から、何も持っていなかった俺とここまでやってきたんだからな。7年も専業主婦で、体も弱い。悠斗だって、まだ10歳だ……」
その言葉に胸が痛んだ。もう、あれこれ話す気にはなれなかった。
「その子は、あなたが離婚するつもりだって知ってるの?」
修平は、美咲もきっと自分を好きになると信じきっているようだった。その口ぶりには、美咲への甘さがにじんでいた。
「まだ言ってない。あの子を不倫相手なんかにしたくないんだ。だから美緒、もう俺を自由にしてくれ。俺は美咲と一緒になりたいんだ」
修平の整った顔には、年齢による衰えが見えなかった。むしろ、落ち着いた大人の魅力が増していた。
修平のスーツは、昨夜私がスチームで整えた。腕時計も、私が手入れに出したばかり。柑橘系の香水も、これがいいと頼まれて私が買ったものだ。
見た目はこんなに立派なのに、私にはどこまでも冷たい。
私は笑って答えた。
「分かった」
修平はほっとしたように、表情を緩めると、ソファに掛けてあったシャツを私へ差し出した。
「コーヒーをこぼした。手洗いして、シミ落としといて」
何でも私にやらせておいて、家政婦みたいだとばかにする。挙げ句、若い子を好きになったから、私はもういらないなんて。ずいぶん勝手な話だ。
修平が出ていくと、私はエプロンのポケットからスマホを取り出した。美咲との通話は、まだつながっていた。
「今のを聞いても、私が幸せだと思う?修平はずっと変わらず私を愛してくれる人だって、まだ信じてるの?」
美咲は長いこと黙っていたが、やがて焦ったように声を上げた。
「でも、どうして離婚するの?私は18年前のあなたなのよ。修平が好きになったのが私なら、あなたを好きなのと同じじゃない?」
私はそれ以上答えず、通話を切った。
美咲が18年前の世界からやってきたのは、3か月前だった。私を見るなり、興奮した様子で尋ねてきた。
「修平と結婚したの?ふたりは幸せ?」
あのときは、どう説明すればいいのか分からなかった。
だから、彼女に「美咲」という仮名を使って修平へ近づいてもらい、それでも私への気持ちが変わらないか、賭けをすることにした。
修平が私より美咲を選んだら、美咲の負け。
そのときは過去へ戻り、もう修平とは関わらない。それが条件だった。
そうして3か月、美咲が修平に近づいた結果、修平は彼女に恋をして、私と別れたいと言い出したのだ。
荷造りはすぐに終わった。持ち出すものは、スーツケースひとつに収まった。
7年前に専業主婦になってから、修平にもらった高価な服や宝石は、すべて売って現金に換えるつもりだった。
自分を守ってくれるのは、現金だと思っていたから。
家を出ようとしたところで、悠斗が帰ってきた。修平によく似た顔立ちで、すました表情をしていた。胸には金メダルをつけていた。
物心ついた頃から、おとなしい子だった。私と修平がもめると、悠斗はいつも自分の部屋へ戻り、扉を閉めた。
私は笑顔を向けた。
「1位だったんだ。すごいね」
悠斗はスーツケースへ目をやり、一瞬足を止めた。
それから私の横を通るとき、金メダルをスーツケースの上へ置いた。
「誕生日のプレゼント」
照れくさそうに小声でそう言うと、振り返らずに階段を上がっていった。
悠斗のひと言に、思わず息が震え、涙がこみ上げてきた。
13年前、結婚したとき、修平は私を抱きしめてこう言ってくれた。
「これからは、美緒の誕生日が結婚記念日にもなるんだな。俺にとって、どっちも大切な日だ。絶対に忘れないよ」
それなのに、覚えていてくれたのは悠斗だけだった。
修平は、何もかも忘れてしまった。
あの日の約束も、私を愛してくれた日々も。修平にとってはもう、どうでもいいことなのだ。
第2話
家を出た私は、結婚前に買った小さなマンションへ向かった。
玄関の前では、美咲が待っていた。長い髪に白いワンピース。澄んだ目をしたその姿は、日の光の中でまぶしかった。
私に気づくと顔を輝かせたが、スーツケースを見た途端、表情が曇った。
「本当に離婚するの?修平が私を好きなら、あなたを好きなのと同じじゃない?見た目じゃなくて、私たちの中身を愛してるんじゃないの?」
次々に問いかけるうちに、美咲の目が赤くなった。私は美咲の目元の涙を拭い、部屋へ招き入れた。
荷物を置き、私ははっきり伝えた。
「修平にとっては、私とあなたは別人なの。心がほかの人に移れば、それも浮気でしょ。体の浮気とどっちが悪いかなんて、どうでもいいわ」
美咲が黙った。
その顔には、若い頃の私が持っていた明るさと自信があった。同じ顔をしていても、今の私は違う。どれだけ手入れをしても、疲れきった顔は隠せなかった。
「あの頃は、私のためなら命も惜しくないほど愛してくれたのに。どうして心変わりしたの?」
涙が美咲の頬を伝った。私は思わず手を握りしめた。
そうだ。あれほど深く愛してくれた人が、今は同じくらい深く私を傷つけていた。
修平と出会ったのは、京央大学だった。同じサークルにいたものの、話す機会はそれほどなかった。
修平は私に一目ぼれしたらしい。好意を伝えるときも、強引に距離を縮めようとはせず、私の気持ちを尊重してくれた。
私も彼に好感は持っていたが、まだ恋ではなかった。
私は留学して、ずっと夢見ていた仕事を目指したかった。
すべてが変わったのは、出国する日だった。
修平や友人たちが空港へ見送りに来てくれた。そのとき、突然、男が刃物を振り回し始めた。
私に刃物が振り下ろされたとき、修平がかばってくれた。
何度切りつけられても、私を抱きしめたまま離さなかった。私がいくら叫んでも、その腕をほどこうとはしなかった。
駆けつけた警察官が犯人を取り押さえたときには、修平は私の腕の中で、かろうじて息をしていた。
「美緒……無事で、よかった……」
私は声を上げて泣いた。自分の命より私を大切にしてくれる人がいるなんて、思いもしなかった。
それから修平と付き合い始め、私は段々と彼にひかれていった。
目の前の美咲は、あの事件の直後から時を越えてきた。
血まみれのまま現れた美咲は、修平が助かり、私たちが結婚したと知ると、私に抱きついて泣いた。
「よかった。ちゃんとハッピーエンドになったんだね!」
小説なら、ふたりが結婚したところで終わる。けれど、「おわり」の先にも暮らしは続く。幸せな結末のままでは、いられなかった。
私は美咲を静かに見つめた。
「覚えておいて。男の愛情なんて、花より早く枯れるの」
美咲がぼうっと私を見た。私はバッグから、早期の乳がんと診断されたときの診断書を取り出した。
美咲は信じられないというように、目を見開いた。
修平が私を疎ましがるようになったのは、いつからだっただろう。
修平が会社で初めて数億円の仕事を取り、私を見下した目で見るようになった頃だろうか。
それとも、妊娠して体形が変わり、おなかに妊娠線ができた頃だろうか。初めてそのおなかに触れた修平は、恐ろしいものでも見たように、その場で吐いた。そして私を責めた。
「美緒、どうしてこんなに気持ち悪くなったんだよ!」
あるいは、産後で体調も戻らない私に、義母が家事を押しつけ、私がもう無理だと訴えたときのことかもしれない。
家族全員に追い詰められ、産後うつで心が壊れそうになっていた私に、修平はただ、うんざりした目を向け、何でもないことのように言った。
「美緒、いい加減にしろよ」
そんな出来事が、一つ、また一つと積み重なっていった。
結婚6年目、私は健康診断をきっかけに乳がんと診断された。
その日、修平の会社が上場した。修平が大勢に祝われている間、私は乳がんを理由に、会社から退職を迫られていた。
病院の長椅子に座り、私は泣いていた。何もかも失ったようで、どうしたらいいのか分からなかった。
修平は病院まで来てくれたが、私を抱きしめることも、慰めることもしなかった。ただ眉をひそめ、他人を見るような目で私を見た。
「早期のがんだろ。それくらいで泣くなよ。美緒、俺は忙しいんだぞ」
涙は止まり、少しずつ何も感じなくなっていった。
修平への気持ちが完全に冷めたのは、その後、義父と義母が食事に来た日のことだった。
私は寝室に閉じこもっていた。部屋の外からは、楽しげな笑い声が聞こえていた。
ようやく落ち着き、部屋を出ようとしたとき、修平の声が聞こえた。
「父さんと母さん、それぞれの名義で海外に家を買っておいた。うっかり話すなよ」
全身が冷たくなった。
私が病気になっても、修平はそばで治療を支えることなど考えていなかった。夫婦の財産を、私に隠れて移す算段をしていたのだ。
私の手の甲に落ちた涙で、我に返った。
泣いていたのは美咲だった。美咲は震える手で、私の服をそっと持ち上げた。
下腹部に残る帝王切開の傷と、今も消えない妊娠線。
美咲は、出産で私の体がどれほど傷ついたのか、はっきりと知った。
「最低だよ、あんな男。私が離婚を手伝う。もう、こんなにつらい思いはさせないから」
不意に涙がこぼれ落ちた。
結局、最後に私を救ったのは、私自身だったのだ。
彼女は優しく私を抱きしめた。
「絶対にがっかりさせないから」
第3話
翌朝、私は修平の会社を訪ね、机に離婚協議書を置いた。
修平は驚いた顔で私を見た。私が本気で離婚に応じるとは、思っていなかったらしい。
「こんなにあっさり応じるのか?お前、7年も専業主婦をしてたんだぞ。俺と別れて後悔しないのか?」
修平は、私が泣いてすがり、考え直してほしいと頼むものだと思っていたのだろう。私はただ、修平の前にペンを置いた。
「サインして。悠斗の親権は求めない。欲しいのは2億円と、都心の家だけ」
修平は一瞬黙り、それから鼻で笑った。
「お前にそんな大金を受け取る権利があると思ってるのか?家事と子育てしかしてないだろ。俺は外で働いて家族を養って、お前のがんの治療費まで出した。
俺とお前の親の面倒も見て、不倫だってしてない。裁判になったら、どっちが有利だと思う?」
私は一度、深呼吸をした。
修平は外では後ろ指をさされるようなことをしなかった。裕福になっても家族を大切にする、いい夫だと誰もが褒めた。
美咲と付き合うのさえ、離婚してからにするつもりだった。
私はバッグから書類を取り出した。
「応じないなら、全部公表してもいいよ。そうなったら、あなたの大事な美咲も不倫相手だと言われるでしょうね」
修平が私をにらんだ。
「あの子はまだ20歳なんだぞ。あの子に何かしてみろ。死んだほうがましだと思うくらい、追い詰めてやる」
以前、私は修平の会社のために、何度も取引先との会食に出ていた。その席で、取引先の男に体を触られたことがあった。
あのとき修平は、男の胸ぐらをつかんで殴り、「二度と触るな!」と怒鳴った。やっと取りつけた仕事を失ってまで、私を守ってくれたのに。
私は静かに笑って、書類を読んでほしいと言った。
弁護士に頼んで集めた、修平が夫婦の財産をひそかに移していた証拠だった。
修平は驚いた顔で私を見たあと、冷ややかな笑みを浮かべた。
「ずっと家にいるから、頭まで鈍ったかと思ってたよ。こういうときだけは、よく頭が回るんだな」
修平は椅子の背にもたれ、余裕ありげに笑いながら、指で机をたたいた。
「でも、俺は何も悪いことをしてない。俺はずっとお前を養ってきたんだ。家と4000万円。それ以上は出さない」
私はやりきれない思いをこらえ、鼻で笑った。
「その条件じゃダメ。3日待つから、考え直して」
会社を出ると、美咲が迎えに来てくれた。
カフェに入ると、美咲に修平から電話がかかってきた。美咲がその電話に出ると、修平の優しい声が私にも聞こえた。
「美咲、美緒が離婚に応じたよ。子どもは引き取らないのに、金と家はよこせってさ。
自分に都合のいい条件ばかり並べた協議書まで持ってきたんだ。美咲とは全然違うよ。
あいつは自分が得することしか考えてない」
私は手を握りしめた。ばかばかしい。自分をよく見せるためなら、私のことは金に汚い、ずるい女に仕立て上げるのだ。
私が合図すると、美咲が尋ねた。
「それで、どうするの?離婚するんだよね?」
「もちろん。離婚したら、改めて付き合ってほしいって伝えるつもりだよ。美咲、愛してる」
美咲は、それ以上聞いていられないとでもいうように、すぐに電話を切った。
落ち着くと、美咲は私を見た。
「修平と別れたら、本当に悠斗は連れていかないの?」
連れていくことはできない。私はつらい気持ちで首を横に振った。
今の私には、悠斗の学費や習い事に、これまでと同じだけのお金をかけてあげられない。修平と暮らすなら、悠斗は今までの生活を変えずに済む。
それに、あの子は一度も、修平の前で私をかばってくれなかった。
愛している。それでも、私はもう疲れていた。
美咲は腕を組んでしばらく考え、修平へメッセージを送った。
【付き合ってもいいよ。ただし、すぐに離婚して。私、不倫相手だなんて言われたくないから】
それからわずか1分で、修平から私に連絡が来た。
【明日9時、役所で待ってる】
私が病気になったときは、あんなに慌てて財産を隠したくせに。美咲と付き合うためなら、私にいくら払ってでも離婚したいらしい。
美咲は私のスマホを見て、ふんと鼻を鳴らした。
「見てて。ふたりで、たっぷりお返ししてやろう」
翌朝9時、修平と役所で離婚届を提出した。
外へ出ると、急に涙があふれた。やっと自由になれたのだ。
修平は私を見つめ、何を思ったのか、こう言った。
「まだ俺を好きで、別れたくないのは分かってる。でも、俺はもう飽きたんだ。妊娠線も、帝王切開の傷もあって、大きな病気までした。しかも、毎日何もせずに暮らしてる。そんな女と、一生一緒にはいられない」
言い終えると、修平はスマホを見た。その途端、優しい顔になった。
そして私へ目を戻し、告げた。
「1週間後、美咲にプロポーズする」
第4話
修平は急いで去っていった。美咲とのデートへ向かったのだ。
ふたりがどう過ごしたかは、美咲が毎晩、細かく教えてくれた。
もうすぐ40歳になる修平は、初めて恋をした少年のようだった。いいものは何でも美咲に贈っていた。
高級レストランへ連れていき、最新のブランド品を買い、遊園地を丸ごと貸し切ったことさえあった。
それでも美咲は帰ってくるたび、疲れた顔で口をとがらせた。
「修平とのデートって、本当につまらない。年を取ると、みんなあんなに説教くさくなるの?よく我慢できたね」
かつては修平の何もかもがよく見えた美咲も、今や誰よりも彼を嫌っているようだった。
その間、私は自分の生活を立て直していた。定期検査を受け、体を動かし、仕事に戻るために専門分野の勉強もやり直した。
専業主婦だった頃も、ただ修平にお金をもらって暮らしていたわけではない。昔の同級生に仕事を紹介してもらい、修平には黙って働いていた。
やがて、希望していた会社から採用の連絡が来て、病院でも検査結果を受け取った。ここ数年は再発もなく、今回の検査でも異常は見つからなかった。
私はうれしくて、すぐに美咲へ知らせようと家へ帰った。
部屋の明かりはついていなかった。窓辺に座る美咲の体が、月明かりの中で少し透けていた。
美咲は私を見ると、うれしそうに笑った。
「私、もう元の時代に帰るね」
私は涙がこみ上げた。
私がそばへ行くと、美咲はいたずらっぽく笑い、話し始めた。
「今日、あのばか、人前でプロポーズしようとしたんだよ。酔っ払って、私には愛してるって言うくせに、あなたの悪口ばっかり。
『俺がいなきゃ、どうしようもない役立たずだ。もう誰にも愛されない』だって。あなたは私と顔が似てるけど、ろくな妻じゃないし、今じゃ息子のことも愛してないって言うんだよ」
私は言葉を失った。
悠斗を愛していないわけがない。病気になったときも、私はひとりで入院も手術も耐え抜いた。あの子を残して死ぬわけにはいかなかったからだ。
美咲は鼻を鳴らした。
「思いきりひっぱたいてやったよ。それで言ったの。私は18年前から来た美緒だって。そしたら、幽霊でも見たみたいな顔してた。『あんたって、結局、何度でも私に惚れるんだね』って笑ってやった」
美咲は、自分がSNSに載せた投稿を見せてくれた。
【柏木修平社長、若い女性インタンにしつこく言い寄る。結婚していた頃から彼女に心を奪われ、苦楽をともにしてきた妻を捨てた……】
その投稿は、今まさに話題になっていた。
私は泣きながら笑った。
美咲の体が、ますます透けていく。
「お金、残しておいたから。あいつにもらったものは、全部売ったの。私をがっかりさせないでね。戻ったら、私は京央市を出る。もう男のために、自分の人生を諦めたりしない」
美咲は目を輝かせた。
「じゃあね」
そう言うと、20歳の私は月明かりの中で消えていった。
私はしばらく、ぼんやりしていた。
そこへ、扉を激しくたたく音がした。修平だった。
「美咲はどこだ?」
修平は目を赤くして、私を問い詰めた。
「もう行ったよ」
修平は呆然と私を見つめていた。やがて、無意識に私の目元に触れた。
「あの子、20歳の頃のお前だって言ったんだ。
でも、あの子は物おじしないし、歌も本も、かわいいクマも好きで。香水も柑橘系の香りが好きで。手はつないでくれるけど、それ以上は許してくれなくて……」
話すほどに、修平の顔から血の気が引いていった。
修平はようやく気づいたのだ。昔の私も、美咲と同じものが好きだったと。
ただ、13年の結婚生活で、私は自分のことを後回しにするようになっていた。
「あの子の言ったことは、本当だったんだ!」
修平の目は血走り、驚きのあまり声がかすれていた。
「美緒。あの子は、お前だったんだ」