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入籍待ち5年、彼には別の妻がいた
秋の連休中、私、相原悦美(あいはら えつみ)は、夫の相原翔也(あいはら しょうや)が私に隠れて海外で別の女と結婚式を挙げていたことを知った。 動画の中で翔也の隣に立っていた花嫁は、私の親友、高崎萌花(たかさき もえか)。フラワーボーイを務めていたのは、萌花の甥だと信じて私が何年も育ててきた高崎佑人(たかさき ゆうと)だった。 その佑人が、萌花を「ママ」、翔也を「パパ」と呼んでいた。 三人の後ろで満面の笑みを浮かべ、ひときわ大きな拍手を送っていたのは、翔也の母と私の両親だった。 ただの連休旅行だという話も、佑人が萌花の甥だという話も、全部嘘だったのだとようやく気づいた。 私は二人の結婚式の動画をテレビで繰り返し流し続けた。そして三日目、翔也たちが帰ってきた。 萌花はテレビを見るなり、慌てて翔也の腕をつかみ、私に説明し始めた。 「怒らないでよ。結婚しに行ったんじゃなくて、離婚しに行ったんだから。 佑人が私たちの子なのは本当。でも、悦美が気にすると思って、黙ってたの」 翔也に至っては、もっとひどかった。 「何年も前の海外出張で、ちょっと遊んだだけだって。籍を入れたのも冗談半分だったし、もう離婚したんだからいいだろ。何をそんなに騒いでんだよ」 どうりで、あの頃の翔也はプロポーズもしてくれたし、披露宴まで開いてくれた。子どもを作るつもりだと言っていたのに、妊活も入籍も何かと理由をつけて先延ばしにしていたわけだ。 私とは籍を入れようともしなかったくせに、別の女とはとっくに正式な夫婦になっていたのだ。 壁に飾られた翔也とのウェディングフォトに目をやり、私は目を伏せた。 「別に騒いでないよ。ただ、もう翔也とはやっていけない」
Chapters (1)
第1章
秋の連休中、私、相原悦美(あいはら えつみ)は、夫の相原翔也(あいはら しょうや)が私に隠れて海外で別の女と結婚式を挙げていたことを知った。
動画の中で翔也の隣に立っていた花嫁は、私の親友、高崎萌花(たかさき もえか)。フラワーボーイを務めていたのは、萌花の甥だと信じて私が何年も育ててきた高崎佑人(たかさき ゆうと)だった。
その佑人が、萌花を「ママ」、翔也を「パパ」と呼んでいた。
三人の後ろで満面の笑みを浮かべ、ひときわ大きな拍手を送っていたのは、翔也の母と私の両親だった。
ただの連休旅行だという話も、佑人が萌花の甥だという話も、全部嘘だったのだとようやく気づいた。
私は二人の結婚式の動画をテレビで繰り返し流し続けた。そして三日目、翔也たちが帰ってきた。
萌花はテレビを見るなり、慌てて翔也の腕をつかみ、私に説明し始めた。
「怒らないでよ。結婚しに行ったんじゃなくて、離婚しに行ったんだから。
佑人が私たちの子なのは本当。でも、悦美が気にすると思って、黙ってたの」
翔也に至っては、もっとひどかった。
「何年も前の海外出張で、ちょっと遊んだだけだって。籍を入れたのも冗談半分だったし、もう離婚したんだからいいだろ。何をそんなに騒いでんだよ」
どうりで、あの頃の翔也はプロポーズもしてくれたし、披露宴まで開いてくれた。子どもを作るつもりだと言っていたのに、妊活も入籍も何かと理由をつけて先延ばしにしていたわけだ。
私とは籍を入れようともしなかったくせに、別の女とはとっくに正式な夫婦になっていたのだ。
壁に飾られた翔也とのウェディングフォトに目をやり、私は目を伏せた。
「別に騒いでないよ。ただ、もう翔也とはやっていけない」
第1話
大きな声を出したわけでもないのに、翔也の母がやってきた。
テレビをちらりと見ると、不機嫌そうにソファに腰を下ろした。
「もういいでしょ。こっちは旅行から帰ったばかりで、飛行機でくたくたなのよ。あんたの顔色までうかがってられないわ」
翔也の母は手にしていた冷蔵庫用のマグネットをまとめてこちらに放り、顎をしゃくった。
「ほら、お土産。いい加減にしなさいよ。あの二人はもう離婚したんだから、今さら騒いだって仕方ないでしょ」
さらに壁に飾られたウェディングフォトを指さし、苛立った様子で続けた。
「男にだって過去くらいあるでしょ。今はあんたの旦那なんだから、ちゃんと尽くしなさいよ。昔の女にいつまでも焼きもち焼いて、馬鹿じゃないの?」
両親も荷物を置くと、翔也の母の後ろに立った。
二人とも何も言わず、ただ責めるような目で私を見ていた。胸の奥が少しずつ冷えていった。
「お父さんもお母さんも、どうして今まで隠してたの?私、実の娘なのに……」
「だって、うちの生活を支えてくれてるのは翔也さんじゃない!」
母はすかさず言い返すと、今にも指を突きつけそうな勢いで私に詰め寄ってきた。
「あの二人は留学中ずっと一緒にいたのよ。好きになったっておかしくないでしょ?むしろ、後から割って入ったのはあなたのほうじゃない。萌花ちゃんはあなたに文句一つ言わず、結婚式では笑顔でブライズメイドまで務めてくれたのよ。それなのに、どうしてあなたが被害者みたいな顔してるのよ!」
父もお茶を一口すすり、口を開いた。
「翔也君はお前との結婚が決まったとき、ちゃんと俺たちに話してくれたぞ。前に海外で結婚して、息子もいるってな。その埋め合わせに、俺たちに家を買ってくれたんだ」
胸の奥に何かがつかえたようで、息が詰まるほど苦しかった。
家を一軒買ってもらっただけで、両親は口をつぐみ、すっかり翔也の味方になっていたのだ。
何も知らず、馬鹿みたいに目の前の人たちを信じ、感謝して、何も惜しまず尽くしてきた。両親はそんな私を、ずっと黙って見ていたというのか。
その場から一歩も動けないまま、私は必死に涙をこらえ、顔を上げて尋ねた。
「家を買ってもらっただけで、私のことなんてどうでもよくなったの?二人の関係を知ってたのに、私に佑人を育てさせてたんでしょ?そんなに萌花のほうが大事なの?」
母は怒りをこらえながら言った。
「そんな言い方しないで。もう離婚したんだから、こんなことで揉めないでちょうだい。
それに、萌花ちゃんはあなたの親友でしょ?翔也さんを譲ってくれたんだから、もういいじゃない。これ以上どうしろっていうの?」
母の言葉に、思わずぞくりと身震いした。
「こんなことって……翔也と萌花は結婚してて、子どもまでいるんだよ?それをずっと私に隠して、萌花と佑人をうちにまで連れてきてたんだよ!」
部屋の隅にいた萌花が、目を赤くして私に近づいてきた。抱きしめようとしたが、私が身を引くと、うつむいて弱々しい声で言った。
「悦美、ごめんね。私が悪かった。今すぐ佑人を連れて出ていくし、もう二度と顔を見せないから、翔也と幸せに暮らしてね。翔也は悦美のこと、ちゃんと愛してるんだから……」
萌花は涙を拭うと、佑人を抱き上げ、私に頭を下げようとした。すると、それまで黙っていた翔也が萌花の腰を抱き寄せ、かばうように前に出た。
私を見る目は、ひどく冷たかった。
「もう離婚したって言ってるだろ!これ以上萌花を責めて、何かあったらどうするんだよ!」
翔也の姿を見て安心したのか、佑人はその足にしがみつき、泣き出した。
「パパ!悦美お姉ちゃんがママをいじめるの!ひどいよ……」
第2話
佑人の幼い声がリビングに響いた。
翔也の母が心配そうに佑人を抱こうとしたが、翔也が止めた。
翔也は片腕で佑人を抱き上げ、もう片方で涙に濡れた萌花を抱き寄せると、私に心底失望したような目を向けた。
「一人で子どもを育てるのがどれだけ大変かわかるか?萌花は親もいなくて、お前を頼ってきたんだぞ。こんな些細なことで、そこまでいじめるのかよ」
胸の痛みすら、もう感じなかった。思わず、かすれた笑いが漏れた。
「私が萌花をいじめた?……よくそんなこと言えるね。翔也、私と付き合ってる間に萌花と海外で籍を入れて、子どもまで作ったのは翔也でしょ?話す機会はいくらでもあったのに、5年も私に嘘をついてたじゃない。
この5年間、仕事が忙しいって妊活も入籍も先延ばしにしてたくせに、佑人が自分の息子だってことを隠してうちに連れてきた。みんな本当のことを知ってたんでしょ?私にだけ隠して、ずっと騙してたんじゃない!」
翔也は顔をこわばらせ、私をにらんだ。
「だから何だよ。いくら騒いだって、佑人が俺の息子なのは変わらないだろ」
だが、私の目に浮かんだ涙に気づくと、翔也は一瞬目を見開き、少しだけ声を和らげた。
「もうこの話は終わりにしてくれよ。今週末には籍を入れるからさ」
そう言うと、翔也は佑人を母親に預けた。私の母もそばへ寄り、佑人に飴をあげながらあやした。
「ほら、もう泣かないでね」
父はお茶を注ぎ足し、うんざりしたように言った。
「もうやめろ。聞いてるだけで頭が痛くなる」
萌花はまだうつむいたまま、すすり泣いていた。
翔也は萌花のそばに行くと、袖口で涙を拭ってやり、優しく声をかけた。
「大丈夫。俺がついてるから」
私はまるで、その場に放り出されたぼろ雑巾のようだった。
誰も私には目もくれず、慰めの言葉ひとつかけてくれなかった。
手のひらにちくりと痛みが走った。顔を上げると、佑人と目が合った。
すると佑人はいきなりテーブルの上のコップをつかみ、私に投げつけてきた。
「パパ!悦美お姉ちゃんににらまれた!怖いよ……」
水がまぶたを伝って頬を流れ落ちた。
顔を上げると、翔也がものすごい剣幕で私をにらんでいた。
「悦美!相手は子どもだぞ!文句があるなら俺に言えよ!」
両親も翔也の母も、私が何かしでかすとでも思っているのか、そろってにらんできた。もうどうしようもなくて、思わず鼻で笑ってしまった。
「私が何をしたっていうの?どんな手を使ったっていうの?理由も聞かずに、どうして決めつけるの?水をかぶったのは私なのに!」
翔也の母は私をちらりと見て、ぼそっとつぶやいた。
「悪いのはあんたでしょ。子どもが嘘なんてつくわけないじゃない」
翔也は佑人の頭をなでるばかりで、何も言わなかった。
私は壁に手をつき、どうにか立っていた。ここ3日間、一睡もしていないうえに、心も体も疲れ切っていた。
ぼんやりした頭に、昔の翔也の姿が何度も浮かんだ。
あの頃の翔也は口下手で照れ屋で、私と少し話すだけですぐに顔を赤くしていた。
そんな彼が、卒業した日の夜にはギターを抱え、大勢の前で私に告白してくれた。
「悦美、一生大事にするよ」
あの夜はあんなに嬉しそうに笑っていたのに、今の翔也は私を憎むような目で見ていた。
胸が締めつけられるようで、思わずうつむいた。そのとき、いきなり髪を強く引っ張られた。
痛みに息をのみ、とっさに手を伸ばした瞬間、何かがどさっと倒れる音がした。続いて、佑人の泣き叫ぶ声が聞こえた。
佑人は唇を真っ青にして、泣きながら私を指さした。
「悦美お姉ちゃん、いじわる!パパを取って、ママをいじめて、僕まで突き飛ばしたんだよ!」
「佑人!」
翔也の母は慌てて佑人に駆け寄ると、すぐにこちらを振り返り、テーブルの果物皿をつかんで私に投げつけてきた。
「私の目の前で孫に手を出すなんて!この私を何だと思ってるの!」
皿が音を立てて割れたかと思うと、今度は頬を思いきり叩かれた。
焼けつくような痛みによろめき、後ずさった拍子に額を壁の角にぶつけた。
母は止めようともせず、私に言い聞かせるように口を開いた。
「悦美、今まで何を学んできたの!子どもに八つ当たりするなんて!」
父も湯呑みを置き、翔也の母に向かって言った。
「もっと厳しく叱ってやってください。最近はますます手に負えなくなって……」
私は頬を押さえながら、何とか言い返そうとした。
「私、何も……」
「俺がちゃんと見てたんだぞ!まだしらばっくれる気か!」
翔也は声を荒らげて佑人を抱き上げ、私を冷たくにらんだ。萌花も目を赤くしたまま、二人を抱きしめた。
そこへ母がまた前に出てきて、私に目配せした。
「悦美、悪いのはあなたでしょ。佑人に謝りなさい!」
私は思わず翔也を見た。
「私、佑人には触ってない!」
翔也は呆れたように笑った。
「は?5歳の子どもがわざわざ嘘をつくっていうのか?もう少しマシな言い訳しろよ!」
翔也は私の言い分も聞かず、佑人を抱いたまま萌花の手を引き、私たちの寝室へ入っていったかと思うと、私の枕を部屋の外へ放り出してきた。
「今日からここは萌花の部屋だ」
母は黙ったままで、父はため息をつきながら首を振った。
「まったく、情けない」
翔也の母も鼻で笑った。
「ほんと、どうしようもないわね」
照明がやけにまぶしかった。私は全身から力が抜けたように、その場に立ち尽くしていた。
私が佑人を突き飛ばしたかどうかなんて、誰も気にしていなかった。本当のことを確かめようとする人もいなかった。
私は床に落ちた枕を拾い、洗面所へ向かった。
鏡に映った自分の顔は、ひどい有り様だった。口の端が切れ、額には青黒いあざができていた。
そのとき、スマホに立て続けに通知が届いた。
【相原様、月澄ヒルズ3号棟の住宅について、名義が高崎萌花様に変更されました】
第3話
続いて、生活費の口座からも、お金がすべて引き出された。
残高がゼロになっているのを見て、首を絞められたように息が詰まった。
どれくらい時間が経ったのかもわからない。洗面所のドアが開き、翔也の母が私を見るなり顔をしかめた。
「いつまでそんな顔してるの?さっさと出てってよ。見てるこっちまで気分が悪くなるわ」
私はリビングに戻った。
みんな、何事もなかったようにくつろいでいた。
萌花は佑人にご飯を食べさせ、翔也は隣で牛乳を注いでいた。テレビでは子ども向けのアニメが流れていた。
母はテレビをちらちら見ながら佑人の相手をし、父は眼鏡をかけてスマホを眺めていた。
ソファに集まったあの人たちのほうが、私よりもずっと本当の家族らしく見えた。
私が近づくと、さっきまでの笑い声がぴたりと止まった。
「翔也、なんでこの家が萌花の名義になってるの?生活費の口座まで空っぽになってるし、どういうこと?」
翔也は顔も上げず、冷たく答えた。
「お前が謝らないから、俺がこうして萌花に埋め合わせしたんだよ。
それと、これから家計は母さんに任せる。余計なものに金を使うのも控えてもらうからな」
私は拳を握りしめた。
「余計なものって、何?」
翔也はようやく私を見た。
「お前が買ってる小説とかさ。あと、コピーライターの仕事も俺が断っといたから」
しかも、翔也は笑いながらそう言った。
「私の仕事なのに、なんで勝手に断るの!?」
信じられなかった。涙がにじみ、翔也がまるで別人のように思えた。
翔也は鼻で笑うと、牛乳のグラスを置いて立ち上がった。
「母さんたちももう年だし、佑人だってまだ小さいだろ。お前は家にいて、みんなの面倒を見ればいいんだよ」
翔也は当たり前のように言い、さらに続けた。
「それに萌花は胃が弱くて、外食だと調子が悪くなるんだ。これからはお前が昼飯を作って、会社まで届けてやれよ」
あまりのことに、私は何も言えなかった。
父まで、横から口を挟んだ。
「家にいればいいじゃないか。わざわざ外で働かなくても、ちょっと家事をするだけで楽に暮らせるんだぞ」
母はエプロンを壁に掛けると、私の腕を引いて少し離れたところで言った。
「翔也さんがこんなに気遣ってくれてるのに、何が不満なの?どうせ働いたって大して稼げないんだし、家でみんなの世話をしてたほうがいいでしょ」
私はそっと母の手を振りほどき、まっすぐ見つめた。
「でも、もうこの家は萌花のものなんだよ。翔也は私の家も貯金も、全部萌花に渡したの。仕事までなくなったら、ちょっとした買い物をするにも、いちいちお金をもらわなきゃいけないの?」
母は何も答えなかった。
そのまま果物の皿をテーブルに置き、みんなに声をかけた。
「ほら、果物でも食べて」
翔也はみかんの皮をむいて、萌花と佑人に渡した。
父は相変わらずスマホで株価をチェックしていて、私には目もくれなかった。
翔也の母はメロンを一切れ受け取ると、何事もなかったように話し始めた。
「そういえば、佑人の誕生日会はどこでやろうかしら?」
母はソファに腰を下ろした。
「それなら白凪でしょ!」
萌花は少し頬を赤らめ、遠慮がちに首を振った。
「あそこは高いですし、もったいないですよ」
すると翔也の母が、すかさず言った。
「何言ってるの!孫の誕生日なんだから、どうせなら一番いいところでお祝いしなきゃ!」
父も賛成した。
「そうだな。佑人の誕生日なんだし、ここは奮発しないとな」
翔也は何も言わず、笑って、限度額を気にせず使えるブラックカードを差し出した。
みんな果物を食べながら、誕生日会に誰を呼ぶか、何人くらい招くかで盛り上がっていた。
私はすぐそばにいるのに、誰も私のことなど気にしていなかった。
息をするのも苦しいほど、胸が痛んだ。
とうとう我慢できなくなり、私は果物の皿を床に叩きつけた。
「翔也、もう離婚しよう」
リビングが一瞬、静まり返った。
真っ先に反応したのは翔也の母だった。
佑人の口元をティッシュで拭き、それをゴミ箱に捨てると、鼻で笑った。
「何言ってるの。そもそも籍も入れてないのに、離婚なんてできるわけないでしょ」
萌花は佑人を抱き上げると、私をちらりと見てから翔也に言った。
「今日は悦美も気が立ってるみたいだし、あんまり責めないであげて」
翔也が何も言わないので、萌花は佑人を抱いたまま数歩離れ、振り返って言った。
「……私たちがここにいたら迷惑だよね。それなら、佑人を連れて出ていくよ。これ以上、二人の邪魔はしたくないし……」
父はうんざりした顔でスマホを置き、まるで厄介者を見るような目を向けてきた。
翔也はしばらく黙っていたが、やがて私の前に歩み寄ってきた。
「悦美、俺たちは5年も一緒にいるけど、籍は入れてないだろ。今ここを出ていったら、お前には何も残らないぞ」
私は翔也の顔も見ず、もう一度言った。
「それでも出ていく」
翔也はしばらく私を見ていたかと思うと、いきなり顎をつかみ、馬鹿にしたように笑った。
「金も仕事も住むところもないくせに。お前の親だって俺が住まわせてやってるんだぞ。俺と別れて、どこに行くつもりだよ?
もう意地を張るな。明日、家族カードを渡すから、バッグでも何でも好きに買えばいいだろ」
翔也は萌花のほうを向いた。
「さっきの話、部屋で続けよう」
両親もその後についていった。
翔也の母は私をにらみつけた。
「気を引きたいのはわかったから、もうその辺にしなさい」
そう言い捨てて部屋に入り、ドアをバタンと閉めた。
私だけがその場に取り残された。
誰も、私が本気で別れるつもりだとは思っていなかった。ただ騒いでいるだけだと決めつけていた。
第4話
午後8時半。
広告代理店から電話がかかってきた。出ようとした瞬間、翔也にスマホを取り上げられた。
「これからは家のことをやれって言っただろ」
そう言って、勝手に電源を切った。
顔を上げると、翔也と目が合った。さっきまで怒っていたのに、今はどこか嬉しそうに笑っていた。
私が黙っていると、翔也は私の腰に両腕を回し、声を和らげた。
「母さんたちもいるし、佑人だってまだ小さいだろ。それに妊婦もいるんだ。お前が家にいないと心配なんだよ」
「……どういうこと?」
翔也は私の頬にかかった髪を耳にかけると、さらに嬉しそうに笑った。
「萌花に、2人目ができたんだ」
私はしばらく翔也を見つめ、ようやく声を絞り出した。
「……萌花とは、もう終わったんじゃなかったの?」
翔也の笑顔がわずかにこわばり、気まずそうに目をそらした。
いつの間にか部屋に入ってきていた萌花が、慌てて口を開いた。
「離婚した日の夜、翔也と2人で飲みすぎちゃって……」
ドアの外にいた翔也の母まで口を挟んだ。
「若いんだから、そういうこともあるでしょ」
廊下からは、母が父に話す声が聞こえてきた。
「産後ケアの資格、取っておいてよかったわ。やっと役に立つわね」
私は何度も拳を握っては開いた。
よほど顔色が悪かったのか、萌花が近づいてきて私の手を取った。
いつもの甘い笑顔で、優しく言った。
「悦美、安心して。私、翔也を取るつもりはないから。子どもが2人もいるんだから、私がその気になれば、翔也の奥さんになるのは私に決まってるでしょ?
だから、もう騒がないでね。2人目が生まれるまではちゃんと私の世話をして。そうしたら翔也に頼んで、お小遣いも増やしてあげるから」
私が何も言い返さずにいると、翔也は満足そうに笑い、部屋を出る前に私の肩をぽんと叩いた。
「最初からそうやっておとなしくしてればよかったんだよ。あ、そうだ。あの葉酸のサプリ、もう飲まなくていいぞ」
「……え?」
すぐには意味がわからず、私は思わず翔也を見た。翔也は気まずそうに目をそらし、萌花の手を引いた。
「あれ、葉酸じゃないんだ。避妊用のピルだよ」
吐き気がこみ上げた。胃の奥がえぐられるように痛んだ。
廊下にいた両親は、私にはひと言も声をかけず、部屋から出てきた萌花に笑顔を向けた。
「萌花ちゃん、本当にしっかりしてるわね!もう2人目まで授かって、うちの悦美とは大違い!」
翔也の母も横から言った。
「やっぱり翔也は、萌花ちゃんとやり直したほうがいいわね」
翔也はちらりと私を振り返り、小さく答えた。
「まあ、それも悪くないな」
私は壁に手をつき、何とか洗面所までたどり着き、何度もえずいた。
さっきの言葉を思い返しても、もう胸は痛まなかった。
散々傷つけられて、とうとう何も感じなくなったのかもしれない。
萌花が両親を亡くして、うちで暮らすようになってから、父も母も少しずつ変わっていった。
萌花の両親とは昔から親しかったせいか、二人は萌花ばかりかわいがるようになった。実の娘の私のことなど、すっかり忘れてしまったみたいだった。
前は何かにつけて私を呼んでいたのに、いつの間にか萌花の名前ばかり呼ぶようになっていた。
私がまだ一度も着ていない新しい服まで、気づけば萌花のものになっていた。
それでも、あの頃の萌花はいつも笑って断っていた。
「私のことばかりじゃなくて、悦美のことも大事にしてあげてください。実の娘は悦美なんですから」
でも、翔也と知り合ってからは違った。
萌花は申し訳なさそうに謝りながらも、何かと理由をつけて私たちのデートについてくるようになった。
初めのうち、翔也は困った顔をしていた。
「どうして、どこにでもついてくるんだよ」
それなのに、海外赴任が決まると、自分から萌花を連れていくと言い出した。
私はずっと、萌花が私の親友だから、翔也も気にかけてくれているんだと思っていた。
でも、違った。
結局、邪魔だったのは私のほうだった。
私はスマホの電源を入れ直し、必要なものだけ持って部屋を出た。
リビングでは、母がソファで産後ケア施設を調べていた。私を見ると、一瞬顔をこわばらせた。
「悦美、赤ちゃんができたんだから、おめでたいことでしょ。また騒がないでよね……」
私は小さく返事をした。
すると、キッチンから翔也の母が顔を出した。
「あんたもマッサージの講習くらい受けておきなさい。萌花ちゃんの体をちゃんとほぐしてあげられるようにね」
私は何も答えず、スリッパを履いたまま家を出た。
そのとき、スマホが震えた。
画面を確認して電話に出た。
「はい、すぐに行きます」
……
午後10時。
翔也はゲストルームのドアを開けた。
明かりはついたままだったが、悦美はもうそこにはいなかった。
「悦美?」
呼んでも返事はなかった。洗面所にもベッドにも、悦美の姿はなかった。
部屋を出ようとした翔也は、ベッド脇に置かれたものに気づき、足を止めた。
そこには、鍵と中絶手術の予約票、それに小さなメモが1枚置かれていた。
メモには、一言だけ書かれていた。
【誰かがいなければ生きていけない人なんていない。私だってそう】