第1章
交通事故に遭ってから、私、平野紗英子(ひらの さえこ)の記憶は、事故に遭ったあの日から先へ進まなくなった。
毎朝目覚めるたびに、前日までの出来事をすべて忘れてしまう。
恋人の木南凌太(きなみ りょうた)は言った。
「これからは、俺が君の記憶になる。俺のことさえ覚えていればいい。あとは全部教えてあげるから」
そんなある日、彼の幼なじみである杉山美羽(すぎやま みゆ)が、私たちの家に住むようになった。
毎朝目覚めると、私の頬には、指の跡のような赤い腫れが残っている。
凌太は頬を撫でながら言った。
「少し肌が荒れただけだよ。薬を塗っておこう」
前腕の内側には、丸い火傷の痕がいくつも残っている。
凌太は痛ましげに火傷の痕に口づけしながら言った。
「料理中に油が跳ねたんだろう。また忘れたのか」
ある真夜中、ひどい痛みで目が覚めた。
美羽がベッドの脇に座り、指に煙草を挟んでいた。
彼女はくすくす笑いながら、その煙草の火のついた先端を私の前腕に押し当てた。
「ねえ凌太、見て。これで9つ目。明日になったらまた『これ何?』って聞いてくるんだから」
そう言って、彼女は腹を抱えて笑った。
凌太はドア枠に寄りかかり、困ったような、それでいてどこか甘やかすような声で言った。
「そんなに何か所も焼くなよ。半袖じゃ隠しきれなくなったら、言い訳がつかないだろ。
『料理中に油が跳ねた』って言い訳はもう使ったからな。次の言い訳は俺が考えておく」
美羽は甘えたような声を出した。
「だって楽しいんだもん。どうせこの子、何にも覚えてないんだし。
ほら、私の勝ちでしょ。この子、本当におめでたいよね。あなたの言うことなら何でも信じるんだから。明日、ご飯奢る約束、忘れないでね?」
凌太は甘やかすような口調で、ため息交じりに言った。
「はいはい、好きにしろよ。あんまり遅くまで遊ぶなよ」
私は目を閉じ、歯を食いしばりながら眠ったふりをした。
誰かに縋るということは、こんなにも重い代償を払うことだったのか。
私のこの症状は、ふたりにとっての単なる遊びだったのだ。
今度こそ、自分だけを信じる。
第1話
私は心の中で固く誓った。
明日目覚めたら、凌太の言葉はもう二度と信じない、と。
けれど、朝の光が目に差し込み、ベッドから身を起こした瞬間。
頭の中からは、凌太の顔と名前を除いて、昨日までの記憶がすべてきれいに消え去っていた。
視線を落とすと、前腕の内側に、9つの丸い傷痕が等間隔に並んでいる。
いつできたものか、まるで覚えがない。
ガチャリとドアが開いた。
温かいミルクの入ったマグカップを手にして、凌太が部屋へ入ってくる。笑みは変わらず穏やかだった。
ベッドの端に腰かけ、私の視線を追うように傷痕へ目をやると、そっと袖を引き下ろした。
「また見てるのか。何度言えばわかるんだ、料理中に油が跳ねただけだって。毎回忘れるんだから」
その口調には、聞き分けのない子どもに言い聞かせるような、呆れた響きが滲んでいた。
「ほら見てみろ、体じゅうあざだらけじゃないか。もう会社へ半袖で行くのはやめろ。同僚に見られたら、俺が殴ったと勘違いされるじゃないか。
自分が気をつけないからだろ。後になって俺のせいにするなよ」
私は口を開きかけたが、罪悪感に押しつぶされ、言葉を飲み込んだ。
自分でやったことなのか。また彼に迷惑をかけたのか。
「ごめんなさい……」
凌太はマグカップを差し出し、私の髪を撫でながらため息をついた。
「怒ってるんじゃない。ただ、自分の身を守ることくらい覚えてくれないと困るんだ。俺だって、24時間そばにいられるわけじゃないんだから」
そのとき、リビングから女の声が響いた。
「凌太、朝ごはんできたよー」
髪を高い位置でポニーテールに結んだ女が、お皿を手にドアの前を通り過ぎていく。軽い足取りで歩き、愛嬌のある笑みを浮かべていた。
私は凌太を見た。
「杉山美羽だよ。小さい頃から一緒に育った妹分みたいなものでね、しばらくここに泊まっているんだ」
私はうなずいた。
彼女のことは、やはり覚えていない。
朝食の席で、美羽は凌太の向かいに座り、卵焼きの載った皿を彼のほうへそっと寄せた。
「凌太ったら、もっと食べてよ。昨夜も紗英子さんの世話で、ろくに眠れなかったんでしょ」
凌太は苦笑いするだけで、何も答えなかった。
私は味噌汁をすすりながらうつむいていたが、不意に左のこめかみにずきりと痛みが走った。
手を伸ばすと、指先がコイン大の腫れに触れた。
美羽の視線がこちらに向いた。
その口元が、一瞬だけつり上がった気がした。
凌太が眉をひそめた。
「腫れたところに触るな。
昨夜、自分でベッドから落ちて、ベッド脇のサイドテーブルの角にこめかみをぶつけたんだよ」
彼は箸を置いて私を見つめた。その目には、わずかに咎めるような色が浮かんでいた。
「あのとき気をつけろと言ったのに、うるさいって耳を貸さなかっただろ。ほら、俺の言うことを聞かないからこうなる」
私は首をすくめ、それ以上は何も聞けなかった。
午後になり、凌太は仕事に出かけた。
出がけに「表は車が多くて危ないから」と言い残し、外から鍵をかけていった。
私はリビングのソファに座り、ローテーブルの上の分厚いノートを開いた。
凌太によれば、これは私の「記憶ノート」だという。彼が毎日記録してくれていて、忘れてしまった前日までの出来事を知るためのものらしい。
最新のページを開く。日付は昨日。
【今日は紗英子の機嫌がよく、美羽と一緒にケーキ作りに挑戦した。うっかり油を跳ねさせてしまい、腕に火傷を負ったらしい。夜、紗英子が寝返りを打ってベッドから落ち、こめかみを打った。絆創膏は俺が貼っておいた】
字は几帳面で、文面も優しい。一字一句に気遣いと忍耐が滲んでいる。
まるで、献身的な恋人そのものだった。
私は腕の9つの丸い傷痕を撫でた。指の腹で、黒く焦げた皮膚をそっとなぞった。
油が跳ねた傷?
どうして、こんなにきれいな円形をしているのだろう。
どうして、大きさまでまったく同じなのだろうか。
その考えを、どうしても捕まえておけなかった。
頭の中で一瞬何かが閃いたかと思うと、水面に浮かぶ泡のように、形を結ぶ前に弾けて消えてしまった。
廊下の奥で、かすかな物音がした。
美羽がゲストルームのドア枠に寄りかかり、スマホのインカメラを見ながら口紅を塗り直している。
顔をこちらに向け、私をちらりと見た。
ニヤリと笑った。
その笑みの裏に何が潜んでいるのか、うまく言葉にできなかった。
ただ、背中には理由もわからないまま、冷たい汗がにじんでいた。
第2話
私が目を覚ますと、右手首をぐるりと囲むように赤紫色の痣ができていた。
誰かに力任せに握り締められたかのように、くっきりと痕が残り、その縁には痛々しい血の筋まで浮かんでいた。
凌太がベッドの脇に座り、綿棒に軟膏をつけて、傷口に塗ってくれていた。
「起きたか?」
彼は顔を上げ、私の手首に唇を寄せてふっと息を吹きかけた。その声にはいたわるような響きがあった。
「昨夜もまた悪夢を見たんだよ。ベッドフレームの隙間に手を突っ込んでしまってね。引っ張り出そうとしたら、君がひどく抵抗して暴れるものだから、こんな痕がついてしまったんだ」
私はその痣をじっと見つめた。
くっきりと5本の指の形をしている。
けれど、何も覚えていない。
凌太の手が一瞬止まった。
顔を上げて私を見るその目には、優しさの奥に、ふと疲労の色が浮かんだ。
「紗英子、頼むからこういうのはもうやめてくれないか。こっちは心配でたまらないんだよ。
いつも尻拭いをさせられるのは俺なんだ。
君がこんな調子だと、俺も本当に疲れてしまう」
彼は綿棒をゴミ箱へ放り捨て、眉間を指で揉んだ。
「時々分からなくなるよ。俺は恋人と付き合っているのか、それとも病人の世話をしているのか」
私は慌てて首を振った。目頭が一気に熱くなった。
「ごめんなさい……わざとじゃないの。本当に何も覚えていなくて……」
昨夜何があったのか、私には分からない。
私が知っているのは、彼から教えられたことだけだ。
もし、その彼にまで疎まれ始めたら……
自分はもう、何に縋って生きればいいのだろう。
凌太は私の目が赤くなったのを見て、しばらく黙り込んだあと、小さくため息をついた。
腕を伸ばして私を抱き寄せ、手のひらで背中をそっと叩いた。
「はぁ……怒っているんじゃないよ。忘れてしまうのは君のせいじゃない。
でも、俺の言うことだけは聞いてくれないと困るんだ、紗英子。
むやみに動くな。何でも興味本位で触るな」
背中に回された彼の手に、わずかに力がこもった。
「君を守るには、ひとつ条件がある。協力してくれないとな」
私は彼の胸に顔を埋め、何度も頷いた。
彼に従うこと。
それが今の私にできる、唯一のことだった。
午後、凌太はリビングでテレビを見ていた。
私は寝室であの分厚い「記憶ノート」をめくっていた。
凌太によれば、忘れてしまった昨日を教えるために彼が書いてくれているのだという。
37ページと38ページの間で、めくる手が止まった。
1枚の付箋が挟まっている。
そこに書かれていたのは、たった一言。
【彼を信じるな】
文字は震えるように乱れていた。ノートの几帳面な字とはまるで違う。
けれどその筆跡は、紛れもなく私のものだった。
見間違えるはずがない。
心臓が突然、激しく脈打ち始めた。
いつ書いたのだろう。なぜこんなことを。自分は何を恐れていたのだろう。
リビングからテレビの音がぼんやり届いてくる。
私は顔を上げられないまま、付箋を強く握りしめた。
「さーえこさん、また何を見てるの?」
美羽が笑いながら近づいてくる。
私は反射的に手を背中へ隠した。
けれど、彼女のほうが素早かった。
手首を掴まれ、指をこじ開けられ、付箋を奪い取られてしまう。
彼女はちらりと目を通すと、声を上げて笑った。
「ねえ凌太、見てよ」
振り返り、しわくちゃの紙切れを彼に見せびらかす。
「この子、一昨日の夜中にまた寝ぼけてこんなの書いてたみたい。『彼を信じるな』だって。前の『助けて』と同じくらい不気味だよね。一度、精神科で診てもらったら?」
凌太はソファから顔を向けた。
ちらりと見ると、眉間を揉みながら、うんざりしたような声で言った。
「適当に捨てておけ。紗英子が寝ぼけて妙なことを書くのは、今に始まったことじゃないだろ」
彼は私のほうを向いた。その目は穏やかだったが、底には決して逆らうことを許さない重圧が潜んでいた。
「紗英子、自分で書いた意味の分からないものは気にしなくていい。発作のときに見た幻覚みたいなものなんだから」
少し間を置いて、彼は言った。
「俺の言うことだけを、信じればいい。分かるね?」
美羽は紙を丸め、ゴミ箱へ放った。
私はその紙くずが落ちていくのをただ見ていた。
喉の奥に何かがつかえていたが、声にはならなかった。
夜。
凌太はリビングで電話をしていた。声をひどくひそめていた。
私は布団にくるまり、目を閉じていた。
廊下から美羽の足音が聞こえる。
「ねえ。紗英子さんの妹、来月、療養施設の面会日があるって、教えてあげなくていいの?」
私の息が止まった。
妹?
誰の妹?
凌太の声が、どこか遠く、気だるげに響く。
「教えなくていい。忘れている方が都合がいいんだ。
行く前はいつも不安がって一晩中眠れないし、帰ってくれば一日中情緒不安定になる。こっちが何日も面倒を見る羽目になるんだから。
あっちは金さえ払っておけばいい。咲良には世話をする職員がついてるんだから、死にはしないさ」
平野咲良(ひらの さくら)。
私には妹がいる。
療養施設にいる。
それなのになぜ、ちっとも覚えていないのだろう。
暗闇の中で目を見開いたまま、爪が少しずつ手のひらに食い込んでいった。
覚えていたい。
心の中で強く願った。
けれど分かっていた。
明日の朝目を開けた瞬間、私はこの名前を忘れてしまう。今夜聞いたことのすべてを。
そしてまた、まっさらで空白の一日が始まるのだ。
第3話
また、知らない朝が来た。
私は浴室の鏡の前に立ち、パジャマを少しめくる。
左肩には、爪で引っ掻かれたような、曲がった赤い傷痕があった。皮膚がわずかにめくれている。
右足首には紐で締め付けられたような紫色の痕が、ぐるりと一周していた。まるで何かで固く縛られていたかのように。
鏡に映る傷だらけの体を見つめているうちに、頭の中が真っ白になった。
「昨日、公園へ散歩に連れて行ったら、君が湖のほとりに行きたがってね。水草が足に絡まったんだよ」
凌太がドア枠に寄りかかり、長袖のシャツを手にして立っていた。
「水辺には近づくなってあれほど言ったのに、聞かないんだから。
君が何かやらかすたび、俺が君の友達から責められるんだぞ。少しは俺のことも考えてくれないか」
私はうつむいたままかがみ込み、長い靴下を履いてその痕を隠した。
「……ごめんなさい」
彼はため息をつき、靴を私の足元に揃えた。
「今日は君の誕生日だ。咲良に会いに行こう」
車に乗り込んで初めて、後部座席に誰かがいることに気づいた。
美羽が窓際にもたれ、雑誌をめくっている。顔を上げようともしない。
私は凌太を見た。
彼は慣れた手つきでハンドルを操作しながら、穏やかな声で言った。
「美羽はこっちに友達がいなくてね。ひとりで家にいるのも可哀想だろう。ついでに連れ出して、気分転換させてやるんだ。中には入らないし、車の中で待たせておくだけだから」
私が口を開きかけると、凌太が横目でさっとこちらを睨んだ。
「何だ?そのくらいのことも受け入れられないのか?
俺だってこんなに忙しい中、わざわざ時間を作って連れて行ってやってるんだ。これ以上わがままを言うなよ」
私は口をつぐみ、顔を窓の外へ向けた。
バックミラーの中で、美羽が雑誌のページをめくっている。口の端がわずかにつり上がっていた。
療養施設の廊下は長く、消毒液の匂いが漂っていた。
病室のドアを開けた瞬間、彼女の姿が目に飛び込んできた。
咲良はベッドの隅に縮こまっていた。枯れ枝のように痩せ細り、胸には手のひらほどの大きさの、木彫りの小熊を抱え込んでいる。
私が近づくのを見ると、彼女はびくりと身をすくめた。
それから顔を上げ、怯えた小動物のように鼻先を上げ、空気の匂いを嗅いだ。
「……お姉ちゃん」
涙が一気にこみ上げた。
ベッドの脇へ駆け寄り、彼女を抱きしめる。
彼女は私の胸に顔を埋め、指で木彫りの小熊の腹にあるボタンを何度も押した。
「咲良、怖くないよ。お姉ちゃんがいるから」
自分の声が、木彫りの小熊から流れた。
よそよそしいのに、どこか懐かしい。そこには、今の私がもう失ってしまった確かな強さと温もりがあった。
一度、また一度。
彼女の震えが、少しずつ治まっていく。
ドアの外で、ヒールの足音がした。
美羽がドアを開けて入ってくる。部屋をぐるりと見回し、「トイレ探してたら、部屋を間違えちゃった」と言った。
けれど、出て行こうとはしない。
彼女の視線は、咲良が抱える木彫りの小熊に釘付けになっていた。その目が妙に輝いていた。
「わあ、この木彫りの熊、可愛い。喋るの?」
ベッドへ歩み寄り、腰をかがめて覗き込む。
「レトロな作りで、私の写真の雰囲気にぴったり合いそう。ねえ紗英子さん、これ2日くらい借りてもいい?撮り終わったら返すから」
咲良は見知らぬ人間が迫るのを感じ取った。
甲高い泣き声を上げ、体を丸めると、木彫りの小熊を服の中へ必死に押し込む。
私はベッドの前に立ちはだかり、両手を広げた。
「だめ。これを取り上げたら発作を起こすから」
美羽はつまらなそうに唇を尖らせ、背を向けて病室を出ていった。
15分後、看護師がノックして入ってきた。
「平野紗英子様。すみませんが、今期の投薬に関する同意書に、ナースステーションでもう一度ご署名いただけますか」
凌太が椅子から立ち上がり、私の肩を叩いた。
「署名しておいで。咲良はこっちで見ててやるから」
私はベッドの上でようやく落ち着きを取り戻した咲良をちらりと見て、それから凌太を見た。
彼は私に笑いかけた。
「すぐ戻ってくればいいさ。ちゃんと見ておくから」
廊下を一歩進むたび、まるで胃の中を虫に食い荒らされるような不安に襲われた。
ナースステーションでペンを握る指が震え、何度も書き損じては書き直す。
最後の署名を終えると、私はほとんど走るようにして病室へ戻った。
ドアを勢いよく開けると、咲良がベッドにうつ伏せになり、枕に顔を埋めていた。
小動物が息絶える間際に漏らすような、くぐもった泣き声を上げている。
両手がシーツの上を狂ったようにまさぐり、爪が布地に食い込んで、指先からは血が滲んでいた。
木彫りの小熊がない。
凌太はベッドの足元に立ち、スマホに向かって話していた。
私が駆け込んできたのを見ると通話を切り、不機嫌そうに眉をひそめる。
「君が出て2分も経たないうちに、自分であれをベッドの下に放り投げたんだ。拾ってやろうとしたら引っ掻くわ噛みつくわでね。美羽がほこりを落としてから返すと言って、持っていったよ」
彼は手の甲についた赤い引っ掻き傷を見せつけながら、咎めるような口調で言った。
「見ろよ、こんなに暴れて。君からも、あの子にもう少しおとなしくするように言ってくれないか」
私はベッドにすがりつき、全身を痙攣させている咲良を抱きしめた。
唇を強く噛んだのか、血が顎を伝って流れ落ちている。彼女の爪が、私の背中を狂ったように引っ掻く。まるで私が本当にそこにいるのか、必死に確かめているかのようだった。
私は顔を上げ、震える声で凌太を睨んだ。
「……木彫りの小熊を返して。今すぐ」
凌太の瞳に、明らかな苛立ちが浮かんだ。
「美羽がきれいにしてから返すって言ってるだろ。そんなに急がなくてもいいじゃないか。
たかがあんな薄汚れた木のおもちゃだろ。今度、あれより10倍いいものを買ってやるよ」
彼は背を向け、ドアのほうへ歩いていった。
「もう騒ぐな。咲良をちゃんとなだめておけ。俺は下で待ってる。
10分だけな」
無情にドアが閉まった。
咲良は私の腕の中で、なおも必死にもがいている。
「くま……くま……くま……っ」
私は彼女をきつく抱き締め、その頭に自分の顎を乗せたまま、どうしても全身の震えを止めることができなかった。
第4話
3日後。
この3日間に何があったのか、私にはまったく分からない。
朝、目を覚ますと、凌太がベッドの脇に座り、あの青い表紙の「記憶ノート」をめくっていた。
「一昨日は君、咲良に会いに行ったんだよ。状態も落ち着いていて、ふたりで一緒に音楽を聴いたんだ。
昨日は家でゆっくり休んでいたよ。美羽がクッキーの作り方を教えてくれたんだ」
私は黙って頷き、服を着替えて洗面所へ向かった。
洗面台の鏡に映る自分の顔を見て、一瞬固まった。
両頬の同じ位置に、赤い腫れが残っている。まるで両側から頬を力任せにつねられたかのように。
凌太が背後から保湿クリームを差し出し、顎を私の肩に乗せてきた。
「アレルギーだよ。季節の変わり目は肌が敏感になるからね。君の体質には本当に手を焼くよ。この前の会社の親睦会で撮った写真でも顔が真っ赤でさ、同僚にDVでもしてるのかって疑われたくらいだ」
彼は喉の奥で小さく笑い、クリームを私の頬へ丁寧に塗り広げた。
「まったく、とんだ濡れ衣だよな」
私は鏡の中の彼の笑みを見つめ、自分の顔に残るふたつの赤い腫れを見つめ返した。
何も、言わなかった。
昼過ぎ、凌太は出かけていった。
私はひとり、リビングのソファに座ってスマホの写真を見返していた。
私には、いつもこうして写真を見返す癖があった。
記憶はリセットされてしまうけれど、体が勝手に動いて、写真から何かを拾い集めようとするのだ。
スクロールする指が、3日前の1枚で止まった。
咲良の病室。
ベッドに咲良の姿はなく、シーツはぐしゃぐしゃに乱れ、赤黒い引っ掻き跡が何本も残っていた。
いつ撮ったのか、覚えがない。
なぜ撮ったのかすら、分からない。
けれど、胃の底から激しい吐き気がこみ上げてきた。
背中の産毛が、ぞわっと逆立った。
私は震える手で療養施設に電話をかけた。
2回のコールの後、すぐに繋がった。
看護師の声はひどく切迫していた。
「平野紗英子さんですか?どうしてもっと早くご連絡くださらなかったんですか!
咲良さんは3日前に精神的に不安定になってから、ずっと興奮状態が続いているんです。交際相手の木南様にもご連絡したのですが、紗英子様は体調が優れないからそちらへは行けない、施設で対応してくれとおっしゃって……
咲良さんは今、食事を完全に拒否して、頭を壁に打ちつけ続けています。やむを得ず全身を拘束ベルトで固定したのですが……それでも、ご自分の指を噛んでいて……」
看護師の声には、すでに涙が滲んでいた。
「ご自分の指を3本も、深く噛んでしまって……」
スマホが手から滑り落ちそうになった。
私は上着をひっつかんで、玄関へ走る。
だがいつの間にか、凌太がドアの前に立っていた。
ドア枠にもたれ、腕を組み、不機嫌そうに眉をひそめて私を見下ろしている。
「また何だ?」
「咲良に何かあったの。行かせてッ!」
私は彼を押しのけようとした。
彼が私の両肩を押さえる。力はそれほど強くなかったが、私が一歩も踏み出せない程度に、力を加減していた。
「施設にはもう金を払ってあるし、特別なケアにかかる費用も追加で払ってやっただろう。向こうには専門の職員がいるんだ。
君は行くたびに、帰ってきてから一晩中落ち着かなくなる。何度も寝返りを打って眠れず、次の日には結局何も覚えていない。無駄骨もいいところじゃないか。
紗英子、言うことを聞け。君の体の方が大事なんだ」
彼は腕を伸ばして私の腰を抱き寄せ、強引にソファへ連れ戻した。
「あの子だって死にはしないさ。2食くらい抜けば、おとなしくなるだろ。
聞き分けのいい子でいてくれよ。これ以上、俺に心配をかけないでくれよ。
君がこうやって焦って飛び出して、外で転んだり怪我でもしたりすれば、結局俺が尻拭いすることになるんだぞ」
ぎゅっと握りしめた爪が、手のひらに深く食い込んだ。胸の奥が、黒く重たい泥で塞がっていくようだった。
その夜。
窓を叩く激しい雨。
午前1時、枕元でスマホが震えた。
施設からの着信だった。
電話越しの看護師は、泣き叫んでいた。その泣き声は、激しい雨音と雑音にかき消され、途切れ途切れにしか聞こえなかった。
「紗英子さん……咲良さんが……体を固定していた拘束ベルトの留め具を、歯で噛み切ってしまって……
防犯カメラには……3階の窓から……飛び降りる姿が映っていて……
飛び降りる瞬間、手には……枕の中からむしり取った……固く丸めた綿の塊を、強く握りしめていて……
私たちが下に駆けつけたときには、もう……」
私は裸足のまま、豪雨の中へと飛び出した。
施設の前に着いたとき、救急車の赤い回転灯がまだ生々しく点滅していた。
その光が、濡れたアスファルトを繰り返し舐めるように照らしている。
私は裸足で地面に散らばるガラス片を踏みながら、その場へ駆け寄った。
1枚の白い布が、小さな、あまりにも小さな体を覆い隠している。
私は震える手でそれをめくった。
咲良の体は、落下の衝撃で見るも無残な姿になっていた。
けれど両手だけは胸の前で大切そうに組まれ、その手のひらには、枕の中から抜き取って不格好な小熊の形に丸められた綿の塊が、しっかりと握りしめられていたのだ。
最後の瞬間まで、彼女は必死に探していたのだろう。
「お姉ちゃんがいるから」と安心させてくれる、あの優しい声を。
私は豪雨が打ちつける地面に膝をつき、傷だらけの彼女をきつく抱きしめた。
その体は、すでに恐ろしいほど冷え切っていた。
大粒の雨が彼女の体を伝う血を洗い流し、私のパジャマにべったりと染み込んでいく。どちらの血なのか、もう誰にも分からなかった。
ポケットの中で、スマホが再び震えた。
凌太からの電話だった。
「紗英子、こんな夜中にどこへ行ったんだ?
外はこんなに雨が降ってるのに、傘も持たずに出歩いて。風邪でも引いたら、また俺が看病する羽目になるんだぞ。
早く帰ってこい。何か文句があるなら、明日ゆっくり聞くから」
私は自分の唇を、咲良の氷のように冷たい額にそっと押し当てた。
冷たい雨は私の背中に、そしてもう二度と痛みを感じることのない彼女の小さな体に、容赦なく打ちつけ続ける。
私はスマホに向かって、はっきりと告げた。
「咲良が死んだ」