命を選ばれなかった夜、私は家族を手放した

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私、木場恵利(きば えり)が血液凝固障害のせいで、雪の降り積もる路上に倒れたあの瞬間、父・木場博行(きば ひろゆき)と母・木場麻帆(きば まほ)は5つ星ホテルで、妹の木場絵凪(きば えな)の誕生日を盛大に祝っていた。 通りかかった人が救急車を呼んでくれ、私は病院へ運ばれた。 医師が私のスマホを使い、父に電話をかけた。 「病院の救急担当医です。娘さんが大量出血で危険な状態にあります。ご家族の方は至急病院へ来て、治療についての説明を受けてください!」 電話の向こうから返ってきたのは、ひどく不愉快そうに父が鼻で笑う声だった。 「俺たちを呼び出すために、医者まで雇って芝居でも打ったのか?持病だかなんだか知らないが、恵利はまだ17歳だぞ。そんな大病になるわけがないだろう!」 隣で母が口を挟む。 「今は手が離せないの。放っておいて」 ふたりは何度も、悪意に満ちた憶測を重ね、私を嘘つきだと決めつけてきた。まるで私が本当に、そこまで性根の腐った人間だとでもいうように。 けれどふたりは知らない。今度ばかりは、私にはもう待っている時間が残されていなかったことを。 ホテルの外で祝いの花火が夜空に上がったその瞬間、救急処置室で、心電図モニターの波形が平坦な直線になったのだ。

Chapters (1)

第1章

私、木場恵利(きば えり)が血液凝固障害のせいで、雪の降り積もる路上に倒れたあの瞬間、父・木場博行(きば ひろゆき)と母・木場麻帆(きば まほ)は5つ星ホテルで、妹の木場絵凪(きば えな)の誕生日を盛大に祝っていた。 通りかかった人が救急車を呼んでくれ、私は病院へ運ばれた。 医師が私のスマホを使い、父に電話をかけた。 「病院の救急担当医です。娘さんが大量出血で危険な状態にあります。ご家族の方は至急病院へ来て、治療についての説明を受けてください!」 電話の向こうから返ってきたのは、ひどく不愉快そうに父が鼻で笑う声だった。 「俺たちを呼び出すために、医者まで雇って芝居でも打ったのか?持病だかなんだか知らないが、恵利はまだ17歳だぞ。そんな大病になるわけがないだろう!」 隣で母が口を挟む。 「今は手が離せないの。放っておいて」 ふたりは何度も、悪意に満ちた憶測を重ね、私を嘘つきだと決めつけてきた。まるで私が本当に、そこまで性根の腐った人間だとでもいうように。 けれどふたりは知らない。今度ばかりは、私にはもう待っている時間が残されていなかったことを。 ホテルの外で祝いの花火が夜空に上がったその瞬間、救急処置室で、心電図モニターの波形が平坦な直線になったのだ。 第1話 どうやら、私はよほど運がよかったらしい。奇跡的に一命を取り留めたのだ。 「自己心拍が再開しました。ご家族に至急連絡を」 目を開けたとき、看護師はちょうど私のスマホで2回目の電話をかけているところだった。 スピーカーに切り替えると、父の声が流れ出した。 「助かったんだろう?なら、パーティーが終わるまで待ってくれ。今日は絵凪の誕生日なんだ。一生に一度の大切な日なんだ。せっかくの誕生日パーティーなのに、家族全員で席を外すわけにはいかないだろう」 「ですが、数分前に心停止を起こしています。至急、これまでの病歴について詳しく教えてください」 看護師は苛立ちを抑えながら続けた。 「血液凝固障害の種類は?長期的に服用している薬はありますか?」 電話の向こうが、一瞬黙り込んだ。 父は答えられなかった。 代わって電話に出た母の声は、ひどく面倒そうだった。 「あの子の病気、そこまで重くないのよ。小さい頃に一度検査しただけだから。恵利の言うことを真に受けないでね。昔から話を大げさにする癖があるのよ」 医師はベッドの脇で検査結果に目を通していた。 「ヘモグロビン値は5.8g/dL、腹腔内の出血も続いています。これでも重くないと言い張るんですか?」 母は一瞬黙り、それから聞き返した。 「じゃあ聞くけど、今はもう助かったんでしょう?」 「一時的に、です」 「じゃあ、そのまま様子を見ておいて。絵凪がもうすぐケーキをカットするところなの。お客様をお待たせしてるから、後で向かうわ」 一方的に電話が切られた。看護師はスマホを握ったまま、しばらく下ろせずにいた。 もう電話しないで、と私は伝えたかった。 けれど気管内チューブがまだ抜けておらず、声にすらならない。左手を少し持ち上げるのが精一杯だった。 手首には、ブレスレットがなかった。うっすらと白い圧迫痕が輪のように残っているだけだ。 医師がそれに気づいた。 「以前、医療情報を刻んだブレスレットをつけていましたか?」 私は一度まばたきをした。 それは細い金属製のブレスレットで、親指大のプレートには私の名前と病名、緊急時に必要な対応が刻まれていた。 7歳で診断を受けたとき、母が用意してくれたものだ。 「何かあったときにすぐ分かるように、外しちゃだめよ」 そう言って、母は私の手首につけてくれた。 今日の昼、絵凪が自分の手首を眺め、ドレスに合わせるアクセサリーがなくて寂しいと言い出した。 母は私の手首から、医療情報を刻んだブレスレットを外した。 それを絵凪の腕につけながら、私にはこう言った。 「ちょっと借りるだけよ。パーティーが終わったら返すから。恵利はホテルから出ないんだし、何か起きるわけないでしょう」 そのあと、注文していた成長記録のアルバムが入った箱が1つ、まだ届いていないことが分かり、母は私に印刷店まで取りに行くよう言いつけた。 外は雪で、私はめまいがすると訴え、行きたくないと言った。 母は引換券を私の手に押しつけた。 「絵凪は今日の主役なのよ。お姉ちゃんなんだから、ちょっと行ってきてちょうだいよ。あの子の大事な日のたびに、具合が悪いなんて言わないでちょうだい」 私は言われた通りに店へ行った。 医療用ブレスレットは、絵凪の腕につけられたままだった。 救急医が、私の上着のポケットから何度も折りたたまれた古い医療情報カードを見つけた。雪解け水で文字がにじみ、診断名しか読み取れなかった。 医師はそれを透明な袋に入れ、看護師に血液内科の医師への連絡を指示すると、私に目を落として尋ねた。 「ご自宅に、以前の検査結果や診断書は残っていますか?」 私は目を閉じた。 ある。 リビングの棚の一番下の引き出しに、絵凪の母子健康手帳や健診の書類と一緒に、私の昔の検査結果や診断書がしまわれている。 第2話 絵凪の資料はファイル2冊分あったのに、私のものはたった7ページしかなかった。 けれどその7ページさえ、ふたりはろくに目を通したこともなかった。 夜の11時、気管内チューブがようやく抜かれた。 喉が焼けるように痛み、唇を湿らせてもらってから、最初に出た言葉は「もう、あの人たちに電話しないで」だった。 看護師が毛布の端を整えながら言う。 「恵利さんはまだ未成年ですよ。この先の治療について、ご家族に確認しなければならないこともあるんです」 「あの人たちは来ません」 「病院のソーシャルワーカーにはもう連絡してあります。他に、成人しているご親族はいらっしゃいますか?」 私は担任の堀田先生の電話番号を伝えた。 最後の2桁を読み上げたところで、病室のドアが開いた。 父がパーティー用の黒いスーツのまま入ってきた。胸元には金色の飾り花がまだついていた。 その後ろから母と絵凪が続く。3人とも、シャンパンと生クリームの入り混じったような甘い匂いをまとっていた。 母はベッドの脇まで来るなり、開口一番、私を責め立てた。 「あのね、今夜どれだけの人に笑われたか分かってるの?お父さんなんか、電話を受けてからずっと顔色が悪かったのよ。ケーキカットの途中でパーティーはお開きになったんだからね」 父が会計の明細書を棚に叩きつけた。 「保険が利かない治療までいろいろ受けさせられて、たった1回の処置で40万円以上だぞ。どこでどう転んだら、そんなに血が出るんだ!」 私は明細書には目を向けず、ただ絵凪の手首につけられた医療用ブレスレットを見つめていた。 母は私の視線に気づくと、慌てて絵凪の手首を覆い隠すように手を重ねた。 「ただのブレスレットでしょう。目が覚めたばかりなのに、また絵凪を責めるのはやめなさい。この子、電話のことでまだ怯えてるのよ。今だって手が冷たいんだから」 私はゆっくりと手を上げ、手のひらを上に向けた。 「……返して」 母が眉をひそめた。 「まだドレスも着替えてないのよ。家に帰ってからにしなさい」 医師が戸口に立ったまま、重い声で言った。 「倒れたときに身につけていれば、救急隊ももっと早い段階で、必要な対応を検討できたはずです」 それでも母は、すぐには銀のプレートを外そうとしなかった。 彼女はまず絵凪に尋ねた。 「外すときに、ドレスの袖を傷めたりしないかしら?」 私は手を布団の中へ戻した。 「もういい。返さなくていい」 今日からあれは、母が私にくれたものでも、私が大切にしてきたものでもなくなったからだ。 …… 「恵利、ここにサインしろ。昨日の午後は自分の意思でホテルを出たこと、俺たちが無理やり行かせたわけじゃないことを認めるんだ」 翌朝、父は1枚の手書きの念書を差し出した。末尾にはすでに自分の名前が書き込まれていた。 病院のソーシャルワーカーが、怪我をする前の経緯を確認しようとしていた。 父は、私がアルバムを取りに行かされたことを話してしまうのを恐れ、夜のうちにこの念書をでっち上げていた。 そこには、私が絵凪の誕生日パーティーに不満を抱いて勝手にホテルを抜け出し、その途中で転んで怪我をしたこと、家族には何の責任もないことが書かれていた。 読み終えて、私は紙をナイトテーブルに戻した。 「引換券なら、まだ私の上着のポケットに入っています」 父が椅子を引く手が、一瞬止まった。 「あのな、それが何だっていうんだ?俺たちはただ、ちょっと取りに行ってくれって頼んだだけだろうが。お前の具合が悪いなんて、誰に分かるって言うんだ」 「めまいがするって、3回も言いました」 母は絵凪のためにリンゴの皮をむいていたが、その言葉を聞いて不機嫌そうな顔をした。 「だって、普段からちょっと具合が悪いだけでも、めまいがするって言うじゃない。そんなの、どうやって見分ければよかったの? それに、絵凪は昔から体が弱かったのよ。1か月もレッスンを続けて、一度も弱音を吐かなかったし……あなたはずっと絵凪より丈夫だったでしょう? まさか、こんな大ごとになるなんて思わなかったのよ」 また、この言葉だった。 絵凪の方が弱くて、私の方が物分かりがいい。 だから絵凪の不調は前もって気遣われ、私は地面に倒れて初めて、嘘をついていなかったと認めてもらえる。 母は皮をむいたリンゴを絵凪に差し出したが、絵凪はそれを受け取らなかった。 「お母さん、お姉ちゃんにあげてよ」 私は顔をそむけた。 母の手が一瞬止まり、それからリンゴをふたつのベッドの間の棚に置いた。 「恵利は今、食べ物を口にできないの。せっかくむいたんだから、無駄にしないで」 絵凪は昨夜、ショックを受けたという理由で、念のため経過観察を受けていた。 身体的にはどこも悪くないのに、私の隣のベッドで休んでおり、母は一晩中その傍にいた。 第3話 明け方、寒気がしてナースコールを押したとき、母は私のマイボトルに、絵凪のためのはちみつ湯を入れていた。 あのボトルは入院して点滴を受けるたびに私が使っていたもので、底に名前のシールが貼ってあった。 母はそのシールを剥がし、絵凪が一晩だけ使うからと言った。 今、ボトルの蓋は絵凪の枕元にあり、中には甘い湯がまだ半分ほど残っている。 看護師が処置用カートを押して入ってきて、私のリストバンドを確認した。 「恵利さん、出血を抑えるための点滴を4回に分けて行います。以前、重いアレルギー反応を起こしたことがあるようですが、ご家族は何のアレルギーかご存じですか?」 母が顔を上げた。 「アレルギーなんてないわよ」 「カルテには、デキストランによるアレルギーの記録があります」 「……っ、そうなの?」 母が私に目を向けた。 「あなた、いつからそんなアレルギーがあったの?」 12歳のときだった。 あのとき、点滴の後に全身に発疹が出て、呼吸が苦しくなった。母はベッドのすぐ傍にいた。 その日は泣きながら私を抱きしめ、これからは絶対に忘れないから、と言っていた。 あれから5年。母は絵凪が梨の皮を食べないことも、眠るときはオレンジ色の常夜灯をつけることも覚えているのに、私の命を奪いかねない薬のことは忘れてしまった。 私は看護師に言った。 「堀田先生を、緊急連絡先に登録してもらえますか」 父がすぐに顔を曇らせた。 「家族がそろってるのに、他人なんか登録してどうする」 「あの人が覚えているからです」 「何を覚えているって?」 「私がアレルギーを起こす薬の名前を」 堀田先生は、私が高校1年のときの宿泊研修で、学校に提出した保健調査票を一度確認したことがあった。 出発前、先生はアレルギーの原因となる薬の名前を自分の手帳に書き留め、緊急用の薬が鞄のどのポケットに入っているかまで、わざわざ尋ねてくれた。 母の目元が、次第に赤くなっていった。 「人前でそんなことまで言わなくてもいいでしょう?私だって毎日、家のことをいろいろやってるのよ。 ひとつくらい忘れることだってあるわ。それに、絵凪は昔から体が弱いから、どうしても気にかけることが多くなるの。 そのくらい、分かってくれてもいいでしょう?」 ソーシャルワーカーがドアをノックして入ってきた。手には昨夜の通話記録とホテルの引換券を持っていた。 「恵利さんとふたりだけでお話しさせてください。ご家族の方は、少し席を外していただけますか」 父が立ち上がった。 「娘は未成年です。俺たちの前で言えないことなんてあるんですか!」 「未成年だからこそ、必要な医療を受けられない状況や、不適切な養育がなかったか、確認する必要があるんです」 絵凪が突然、手首につけていた医療用ブレスレットに手をかけた。 「お姉ちゃん、これ返すね」 母は慌ててその手を押さえた。 「ちょっと待って。留め具がドレスの袖に引っかかってるから、無理に引っ張らないで」 そう言ってから、母は私に目を向けた。 「あとで看護師さんに外してもらえばいいでしょう?これまでだって、あなたの治療にはずいぶんお金をかけてきたのよ。まるで私たちが何もしてこなかったみたいに言わないで」 7歳のあの年、このブレスレットをつけてもらったばかりの頃、母は寝る前になると毎晩、ちゃんと手首についているか確かめてくれていた。 その後、絵凪が喘息の発作で初めて入院したとき、母は病院に9日間つきっきりだった。 家に帰ってから、母は一度も私の銀のプレートを確かめなかった。 その頃は、ただ疲れているだけなのだと思っていた。 今、その医療用ブレスレットは絵凪の手首についたままだった。 母は、留め具がドレスの袖に引っかかっているからと、無理に外そうとはしなかった。 しばらくして、看護師がブレスレットを切るための器具を持ってきた。 私はその手を止めた。 「切らなくて大丈夫です」 母はほっとしたように息をついた。 「やっぱり、絵凪のことで本気で揉めるつもりなんてないのよね」 私は何も答えず、ベッド脇に置かれていた緊急連絡先の用紙を手に取った。 そして、両親の名前に、静かに2本の横線を引いた。 …… 「退院したら、まず家に戻りなさい。ソーシャルワーカーには俺から説明しておく」 昼、父は窓際で電話をかけながら、私のこれからの予定をすでに決めてしまっていた。 1週間自宅で療養してから、学校に戻ること。 絵凪は今日、隣町でアートスクールのレッスンに参加する予定だったが、ショックを受けたということで、母が付き添うことになった。 そして私の通院については、タクシーでひとりで行けばいい、と父は言った。 血液内科の医師からは、退院後少なくとも3日間は、出血や体調の変化を見守る人が必要で、ひとりで過ごしてはいけないと言われたばかりだった。 第4話 私は、ひとりでは過ごせないと繰り返した。 父がスマホのマイク部分を指で塞いだ。 「お前は17歳だろう。7歳じゃないんだ。薬を飲むのも、熱を測るのも、いちいち人に見ていてもらわなきゃいけないのか」 「夜中にまた出血するかもしれないと、先生が言っていました」 「だったらスマホの電源を入れたままにしておけ。何かあったら、こっちに連絡しろ」 私は、ベッドの脇のナースコールに目をやった。 昨夜のあの電話にも、両親は確かに出た。 でも、電話に出ることと、病院へ駆けつけることは違う。 絵凪は窓際のベッドに座り、膝の上に分厚い記念アルバムを広げていた。 ホテルに届いていた、あの紛失していた箱から取り出した1冊だ。1ページ目には、絵凪が生まれてから今までの写真が並んでいる。 母がそばにしゃがみ込み、どの写真が一番いい笑顔か、指さして教えている。 あのアルバムには、もともと私のためのページが2枚あった。 パーティーの準備をしていたとき、企画担当者から、姉妹の写真を1枚載せて、姉からのメッセージを添えてはどうかと提案されたのだ。 母はメッセージを書く役目を私に任せた。私は2晩かけて16枚の写真を選び、800字の文章を書き上げた。 3日前、完成品が自宅に届いた。 私のための2ページは、なくなっていた。 母は、ページ数が限られているから主役の絵凪を目立たせたかっただけだと説明した。 そんな細かいことは気にしなくていい、と。 最後の2ページには、父と母から絵凪への長い手紙が載っていて、結びには【いつでも絵凪の帰る場所でいるからね】とあった。 ページが足りないのではなかった。 私のページなら、削っても構わなかったのだ。 絵凪が最後のページをめくり、アルバムの間から1枚の折りたたまれたカードを抜き出した。 「ねえ、これ、お姉ちゃんが書いたの?」 それは、採用されなかった私のメッセージの下書きだった。 冒頭には、どんなに遠くへ行っても、お姉ちゃんが必ず迎えに行くから、と書いてあった。 母はそれを受け取って目を通すと、微かに笑みをこぼした。 「よく書けてるじゃない。絵凪にあげたら?この先、絵凪が遠くの学校に進学することになっても、こういうのがあると心強いでしょう」 母はカードをアルバムに挟み直した。まるで、これで私の気持ちも報われるとでも思っているかのようだった。 「それ、返して」 母が聞き返した。 「何?」 「そのカード。もう、絵凪にはあげない」 絵凪がアルバムを抱きしめ、顔を曇らせた。 「お姉ちゃん、私、別に欲しいって言ったわけじゃないよ。お母さんが入れてくれたから、持ってただけだもん」 父が電話を切り、振り返って私を叱った。 「たかが紙切れ1枚でそんなに揉めるほどのことか?絵凪はここ数日、お前のせいで怖がってレッスンにも行けずにいるんだぞ。少しくらい、あの子が安心する言葉をかけてやれないのか」 「できません」 ふたりの言いなりにならなかったのは、これが初めてだった。 母の笑みが、わずかに引きつった。 「恵利、一度入院したからって、家族みんながあなたに借りでも作ったような言い方をしないで。 絵凪だって、本当なら楽しく誕生日を過ごすはずだったのよ。それなのに、ケーキを切っている途中でみんな帰っちゃって、今日のレッスンまでだめになったの。 あの子だって、こんな目に遭って、誰に文句を言えばいいのよ?」 私はベッドの縁を支えに体を起こした。点滴のチューブが引っ張られ、針を刺している部分からわずかに血がにじんだ。 母はそれを見たが、近づいてこなかった。 先にアルバムを絵凪の腕から取り上げ、慌てて自分の胸に抱え込んだ。まるで、絵凪のものを私が奪うとでもいうように。 「横になりなさい」 父が枕を指さした。 「落ち着け。話はそれからだ」 私はナースコールを押した。 看護師が入ってきて点滴の針を確認している間に、アルバムに挟まったカードを取り出してもらうよう頼んだ。 母はアルバムを手放そうとしなかった。 「これは絵凪のアルバムよ。部外者が勝手に触らないで」 「カードは私が書いたもの。日付も署名も入ってるの!」 ちょうどドアの外にいたソーシャルワーカーが入ってきて、母にアルバムをテーブルへ置くよう促した。 カードが取り出されたとき、右下にはすでに綴じるための穴が1つ開いていた。 絵凪は、他の祝福カードと一緒に綴じるつもりだったのだろう。 私はカードを受け取り、真ん中の折り目に沿ってゆっくりと破いた。 800字のメッセージが2つに分かれた。 もう一度破き、紙片をベッド脇のゴミ箱に捨てた。 母は私を見つめていた。まるで、私が一度あげたものを取り戻すこともできる人間だと、初めて知ったかのように。 「これで満足した?」 「はい」 午後2時、堀田先生が病院に駆けつけた。 これまでの健康記録一式と着替え、それから学校が提携する高校生向けの学生会館への入居申込書を持ってきてくれた。 第5話 父はその申込書を見るなり、ひったくるように取り上げた。 「家が同じ市内にあるんだぞ。わざわざ学生会館に入る必要なんてないだろ」 堀田先生は父と言い争わず、医療ソーシャルワーカーがまとめた退院後の生活支援に関する書類をテーブルに置いた。 「恵利さんには、退院後もしばらくは、安定した見守りやケアを受けられる環境が必要です。学校からは、提携している学生会館を紹介できます。私も学校側の連絡窓口になります」 堀田先生はそこで一度言葉を切り、私を見た。 「ただ、最終的にどうしたいかは、恵利さん本人の気持ちを一番に考えたいと思っています」 全員の視線が私に集まった。 母の表情が和らぎ、ベッドの脇まで来て布団の端を直してくれた。 「恵利ちゃん、お母さんも今回は本当に悪かったと思ってるの。つらい思いさせちゃったよね。 絵凪のレッスンが終わったら、ちゃんと恵利ちゃんのところに戻ってきて、そばにいるから。だから、学校にまで話を広げなくてもいいでしょう?」 母が私を「恵利ちゃん」と呼んだのは、半年ぶりだった。 次の瞬間、絵凪が胸を押さえ、息苦しいと訴えた。 母はすぐに布団の端から手を離し、絵凪の発作時用の吸入薬を取りに向かった。 私はペンを取り、学生会館の入居申込書に自分の名前を書いた。 「誰がそんなところに入っていいって言った?今すぐ申し込みを取り消せ!」 父は私のスマホとカバンをまとめて棚にしまい込み、鍵をスーツのポケットに入れた。 蘇生を受けたばかりで判断力が鈍っているはずだから、保護者の同意も得ずに学校が勝手に書類にサインさせるなんておかしい、と父は言った。 母は絵凪のベッドの脇に立ったまま、止めようとはしなかった。 医療ソーシャルワーカーは、主治医と学校の双方の判断を待ってからにしてはどうかと提案した。 父はその場で突っぱねた。 「これはうちの家庭内の問題です。この子は昔から反抗的で、気に入らないとすぐ家を出たがる。本気で家を出る覚悟なんてあるわけがない、ただの脅しですよ」 私は枕にもたれたまま、それ以上の説明はしなかった。 あの夜、心停止を起こしたとき、私は7分間、救急処置室に横たわっていた。 その7分間でさえ、私が本当に死にかけたと父に信じさせることはできなかった。まして、私が本当に家を出ていくとは、なおさら信じないだろう。 医師が入ってきて、腹腔内の出血は今のところ抑えられているが、血液凝固に関する検査値がまだ危険な水準にあり、最低でもあと5日の入院が必要だと告げた。 父は請求明細に目を通した。 「個室になっていますけど、大部屋に移せないんですか?」 「ここは一般病棟の病室ですよ」 「じゃあ、少しでも早く退院できませんか?家には付き添える者もいますから」 医療ソーシャルワーカーが母に目を向けた。 「退院後、24時間付き添って見守ってくださる方はいらっしゃいますか?」 母は一瞬、言葉に詰まった。 「午後は下の娘を病院に連れていかないといけないんです。昨夜のことがあってから、ずっと胸が苦しいって言っていて……先生からは、ストレスの影響かもしれないと言われています」 「恵利さんは、つい先日、心停止を起こしたばかりですよ」 「……分かっています」 母は絵凪の上着を手に取った。 「でも、絵凪だって今は私がそばにいてあげないといけないの。恵利は昔からしっかりしてるし、入院してる間は看護師さんもいるでしょう?」 絵凪はうつむくと、手首につけていた医療用ブレスレットの留め具を何度かいじり、ようやく外して、私のナイトテーブルの上に置いた。 「お姉ちゃん、ごめんなさい。こんなに病気が重いなんて、知らなかったの」 私はブレスレットのプレートに刻まれた文字を見つめた。 私の名前、病名、緊急時の対応方法。それから、両親の連絡先が2つ。 この10年間、私はこれを、決して期限切れにならない保証書のように思ってきた。 見知らぬ誰かが、この2つの番号にかければ、必ず家族の誰かが駆けつけてくれる――そう告げてくれるものだった。 でも昨夜、見知らぬ誰かが、確かにその番号にかけた。 誰も、来なかった。 私は医療用ブレスレットを手に取り、医療ソーシャルワーカーに尋ねた。 「小さいペンチ、ありますか?」 母の顔色が変わった。 「何するつもり?」 「ここに刻まれた連絡先を変えます」 「外すって……退院してから新しいものを作ってもらえばいいでしょう?今ここで壊すことないじゃない」 「今は作り直さなくていいんです」 看護師が小さなペンチを持ってきてくれた。 私はプレートとブレスレットをつないでいる小さなリングをペンチで挟み、2度、力を込めて広げた。 金属がきしみ、やがてリングが開いた。 私がプレートを取り外そうとすると、母が一歩前に出た。 「恵利、やめなさい。それ、お母さんが買ってあげたものなのよ!」 私は手の中のプレートを見下ろした。 「もう、お母さんからもらったものじゃないから」 銀色のプレートをリングから外し、手のひらに載せた。 私は残ったブレスレットを、絵凪の記念アルバムの上に置いた。 このブレスレットは、このまま絵凪のドレスに合わせればいい。けれど銀のプレートは、もう誰かを飾るためのものじゃない。 手元に残したのは、名前と病名が刻まれたプレートだけだった。 それから黒の油性ペンを取り、裏面に刻まれている両親の電話番号を、1つずつ塗りつぶした。 第6話 母が手を伸ばして取り返そうとしたが、私は先に銀色のプレートを医療ソーシャルワーカーへ渡した。 「しばらく保管しておいてもらえますか。18歳になったら、自分で新しいものを作ります」 父は怒りで顔をこわばらせた。 「電話番号を2つ消したくらいで、俺たちと縁を切ったつもりか」 私は父を見た。 「もう1つ、あります」 私は堀田先生に頼んで、書類袋からホテルの引換券、雪解け水でにじんだ古い医療情報カード、そして医療ソーシャルワーカーがまとめた2回分の通話記録のコピーを取り出してもらった。 1回目の通話は47秒。 2回目は1分12秒。 どちらの通話でも、父と母は私に大出血の危険があることをはっきり知らされていながら、すぐに病院へ来ないことを選んだ。 病院はすでに、必要な手続きに従って児童相談所に通告していた。 父はその数枚の紙を見つめたまま、しばらく口を開かなかった。 先に反応したのは母だった。 「私たちを訴えるつもりなの?」 「あったことを、ありのまま書いただけ」 「私たちはあなたの親なのよ。あなたを傷つけようとするわけないでしょう?」 母の声がとうとう高くなった。 「昨日は絵凪の誕生日だったのよ。会場には100人以上もお客様がいて、お父さんはその対応で手いっぱいだったし、私は絵凪のことを見ていなきゃいけなかったの。 だから、また機嫌を悪くしてるだけだと思ったのよ。それがそんなに悪いことなの?」 医療ソーシャルワーカーが静かに口を挟んだ。 「恵利さんが嘘をついているかどうかを、電話口でおふたりが勝手に判断すべきではありません。救急の医師から命に関わる危険な状態だと説明されていたにもかかわらず、病院に来なかったのですから。 これは、単なる家族間の行き違いで済ませられることではありません」 母の目の中の怒りが、少しずつ焦りに変わっていった。 母は私の方を向き、手を伸ばそうとした。 「恵利ちゃん、お母さんが謝るから。児童相談所への通告、取り下げてもらえない?家に帰ってから、ゆっくり話しましょう」 私は手を布団の中に引っ込めた。 「……帰らない」 「あなた、まだ未成年なのよ。どうするつもりなの?」 堀田先生が、当面の支援方針をまとめた書類をテーブルに広げた。 入院中は、病院の医療ソーシャルワーカーが支援に入る。 退院後については児童相談所と学校が連携し、安全に生活できる場所を検討する。 少なくとも、家庭の状況が確認されるまでは、本人の安全を確認せずに自宅へ戻すことはしない。 父は書類を手に取り、最後のページまで目を通した。 児童相談所の担当者名と、学校側の確認欄を見たところで、とうとう表情から余裕が消えた。 「……最初から、このつもりだったのか」 「全部、お父さんとお母さんが用意してくれたんです」 引換券を私に押しつけたのは、母だった。電話口で病院に行かないと言ったのは、父自身だった。 銀のブレスレットも、私の手首から外したのは母だった。 母はベッドの足元に立ち尽くし、絵凪の分厚い記念アルバムに涙を落とした。 「……こんなことで、本当にお父さんとお母さんを捨てるつもりなの?」 私は答えなかった。 看護師が車椅子を押してきて、検査に連れていくと言った。 棚の前を通り過ぎるとき、私は父のポケットの鍵を指さした。 「スマホとカバン、返してください」 父は鍵を握ったまま動かなかった。私の持ち物さえ押さえておけば、私が出て行けないと、まだ信じているようだった。 医療ソーシャルワーカーが父に向かって手を差し出した。 病室は十数秒間、静まり返った。やがて父は、鍵を医療ソーシャルワーカーの手のひらに乗せた。 棚の扉が開いた。 私はカバンと制服、薬のケースを取り出したが、母が2日前に持ってきてくれたあのダウンコートだけは、手に取らなかった。 母が初めて、私のためにサイズを選んで買ってくれた服だった。 以前は、とても気に入っていた。 今、私はその服をたたみ直し、絵凪の記念アルバムの横にそっと置いた。 車椅子が病室を出るとき、母がドアの外まで追ってきて、まだ言っていた。 「恵利ちゃん、少し頭を冷やせば、何日かしたら帰りたくなるわよ」 背後で、ドアがゆっくり閉まっていく。 扉の隙間が指1本分ほどになったとき、医療ソーシャルワーカーが母に告げる声が聞こえた。 「恵利さんは、退院後の生活先の変更と、事前に許可のない面会を控えていただくことを希望されています」 母はそのとき、ようやく気づいたようだった。 私が、本気で両親のもとを離れるつもりなのだと。