もうあなたに振り回されない

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夫の森川恭平(もりかわ きょうへい)と口をきかなくなってから二か月目、彼が囲っている若い愛人が、とうとう妻である私、森川美緒(もりかわみお)に挑発してきた。 周囲はみんな、私が以前のように激怒し、妻としての立場を主張すると思っていたようだ。 だが私は、グループチャットに次々と投稿される恭平とその女の親密な写真を眺めながら、祝福のメッセージを送った。 【お似合いね、末永くお幸せに】 途端にグループチャットは静まり返った。そのメッセージを見た恭平は我に返ったらしく、夜中に車を飛ばして私の部屋へ押しかけてきた。 「こんなことして楽しいか?」 私は、怒りをあらわにする彼を静かに見つめた。 「ここ何年かはずっと楽しくなかったわ」

Chapters (1)

第1章

夫の森川恭平(もりかわ きょうへい)と口をきかなくなってから二か月目、彼が囲っている若い愛人が、とうとう妻である私、森川美緒(もりかわみお)に挑発してきた。 周囲はみんな、私が以前のように激怒し、妻としての立場を主張すると思っていたようだ。 だが私は、グループチャットに次々と投稿される恭平とその女の親密な写真を眺めながら、祝福のメッセージを送った。 【お似合いね、末永くお幸せに】 途端にグループチャットは静まり返った。そのメッセージを見た恭平は我に返ったらしく、夜中に車を飛ばして私の部屋へ押しかけてきた。 「こんなことして楽しいか?」 私は、怒りをあらわにする彼を静かに見つめた。 「ここ何年かはずっと楽しくなかったわ」 1 ここ数年ずっと、私が恭平の言いなりになっていたせいだろう。私のこんな表情を見るのは初めてだったらしい。 一瞬、怒りを忘れたように口をつぐんだ恭平は、すぐにいつもの言い訳を始めた。 「美緒、あいつとはただの遊びだ。お前にちょっと嫉妬してほしかっただけなんだ。心配するな。俺にとって一番大切なのは、いつだって美緒だから」 優しい声でそう言い聞かせる恭平を、私は黙って見つめていた。どうせ次は、宝石か何かを持ち出して私の機嫌を取ろうとするのだろう。 案の定、恭平はハイブランドの新作の限定バッグを取り出し、私の目の前に差し出した。 バッグには小さな傷がついていた。おそらく、あの愛人が使ったお下がりなのだろう。 そもそも、彼が少しでも私に関心を持っていれば、私のクローゼットにピンク色のバッグが一つもないことくらい知っているはずだ。 私がバッグを受け取らずにいると、恭平は苛立ちを見せた。 「美緒、お前、最近ますます機嫌を取るのが難しくなったな!じゃあ、明日は俺が買い物に付き合ってやるよ。久しぶりにデートでもしよう。それならいいだろ?」 私は首を横に振った。学生時代からずっと一緒にいて、結婚した相手。そんな恭平を静かに見つめながら、私は最後の選択を突きつけた。 「恭平、もういい加減にして。他の女たちとはきっぱり縁を切ってよ。それができないなら、私たちの関係を終わりにしましょう」 言い終わるや否や、恭平は小さく笑い、私を抱き寄せた。 「はいはい、分かったよ。やっぱり嫉妬してたんだな」 彼の襟元から漂う、甘ったるい花の香りに気づいたが、私は何も言わなかった。 すると恭平は、突然私を横抱きにしてベッドへ放り投げた。その目には欲望がありありと浮かんでいたけれど、私は気づかないふりをして、先にシャワーを浴びるよう促した。 私たちが夫婦で使っているベッドにまで、ほかの女の香水の匂いが漂っていて、胸が苦しくなった。喉の奥に何かがつかえているようで、吐き出すことも飲み込むこともできなかった。 以前の恭平は、私の気持ちを何よりも大切にしてくれた。決して無理強いせず、いつだって優しかった。 けれど、ほかの女といちゃついているところを私に見つかるたび、彼は満たしきれなかった欲望を、すべて私にぶつけるようになった。 最初の頃は、ほかの女と浮気まがいのことをするのも、私たちの結婚生活に刺激を与えるためだと、笑いながら言っていた。 でももう限界だった。本当に疲れた。何もかもが、心底どうでもよくなっていた。 浴室から聞こえるシャワーの音が止むのも待たず、私は横になり、恭平が寝る側に背を向けた。 やがて戻ってきた恭平はベッドの端に腰を下ろした。スマホの画面が明るく光っている。誰とメッセージをやり取りしているのかは分からないが、彼が遠慮もなく吐き捨てた一言だけは、はっきりと耳に届いた。 「しらけるな」 気づけば涙が頬を伝っていた。 恭平が隣に横になり、ベッドがわずかに沈む。こんなにも近くにいるのに、どうして私たちの心は、こんなにも遠く離れてしまったのだろう。 2 翌朝早く、私の機嫌を取るためだけに、恭平は予定をすべてキャンセルした。 車で向かったのは街で最も有名な高層階のレストランだった。店に入ると、色とりどりの花で作られたハート形の飾りが目に飛び込んできた。 この店は以前、私が何度も予約したことがある。だがそのたびに恭平は仕事が忙しいと言って、約束をすっぽかしていた。 今回は私を喜ばせようと、わざわざ店を貸し切りにしてくれたらしい。でも今さらそんなことをされても、賞味期限の切れたお菓子を口にしたような、言いようのない切なさと苦さが胸に広がるだけだった。 店内では私たちが付き合い始めた頃によく聴いていたピアノ曲が流れていた。 その旋律を耳にした瞬間、記憶が高校時代へと引き戻された。文化祭で私がダンスを披露し、恭平がピアノで伴奏してくれた日のこと。周囲のみんなが、お似合いの二人だと囃し立てていた。 そして高校を卒業したあと、恭平はあの曲を弾きながら、私に告白してくれたのだ。 私たちは4年間付き合い、結婚して3年になる。その間に恭平の会社はどんどん大きくなり、彼の帰宅時間も次第に遅くなっていった。 いつからだろう。シャツの襟についた口紅の跡、スーツのポケットに紛れ込んだいちごのヘアピン、書類の間に挟まっていた、私のものではない長い髪。そんな些細なものにまで、私は神経を尖らせるようになっていた。 昨夜恭平は、最近私の機嫌を取るのが難しくなった、と言った。彼は忘れているのだ。昔の私は、恭平が飴を一つくれるだけで、すぐに笑顔になれる女の子だったことを。 料理が運ばれてきたときだった。若い女性店員がトレーを持ち損ね、熱いスープを私の脚にこぼしてしまった。 思わず悲鳴を上げ、勢いよく椅子から立ち上がったその瞬間、私が目にしたのは、真っ先にその店員を支える恭平の姿だった。恭平の目には隠しきれない心配の色が浮かんでいた。 今日のスカートは薄手だったため、熱いスープがあっという間に染み込み、太ももから湯気が立ち上った。 火傷した場所が、針で何度も刺されるように痛む。だがそのときの私には、脚の痛みよりも胸の痛みのほうが、何百倍も何千倍もつらかった。 私はポニーテールの店員に目を向けた。すると恭平が、慌てて私の視線を遮るように立ちはだかった。 私の火傷に気づいた彼は、心配そうな表情を浮かべ、すぐに店の責任者を呼んだ。 私は立ち去っていく店員の後ろ姿をじっと見つめていた。その姿が昨日グループチャットで見た写真の女と重なったのだ。 ああ、そういうことだったのか。あの子が恭平の愛人だったんだ。 医師が私の傷を手当てしている間、恭平は自分が痛みを感じているかのように顔をしかめていた。 私が眉をひそめると、彼は優しい声で医師に頼んだ。 「先生、もう少し優しくお願いします。妻は痛いのが本当に苦手なんです」 その声を聞いていると、思わず目に涙がにじんだ。 ところが、私が何か言うより先に、恭平は目の前にしゃがみ込んで口を開いた。 「美緒、さっきの店員のこと、ちょっと聞いてみたんだ。あの子、大学を卒業したばかりなんだって。お前も社長夫人なんだから、若い子の失敗くらい大目に見てやれよ」 私は何も答えず、太ももに広がる痛々しい赤い跡を見つめていた。 恭平は知っているはずだ。私が見た目を気にする性格で、痛みにも弱いことを。顔にニキビが一つできただけで、何日も落ち込んでしまうことだって。 それなのに今回は、太ももにこんな大きな火傷を負ってしまった。もう二度と、好きだったミニスカートを穿けなくなるかもしれない。それでも恭平は、私に大目に見ろと言うの? さっきまで彼の優しい言葉に揺れかけていた心が、再び冷え切っていった。 そんな私の気持ちなど知らず、恭平は勝手に話をまとめ始めた。 「見たところ、そこまでひどい火傷でもなさそうだし、今回はこれで許してやろう。社長夫人のお前が、若い女子大生をいじめたなんて噂が広まったら、外聞が悪いだろ?」 恭平の言葉は、どれも私を気遣っているように聞こえた。けれどその一言一言が、あの若い愛人をかばうためのものだった。 私を見つめる彼の優しさも、愛情も、きっと嘘ではないのだろう。ただもう彼の心は、私一人のものではなくなっていた。 急に何もかもが嫌になった。これまで何度も嫉妬し、必死に引き止めようとしてきた自分が、ひどく滑稽に思えた。 私は恭平の目をまっすぐに見つめ、静かに告げた。 「恭平、私、もう社長夫人じゃなくなってもいいのよ」 3 私の言葉を聞いた瞬間、恭平は呆然とした。何を言われたのか理解できない様子で私を見つめる。 「美緒、何を馬鹿なこと言ってるんだよ。脚がそんなに痛いのか?俺がふーってしてやろうか?」 恭平は片膝をつき、私の火傷したところにそっと息を吹きかけた。昔、私が自転車の練習中に転んだときも、彼はこうして笑いながら痛いところに息を吹きかけてくれた。そうすると、不思議と涙が止まり、私もつられて笑顔になったものだ。 でも、体の傷は治っても、心の傷は違う。息を吹きかけてもらったくらいで、癒えるものではない。 私は彼を制し、真剣な目で見つめた。 「恭平、本気で言ってるの」 「どうしてだよ?」 恭平は納得できない様子で立ち上がり、私を見下ろした。 「まさか、さっきの店員を少しかばったからって、それだけでそんなこと言ってるのか?」 私はうなずいた。もう彼と言い争う気力すら残っていなかった。 「そう思いたいなら、それでいいわ」 本当の理由くらい、恭平自身が一番よく分かっているはずだ。 大人同士なのだから、あえて真実を突きつける必要はない。これ以上惨めな思いをしたくなかった。 私の決意が固いと分かると、恭平の表情が険しくなった。 「美緒、本当にそれでいいんだな?こんな些細なことで、俺たちの7年間を全部捨てるつもりなのか?」 思わず指先に力が入ったが、これまでのことを思い返す。一人きりで過ごした数えきれない夜。予約したレストランで、いつまでも来ない彼を待ち続けた時間。彼のシャツから漂ってきた、ほかの女の香水の匂い。 そして恭平を失うのが怖くて、眠れないまま朝を迎えた夜のこと。そんな日々を思い出すうちに、不思議と迷いが消えていった。 私はただ、安心して眠りたかっただけなのだ。もう彼の一挙一動に振り回されたくなかった。 だから私はうなずき、すぐに知り合いの弁護士に電話をかけた。 「森川恭平との離婚協議書を作ってほしいの。できるだけ早くお願い」 電話を切ると、恭平の顔はすっかり険しくなっていた。声にも怒りがにじんでいる。 「美緒、結婚してから俺が甘やかしすぎたせいで、自分の立場が分からなくなったんじゃないか?今日は俺がここまで折れてやってるのに、まだわがままを言うつもりか!」 恭平は身をかがめ、私を腕の中に閉じ込めた。その目には、ぞっとするほど冷たい怒りが渦巻いていた。 「そもそも、俺たちの関係は俺が始めたんだ。だったら、終わらせるのも俺が決めるに決まってるだろ。お前に離婚を切り出す権利なんてあるのか?」 その言葉を聞いた瞬間、全身がこわばった。 次の瞬間、恭平は私から手を離した。まるで私に思い知らせてやろうとでもするように。そして鼻で笑い、冷たく言い放った。 「離婚したいなら、してやるよ。ただし、覚えておけ。お前を捨てたのは俺のほうだからな。 自分がまだ若くて可愛い女の子だとでも思ってるのか?お前より若くて綺麗な女なんて、いくらでもいるんだよ。俺だって、別にお前じゃなきゃ駄目ってわけじゃない!」 恭平はそのまま診察室を出ていった。勢いよく閉まったドアが大きな音を立てる。その際、彼の体が薬を塗ってくれていた医師にぶつかり、手にしていた綿棒が傷口に強く押しつけられた。 焼けつくような痛みが脚に走ったが、そのとき一番痛かったのは、やっぱり胸の奥だった。 恭平の言うとおり、私はもう、昔のように若くて可愛い女の子ではない。そして彼もまた、私の記憶の中にいる、優しく誠実だった少年ではなくなっていた。 今になってようやく分かった。恭平はいつも、私を傷つけたあとに少しだけ優しくして、昔の愛情を思い出させることで、私をつなぎ止めていたのだ。 ずっと喉の奥につかえていたもの。それは、もうとっくに色あせてしまった、彼の愛情だった。 口に含めば最初は甘い。けれど、その奥には酸っぱさと苦さが隠れている。それどころか、鋭いガラスの破片まで混ざっていて、私の心を容赦なく切り裂くのだ。 4 翌日、恭平が秘書の井口に届けさせた離婚協議書を見て、私は迷わず署名した。 井口は書類を受け取ると、何か言いたそうに口を開いた。 「奥様、本当に社長と離婚なさるおつもりですか? 実は社長、今日わざわざ条件を見直されて、会社の株式をさらに5%、それから数十軒もの不動産を奥様に譲ることにされたんです。社長は今でも、奥様のことを大切に思っていらっしゃるんですよ」 ティーカップを持つ手が、ふと止まった。恭平にとって、財産を手放してまで私の機嫌を取ろうとするのは、遠回しにやり直したいと伝える方法なのかもしれない。 けれど私は知っている。恭平は、お金をかけた相手を一番愛しているというような人ではない。 私に株式を譲り、高級ジュエリーを贈ってくれる一方で、ほかの女にも惜しみなく大金を使える人なのだ。 恭平と口をきかなくなってからのこの一か月、きっと恭平は、そもそもなぜ私たちが喧嘩になったのかさえ忘れているのだろう。原因は、恭平が会社の若いインターンを連れて、私がずっと行きたがっていた海辺のリゾートへ旅行していたことだった。 そこは私たちが新婚旅行で訪れた思い出の場所で、結婚3周年の記念日にもう一度二人で行きたいと、以前から恭平に伝えていた。 あの日、私は朝から胸を躍らせていた。恭平の好みに合わせて服を選び、念入りに身支度を整えた。そしてリビングで、彼が帰ってくるのをずっと待っていた。けれど、午前中いっぱい待っても恭平は現れず、ようやくかかってきたのは、飛行機に乗る直前の電話だった。 「美緒、ごめん。仕事が忙しくて、どうしても抜けられないんだ。結婚記念日のプレゼントは、出張から戻ったら改めて用意するから」 まだ電話がつながっているうちに、恭平のそばから若い女の声が聞こえてきた。明るく甘い、いかにも若々しい声だった。 その後、私は会社のグループチャットで、あのインターンが投稿したSNSの写真を目にした。確かに彼女は私より若く、はつらつとしていた。 無邪気なコメントとともに投稿されていたのは、美しい海辺で撮られた9枚の写真だった。 【社長からの最高のご褒美!こんなに綺麗な景色を見せてもらえるなんて、もう一生社長についていくしかない!】 写真は一見すると、何の変哲もない風景写真だった。けれどよく見ると、端に誰かの腕が少しだけ写り込んでいた。その手の薬指には、見間違えるはずがない指輪が光っていた。私と恭平の結婚指輪だった。 つまり、彼女と一緒に海辺のリゾートを訪れていたのが誰なのか、考えるまでもなかった。その瞬間、雷に打たれたような衝撃が走った。私は家で、声が枯れるほど泣き続けた。 恭平に電話をかけて、問い詰めたかった。 「恭平、あんな若い女の子を連れて、私たちが新婚旅行で訪れた場所に行って、少しも後ろめたくなかったの?あそこで私たちは、これからもずっと一緒にいようって誓い合ったのよ! その子と楽しそうに過ごしている間、3年前に結婚したばかりの私たちのことを、一度でも思い出した?家であなたを待っている私のことを、少しでも考えた?」 あのときは、胸にたまった怒りも悲しみも、何もかも叫んでぶつけてしまいたかった。 そして私は初めて、冷静でいることをやめた。知り合いに頼み込み、あのインターンを会社から辞めさせたのだ。 でも恭平はそれどころではなかった。若い愛人の機嫌を取り、プレゼントを選び、彼女を守るのに忙しかったのだろう。私からの電話にさえ、出ようとしなかった。 私は応答のないまま終わった100件にも及ぶ発信履歴を、ただ黙って見つめていた。涙もとうとう枯れ果てた。 昔の恭平はいつだって私を最優先にしてくれた。私からの電話やメッセージを決して無視したりしなかった。だがそんな彼はもう、私の記憶の中にしかいない。 井口が離婚協議書を持って立ち去るのを見届けると、私は静かに立ち上がり、部屋に戻って荷物をまとめた。 そして離婚に向けた手続きを始めたその日、私は遠くの街へ向かう航空券を予約した。 翌日、恭平は家に帰ってこなかった。代わりに、結婚指輪だけが送り返されてきた。 3日目には、恭平に新しい愛人ができたという噂が、知人たちの間で広まっていた。彼はあの女子大生に、周囲の目も気にせず猛アプローチを始めたらしい。 一方の私はすでにこの街を離れる飛行機に乗っていた。彼のいない新しい人生を、一足先に始めるために。