第1章
京和市の名家の御曹司、久世直哉(くぜ なおや)は、忘れられない昔の恋人とけんか別れした夜、高級会員制クラブで酒を運んでいた私に、気まぐれに声をかけた。
彼は私、森川紗和(もりかわ さわ)に、豪邸も宝石も、利用限度額のないブラックカードも与えてくれた。
母の治療費さえ払えなかった貧しい娘が、誰もがうらやむ久世夫人になったのだ。
彼が私と結婚したのは、目元が少しだけ昔の恋人に似ていたからだと、誰もが言った。
初めは私も、ただ恩を返せればそれでいいと思っていた。
けれど7年の間に、人付き合いも家を切り盛りすることも覚え、彼が経営の実権を握るまでの苦しい日々を支えるうち、いつしか心まで預けていた。
やがて昔の恋人が帰国した。それでも彼は私と離婚しなかった。
彼女は久世グループで彼の片腕となり、私は久世家に残って、妻として暮らし続けた。
彼女のために結婚記念日の予定を後回しにする一方で、私が理不尽な扱いを受ければ、彼は自ら駆けつけてかばってくれた。
だから信じていた。夫婦として過ごした7年は、若い頃の恋に勝るのだと。
7度目の結婚記念日の夜、ホテルが火に包まれるまでは。
直哉は軽いけがをしただけの彼女を抱き上げ、身ごもっていた私を煙の中に残していった。
目を覚ましたとき、赤ちゃんはもういなかった。
医師には、再び妊娠できる可能性は極めて低いと告げられた。
今さら目を赤くしている彼を見て、この7年がひどくばかばかしく思えた。
どん底にいた私を救ってくれた人が、今度は自分の手で私を炎の中に置き去りにした。
子どもは、もういない。恩だって、十分に返した。
私は結婚指輪を外し、離婚協議書に署名して、誰にも告げず京和市を去った。
直哉の妻は、あの火事で死んだのだ。
生き残った私は、もう彼とは関係ない。
第1話
赤ちゃんは助からなかった。
医師にそう告げられたとき、私のベッドの脇には、直哉が立っていた。
スーツにはまだ焦げたにおいが染みつき、右手の甲にはガーゼが巻かれている。
昨夜、あの手は倉橋玲奈(くらはし れな)をしっかりと抱いていた。
医師は検査結果の用紙をめくり、声を落とした。
「奥様のけがは軽くありません。今後、妊娠できる可能性は……極めて低いでしょう」
直哉の喉がかすかに動いた。
「極めて低いというのは、どのくらいなんですか?」
医師は答えなかった。
病室が静まり返る。
私は天井を見つめた。昨夜の炎が、また目の前によみがえった。
休憩室に煙が流れ込んできたとき、直哉はドアを蹴り開けて飛び込んできた。
玲奈は壁際に座り込み、足首が赤く腫れていた。
私はテーブルの縁につかまり、もう片方の手で必死にお腹を守っていた。
「直哉……」
玲奈が声を上げるなり、彼は駆け寄って彼女を抱き上げた。
ドアに近いのは、私のほうだった。
あと数歩で廊下に出られる。
直哉は私を一度だけ見た。
「紗和、先に非常口へ向かってくれ。
玲奈は足をけがしてる。外に連れていったら、すぐ迎えに戻るから」
私が妊娠していることを、彼は知っていた。
1週間前には、妊婦健診にも付き添ってくれたばかりだ。
医師は、赤ちゃんはぶどうの実くらいの大きさだと言った。
帰り道、直哉はぶどうを箱で買い、「ぶどうちゃんにも、たくさん食べさせてやらないとな」と笑った。
だから私は、「すぐ戻る」という言葉を信じた。
けれど2歩進んだところで、頭上にすさまじい音が響いた。
天井が崩れ落ち、私はその下敷きになった。
濃い煙の中、床に倒れたまま、何度も彼の名を呼んだ。
次に目を覚ましたとき、赤ちゃんはもういなかった。
直哉がベッドの端に座り、私の手を握った。
「ごめん」
一睡もしていないのか、目が真っ赤だった。
「一人で出られると思ったんだ。
玲奈を医師に任せて、すぐ引き返した。でも消防隊員に止められて、中に入れなかった」
私は小さな声で尋ねた。
「もう一度同じことが起きたら?」
私の手を握る指に、急に力がこもった。
長い沈黙のあと、彼はかすれた声で言った。
「二度と、あんなことは起こさせない」
答えにはなっていなかった。
それでも、もう分かってしまった。
直哉の携帯電話が鳴った。
彼は画面に出た名前を見て、出なかった。
2度目の着信があると、そのまま電源を切った。
「どこにも行かない。ここにいるから」
かつては、その言葉を何よりも聞きたかった。
結婚する前、母が手術を受けることになり、私は一人、会計窓口の前にしゃがみ込んで泣いていた。
直哉は私の代わりに740万円を払い、一晩中そばにいてくれた。
夜が明けると、ホットミルクを手渡してくれた。
「俺がいる。何があっても大丈夫だ」
あの頃の私にとって、彼は何があっても頼れる人だった。
けれど本当にすべてが崩れ落ちたとき。
彼が真っ先に守ったのは、私ではなかった。
突然、病室のドアが開いた。
直哉の母、久世雅子(くぜ まさこ)が険しい顔で入ってきた。
「直哉、玲奈さんがずっと泣いているの。
あの子、もともと火が怖いのよ。昔の交通事故だって、まだ心の傷になっているのに。一人にしておくなんて」
直哉は眉を寄せた。
「紗和は手術を受けたばかりだ」
「ここには看護師も医師もいるでしょう。何の心配があるの?」
雅子はちらりと私を見た。
「玲奈さんは違うわ。あなたを助けようと帰国しなければ、こんな火事に遭うこともなかったのに」
直哉はしばらく黙ったあと、立ち上がった。
そっと私の布団を掛け直す。
「少し様子を見てくる。すぐ戻るから」
私はうなずいた。
「うん」
彼はほっとした様子で、アシスタントの相原(あいはら)アキの名を口にした。
「食べたいものがあったら、アキに買ってこさせるから」
ドアが閉まってから、私はあのときの医療費の領収書を思い出した。
740万円。
黄ばんだ領収書は今も家の金庫にしまってある。そこに記された金額は、はっきりと心に刻まれていた。
弁護士の大庭(おおば)ミズキに電話をかけた。
「これまで直哉から受け取った不動産と株、それに宝石を、全部でいくらになるか調べていただけますか」
ミズキは少し戸惑ったようだった。
「奥様、資産の整理をお考えですか?」
私はもう赤ちゃんのいないお腹に触れた。
「ええ。ずいぶん長いこと借りたままでしたから。そろそろ返さないと」
第2話
退院の日、直哉が迎えに来た。
私に上着を羽織らせ、かがんで靴まで履かせてくれた。
7年前、初めて久世家に来た私は、ブランド物の靴さえ履き慣れていなかった。
彼は玄関にしゃがんでストラップを留めながら、笑って言った。
「紗和ができなくても、俺ができればいいだろ。夫なんだから」
あの頃、久世家では誰も私を認めていなかった。
使用人たちは陰で私を「酒場上がりの女」と呼び、雅子は結婚式にさえ来なかった。
そんな私の手を取って広間へ連れていき、皆の前で言ってくれたのは直哉だった。
「名家の生まれではなくても、俺が選んだ人だ」
その後、彼が久世グループの実権を握ろうと争っていた頃には、私も接待の席に付き合い、夜を徹して膨大な資料を整理した。
胃から出血して入院した彼に、三日三晩付き添ったのも私だ。
彼の地位がようやく固まってから、雅子も私を一人の人間として認めるようになった。
7年もあれば、私も久世家の一員になれる。そう思っていた。
けれど邸宅に戻ると、赤ちゃんの部屋にあったものが、すべてリビングに積み上げられていた。
雅子はソファに座り、冷たく言い放った。
「もういないのだから、片づけなさい。見ていると気が滅入るわ」
私はいちばん上にあった小さな木馬を手に取った。
直哉が自分で組み立てたものだ。
ねじが一本余ってしまい、どこにつけるのかと明け方まで悩んでいた。私が手伝おうとしても、断られた。
「いつかこの子に聞かれたら、パパが作ったんだって言うんだ」
その木馬は今、脚が一本取れたまま、無造作に段ボール箱へ押し込まれていた。
雅子の隣には玲奈が座っていた。まだ目が赤い。
私を見ると、すぐに立ち上がった。
「紗和さん、ごめんなさい。
こんなことになると分かっていたら、直哉に先に助けてもらったりしなかったのに」
直哉が彼女を支えた。
「足が治ってないんだから、座ってろ」
それからようやく、私のほうを向いた。
「子どものものなら、また買えばいい」
また。
また妊娠できる可能性は極めて低いと、医師は彼にも告げたはずなのに。
思い出すのが怖いのか。それとも、口にしなければなかったことにできると思っているのか。
雅子が一枚の声明文をテーブルに差し出した。
「直哉が妊娠中の妻を置き去りにして昔の恋人を助けたって、玲奈さんが世間から責められているの。
ここに署名して。あなたが、先に玲奈さんを助けるよう言ったことにするから」
私はそこに並ぶ数行を見つめた。
あのとき直哉は、私なら一人で歩けると思っていた。
私の言葉を待つこともなく、そう決めつけた。
「紗和に言われて助けたわけじゃない」
不意に直哉が口を開いた。
私の指が震えた。
だが、続く言葉を聞いて、その期待は消えた。
「そこは、紗和のほうが出口に近く、一人で避難できると判断した、と直してくれ」
秘書がすぐにうなずいた。
「それでしたら事実に沿っていますし、奥様に責任を負わせずに済みます」
事実。
言い方を変えれば、私と子どもを見捨てたことも、ただの判断ミスになるらしい。
玲奈はうつむき、手の甲に涙を落とした。
「もういいの。紗和さんを困らせないで。
少しくらい悪く言われても、別にどうってことないもの」
雅子はすぐに彼女を抱き寄せた。
「あなたは優しすぎるのよ。だから、いつもつらい思いをするの」
直哉が私を見て、声を和らげた。
「紗和、玲奈は帰国したばかりだし、倉橋家はうちの大事な取引先でもある。
この声明文は、ひとまず騒ぎを収めるためなんだ」
彼がこんなふうに、辛抱強く誰かを説得することはめったにない。
7年前、古参の役員たちに私と別れろと迫られたときには、会議のテーブルに辞表をたたきつけた人だ。
「久世グループが俺の妻を受け入れられないなら、俺もここにいる必要はない」
あの頃は、私のためなら何もかも捨ててくれた。
今はもう、すべてを手に入れている。
だから譲るのは、私でいいのだろう。
私はペンを受け取り、署名した。
ようやく直哉の眉間が緩んだ。
彼は身をかがめ、私を軽く抱き締めた。
「つらい思いをさせたな」
玲奈も近づいてきた。
すれ違いざま、私にだけ聞こえる声でささやいた。
「ほら。やっぱり、選ばれるのは私なの」
私は振り返らなかった。
ただ、あのブラックカードをミズキに預けた。
そして木馬を箱にしまった。
直哉が尋ねた。
「使用人にやらせればいいのに」
私は木馬についたほこりを、そっと拭き取った。
「あの子のものだから、自分で片づけておきたいの」
彼の目に、一瞬だけ後ろめたさが浮かんだ。
けれど気づかなかった。箱の中には子どもの形見だけでなく、彼が初めてくれた宝石も入っていることに。
第3話
声明文が出ると、誰もが直哉の判断の速さを褒めた。
私のことまで、さすが久世夫人、よく物事をわきまえていると持ち上げる人もいた。
雅子はうわさを収めるため、親族を集めた食事会を開いた。
わざわざ私に念を押すことも忘れなかった。
「今夜は親戚の年配の方々もいらっしゃるの。不機嫌な顔をしないでちょうだい。
玲奈さんは怖い思いをしたばかりよ。多少おかしなことを言っても、大目に見てあげなさい」
私はうなずいた。
「分かりました」
直哉は私のために、ゆったりしたロングドレスを選んだ。
「まだ体が回復していないんだから、顔を出したら先に帰っていいからな」
そう言って宝石箱から真珠のブローチを取り出し、胸元に留めてくれた。
結婚して最初の年、誕生日にもらったものだった。
あの頃、久世グループは資金繰りに行き詰まり、彼は自分の車まで売っていた。
何もいらないと、私は言った。
それでも彼は、腕時計を売ったお金でこのブローチを買ってきた。
「ほかの人が持っているものを、俺の妻だけが持っていないなんて嫌なんだ」
私は真珠に触れた。
ブローチは今も、ここにある。
けれど私をいちばんに考えてくれた人は、もうどこかへ行ってしまったようだった。
久世家の屋敷に着くと、玲奈が直哉の祖母、久世静江(くぜ しずえ)の話し相手をしていた。
その手首には、久世家に伝わる翡翠のバングルがあった。
私が嫁いできた年、静江は、久世家の長男の嫁に譲るものだと言っていた。
私は7年も結婚指輪をはめていたのに、そのバングルには触れたことさえなかった。
雅子が笑って説明した。
「玲奈さんの今日の装いによく合うから、ちょっと貸してあげたのよ」
玲奈が手を上げた。
「紗和さん、気にしてないよね?」
私は首を振った。
「気にしてない」
彼女の笑みが、いっそう柔らかくなった。
「そうだよね。今まで一度もつけたことがないもの。好みじゃないんでしょうね」
直哉は少し眉を寄せたが、口にしたのは一言だけだった。
「食事にしよう」
食事の席で、静江が市西部の事業について尋ねた。
彼がいちばん苦しかった頃、私も半年間支え続けて、ようやく手に入れた仕事だった。
ある古参の取締役を説得するため、雪の中で4時間待ち、帰宅してから高熱を出したこともある。
直哉は私を抱き締め、何度も言った。
「紗和、俺の立場が固まったら、もう誰にも頭を下げさせない」
けれど今、その事業の新しい責任者は玲奈だった。
私が彼と一緒に築いたものについて、彼女は彼の隣で、よどみなく説明していた。
親族たちは口々に褒めた。
「やはり玲奈さんは頼りになるね」
「家柄といい、見識といい、直哉にぴったりだ」
雅子が淡々と付け加えた。
「あとからいくら努力したって、身につかないものもあるのよ」
テーブルの下で、直哉が私の手を軽く握った。
家族に嫌なことを言われるたび、昔からしてくれた仕草だった。
胸がわずかに締めつけられた、そのとき、玲奈が声を上げた。
「バングルにひびが入ってる!」
翡翠に細い亀裂が走っていた。そのひびのせいか、彼女の手首には一筋の傷ができていた。
彼女は慌てた様子で私を見た。
「紗和さん、さっき私の手を引いたとき……」
一斉に視線が集まった。
雅子が勢いよく箸を置いた。
「玲奈さんに貸したのが気に入らないからって、壊していいわけがないでしょう!」
「バングルには触っていません」
「あなた以外に、誰がいるの?」
玲奈が急いで取りなした。
「雅子さん、怒らないでください。紗和さんは赤ちゃんを亡くしたばかりなんですから。気持ちが不安定でも仕方ないと思います」
かばっているように聞こえる、その一言。
けれどそれは、私が嫉妬して彼女を傷つけたと認める言葉でもあった。
私は直哉を見た。
彼は疲れたように眉をひそめた。
「紗和、まずおばあ様に謝ってくれ」
「私じゃない」
「玲奈が自分の手首を傷つけてまで、そんなことをする理由はないだろ」
ふと、昔のことを思い出した。
クラブの客に、腕時計を盗んだと決めつけられたことがあった。
皆が私の体を調べようとした。
直哉は私を背にかばい、6時間分の防犯カメラの映像を取り寄せた。
最後には、その客に土下座して謝らせた。
そしてこう言ったのだ。
「俺のそばにいる紗和を、根拠もなく泥棒扱いさせるわけにはいかない」
なのに今は、調べようとさえしない。
彼にとっては、玲奈も疑われるべきではない人なのだろう。
私はもう、疑われ慣れているから。
雅子が冷たい声で急かした。
「いつまでそうしているつもり?」
私は直哉を見つめた。
彼は目をそらさなかった。けれど私の側に立ってもくれなかった。
私はゆっくり立ち上がり、静江に頭を下げた。
「お食事の席を騒がせてしまって、申し訳ありません」
直哉の表情が和らいだ。
「紗和はちゃんと分かっている。もう、この話は終わりにしよう」
彼は玲奈に付き添い、手首の切り傷を手当てしに行った。
私が立ち上がったとき、ドレスの裾に暗い赤がにじんでいたことには、気づかなかった。
帰りの車が途中まで来たところで、下腹部に激痛が走った。
私は体を折り、冷や汗に震えた。
バックミラーで私の顔色を見た運転手が慌てて進路を変え、病院へ運んでくれた。
止血の処置をしながら、医師は厳しい声で言った。
「手術を受けたばかりで長く立っていたんですか。もっとご自分の体を大事にしてください」
私はベッドに横たわり、痛みで声も出せなかった。
直哉からは、アキを通して一言だけ伝えられた。
玲奈の傷が感染を起こしたので、今夜はこちらには来られない、と。
窓の外の明かりが、ひとつずつ消えていく。
私はミズキから届いた離婚協議書を開き、最後のページに署名した。
出ていく日は、7日後に決めた。
母の命日だった。
あの頃、直哉が払ってくれた740万円で、母は半年だけ長く生きられた。
私は彼のいちばん苦しい7年を支え、ついには、あの炎の中で子どもまで失った。
もう、十分に恩は返したはずだった。
第4話
翌朝、直哉が病室に来た。
一晩眠っていないのか、目が充血していた。座ると、まず点滴の袋を見上げた。
「昨夜、また出血したのか?」
「うん」
「どうして言わなかった?」
私は彼を見た。
昨夜、電話はかけた。
呼び出し音が2度鳴っただけで、切られてしまった。
そのあとアキに言われた。玲奈が傷を縫ってもらう間ずっと泣いていて、直哉はそばにいるから電話には出られない、と。
「邪魔になると思って」
直哉は少し黙った。
あの電話を思い出したのだろう。手を伸ばし、私を抱き寄せた。
「玲奈は割れた翡翠で手を切って、2針縫ったんだ。
小さい頃から痛いのが苦手で、ほかにそばにいる人もいない。放っておけなかった」
私は小さく返事をした。
「そう」
「バングルの件で、納得していないのは分かってる」
彼は言葉を切り、声を落とした。
「昔、意地を張ってけんかをしたのは、俺のほうだった。そのあと玲奈は海外へ行った。
この7年、俺はこうして幸せに暮らしてきた。でもあいつは、ずっと帰ってこなかった。
紗和、俺は玲奈にちゃんと向き合わなきゃいけないんだ」
彼の胸に寄りかかると、規則正しい鼓動が聞こえた。
玲奈に負い目があることを、彼はずっと忘れずにいたのだ。
だから帰国した彼女に役職を与え、世間の非難から守り、火事の中でも真っ先に抱き上げた。
私にも、彼への負い目はあった。
母が重い病気を患っていた頃、私は会計窓口の前に膝をつき、医師にもう一日だけ待ってほしいと頼んだ。
直哉は私を立たせ、カードを差し出してくれた。
その後、彼が久世家の中で冷遇されていたときには、狭い事務所で一緒にカップ麺を食べ、明け方まで資料をまとめた。
接待の席で彼が無理に飲まされそうになると、私が代わりに引き受け、胃から出血するまで飲んでも断らなかった。
いつも思っていた。彼にはたくさんもらったのに、私はまだ十分に返せていない、と。
子どもを炎に奪われて初めて、ようやく認めることができた。
この7年、私はただ与えられるだけの妻ではなかった。
もう、返し終えている。
ぼんやりしていた私の頬に、直哉が手を添えた。
「体がよくなったら、しばらく南のほうで暮らそう。
ずっと海を見たいと言っていただろ?」
すぐ近くにある彼の顔を見つめると、不意に目の奥が熱くなった。
結婚2年目にも、海へ連れていくと約束してくれた。
けれど出発直前、久世グループの資金繰りが急に行き詰まった。
その夜、彼は事務所のソファにもたれ、私の前で初めて目を赤くした。
「紗和、俺は何もかも失うかもしれない」
私は二人分の航空券をキャンセルし、貯金をすべて彼の口座に移した。
「大丈夫。また一緒に稼ごう」
会社を守り抜いたあと、彼は私を抱き締め、自分の地位が固まったら必ず旅行に連れていくと言ってくれた。
それから待つこと、5年。
ようやく彼は思い出したらしい。
もう、私は行きたくなかった。
「うん」
それでも、昔と同じようにうなずいた。
彼は微笑み、私の額に口づけた。
「もう寝ていいよ。そばにいるから」
その夜は珍しく、彼は出ていかなかった。
私はその寝息を聞きながら、朝まで目を閉じずにいた。
退院してから、火事の話はしなかった。玲奈のことを問いただすこともやめた。
直哉にもらった宝石、不動産、株は、まとめてミズキに手続きを頼んだ。
化粧台の上が半分ほど空になったのを見て、家政婦が思わず尋ねた。
「奥様、どうなさったんですか。こんなに片づけてしまって」
「好みに合わなくなったものがあるんです」
家政婦は、それ以上気にしなかった。
直哉が7年間、私を大切にしてきたことは、誰もが知っていた。
私が久世夫人の地位を手放すはずはない。彼にもらった豊かな暮らしなら、なおさら。皆、そう決めつけていた。
けれど忘れている。
7年前、久世家に来た私が持っていたのは、古いスーツケースひとつだけだった。
中にあったのは、着替え2着と母の写真、それから740万円と記された領収書。
今、出ていくときも、スーツケースひとつで足りた。
私が去る日、直哉は隣の市へ出かけた。
玲奈が引き継いだ事業で問題が起き、数人の取締役が承認を拒んでいた。彼は彼女を支えるため、自ら出向いたのだ。
午前中、彼からメッセージが来た。
【用事が済んだら帰る。
今夜は一緒に食事をしよう】
いつもと変わらない文面だった。
過去7年と同じように、私が明かりをつけ、帰りを待っていると思っているのだろう。
けれど今度は、返信しなかった。
空港に案内放送が流れたとき、私はミズキに離婚協議書を渡した。
「飛行機が離陸してから、彼に渡してください」
ミズキは財産に関する書類に目を落とした。
「家も株も宝石も、すべて手放されるんですか?」
「はい」
「これだけあれば、この先の生活には困りませんよ」
私は自分の手を見下ろした。
7年間はめていた結婚指輪の跡が、うっすらと白く残っていた。
「持っていたら、いつまでも借りがある気がするんです。
これでいいんです」
飛行機が雲の上へ抜けるにつれ、京和市の明かりが小さくなっていった。
7年前、地下の部屋から久世家へ移った夜、生まれて初めてあんなに柔らかいベッドに寝た私は、一晩中、怖くて寝返りも打てずにいた。
直哉はおかしそうに笑い、布団ごと私を抱き寄せた。
そして言った。
「ここはもう、紗和の家なんだよ」
それから私はドレスの着方も、ワインの飲み方も、私を見下す親族に笑顔で応じることも覚えた。
やがて皆、面と向かって私を「貧乏人」と呼ぶことはなくなった。
私もほとんど忘れかけていた。もともと、あの場所は私の居場所ではなかったことを。
あの火の中で直哉が私から離れ、玲奈を抱き上げたとき。
ようやく思い出した。
彼に選ばれた人だけが、久世家にいられるのだ。
たまたま一度救ってもらっただけで、私は一生選んでもらえると思い込んでいた。
あの街では、人生でいちばん苦しい日々を過ごした。同時に、夢のような家庭も手に入れた。
けれど今、夢から覚めた。
私は、あの火事では死ななかった。
ただ、直哉の妻だった私は、永遠にあの炎の中に取り残された。