時を遡った私は、もう愛さない

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のちに私・小林栞(こばやし しおり)の夫となる江崎律(えざき りつ)が恋人の二宮葵(にのみや あおい)と別れたのは、酔いつぶれて私の部屋で眠った夜のことだった。 その夜の出来事の責任を取るという名目で、律は私と結婚した。 結婚生活は波風も立たず、穏やかなものだった。 このままふたりでずっといられると思っていた。 けれど、葵が病死した後、弔問に訪れた律はそこで真実を知ってしまった。 葵は酔いつぶれて私の部屋で眠る律の姿を目撃し、絶望して引っ越していったのだ。 そのうえ、律は自分の似顔絵がびっしりと描かれた私のスケッチブックを見つけてしまった。 私が仕組んだ罠だと決めつけた律は、そのまま私と離婚した。 意識が遠のく中、氷のように冷たい律の声が耳に響いた。 「お前がそこまで卑劣な人間だったとはな。吐き気がする」 ふたたび目を開けると、私はあの出来事の2時間前に戻っていた。 上着をつかむと、葵の家へ駆けつけ、玄関のドアを叩いた。

Chapters (1)

第1章

のちに私・小林栞(こばやし しおり)の夫となる江崎律(えざき りつ)が恋人の二宮葵(にのみや あおい)と別れたのは、酔いつぶれて私の部屋で眠った夜のことだった。 その夜の出来事の責任を取るという名目で、律は私と結婚した。 結婚生活は波風も立たず、穏やかなものだった。 このままふたりでずっといられると思っていた。 けれど、葵が病死した後、弔問に訪れた律はそこで真実を知ってしまった。 葵は酔いつぶれて私の部屋で眠る律の姿を目撃し、絶望して引っ越していったのだ。 そのうえ、律は自分の似顔絵がびっしりと描かれた私のスケッチブックを見つけてしまった。 私が仕組んだ罠だと決めつけた律は、そのまま私と離婚した。 意識が遠のく中、氷のように冷たい律の声が耳に響いた。 「お前がそこまで卑劣な人間だったとはな。吐き気がする」 ふたたび目を開けると、私はあの出来事の2時間前に戻っていた。 上着をつかむと、葵の家へ駆けつけ、玄関のドアを叩いた。 第1話 ドアが開くと、葵が驚いた顔で立っていた。頬にはまだ涙の跡が残っている。 目尻は赤く腫れ、かすれた声で尋ねてきた。 「栞?どうしてここに?」 私は胸の中で渦巻く複雑な感情を抑え、できるだけ優しい声で話しかけた。 「葵さん、少しだけお話しできませんか?」 リビングのローテーブルには、乾きかけのイラストの原稿が散らばり、食べかけのマンゴームースも置かれていた。 私はその場で、単刀直入に切り出した。 「律さんの代わりに謝りに来ました。共同展の開幕式をすっぽかしたのは、全部律さんが悪いんです」 葵は唇を引き結んだまま何も答えなかった。握りしめた原稿の端にしわが寄っている。 「わざと葵さんを無視したわけじゃなくて、口下手で、素直になれないだけなんです。律さんは今、路地裏のバーでひとりお酒を飲んでます」 私は努めて声を和らげ、葵をなだめるように続けた。 「迎えに行ってあげてください。律さんの心にいるのは、ずっと葵さんだけなんです」 前の人生では、結婚した後も葵の誕生日になるたびに、律はアトリエにこもってひとりやけ酒を飲んでいた。 律は一度だって葵を忘れたことがなかった。 葵はじっと私を見つめると、不意に涙をこぼした。 「律みたいな頑固で愛想のない男のそばにいて、よくこんな気の利く子になったわね」 葵は玄関にあった上着を手に取り、私に丁寧にお礼を言うと、急いで出かけようとした。 バーの場所を教えると、葵は慌ただしく靴を履き替えて階段を駆け下りていった。その背中を見送り、私は大きく息をついた。 3人の人生を狂わせたあの出来事は、絶対に繰り返させない。 律の部屋に戻ると、私はイーゼルの奥に3年間隠していたスケッチブックを取り出した。 12歳の頃、私は東都美術大学付属高校への進学を夢見ていたものの、学費を工面できる見込みがなかった。 そんな私を支えてくれたのが、当時18歳だった律だ。 他人には冷たいのに、私にだけはいつも少し優しく接してくれた。 恋心を抱き始めた頃、私の頭の中は絵を描く彼の横顔でいっぱいだった。 誰にも言えない恋心を、私は8年間ずっと胸に秘めていた。 スケッチブックを手に取り、1ページずつビリビリに引き裂いた。破った紙はすべて、マンションのゴミ捨て場に放り込んだ。 私の密かな恋心も、紙くずと一緒にゴミと化した。 それから1時間ほど経った頃、玄関がガチャリと開いた。 泥酔して足元のおぼつかない律を支えながら、葵がよろよろと入ってきた。 律は葵をきつく抱きしめ、首筋に顔をうずめながら、ろれつの回らない声でつぶやいた。 「葵……別れないでくれ……俺が悪かった……もう約束を破ったりしないから……」 葵は呆れたように笑いながら、律の背中を優しく叩いた。「はいはい、別れるなんて言わないから」 私に気づいた葵は、ほっとしたように息をついた。 「栞、ごめんね。酔い覚ましに何か温かいものを用意してもらえる?私は律を寝室で休ませてくるから」 私はうなずき、葵が律を半ば引きずるように寝室へ連れていき、ドアを閉めるのを見届けた。 キッチンでお湯が沸くのを待っていると、寝室のドア越しに律の甘えた声と葵の明るい笑い声が聞こえてきた。 前の人生で初めて葵を見たときから、ふたりはお似合いだと分かっていた。 葵は明るくさっぱりした性格で、絵の腕も抜群だった。私のことも何かと気にかけてくれた。 第2話 本当なら、ふたりは何事もなく幸せに暮らしていけたはずだった。 私が余計な恋心を抱きさえしなければ、葵があんなに早く命を落とすこともなかっただろう。 今度こそ、ふたりが幸せになれるように、できる限りのことをしよう。 …… 葵は一晩中、律の看病をしていた。 翌朝、目を覚まして階下に降りると、キッチンで忙しそうにしている律の姿があった。 葵の大好物であるスフレパンケーキを焼き、ホイップクリームを添えている。 鼻歌交じりに盛り付けをしながら、指先についたクリームも気にしていない。 葵は律の大きめのパーカーを羽織り、キッチンの入口にもたれかかって微笑んでいた。 律はパンケーキを葵の前に差し出すと、優しく声をかけた。「温かいうちに食べて。冷めるとおいしくなくなっちゃうから」 葵は律を指で軽くつつき、からかうように笑った。 「こんなのいつ覚えたの?」 律は答えず、ただ目を細めて葵に微笑んでいた。その視線は葵の顔に釘付けになっている。 私は階段の踊り場で足を止めた。心の片隅に残っていた律への想いが、すっと冷めていった。 前の人生では、8年間も律だけを追いかけていた。 パクチーが嫌いで、アイスコーヒーが好きなことまで知っていたのに、私には一度だってこんな優しい顔を見せてくれなかった。 「栞、早くおいでよ!焼きたてのパンケーキ、すっごくいい匂いだよ!」 葵は私に気づくと、すぐに手を振って呼んでくれた。 律はこちらにちらりと目を向けたものの、まるで赤の他人を見るような冷たい眼差しだった。 挨拶のひとつもなく、表情ひとつ変えない。 それどころか、わざと私から距離を取るように、葵のそばへ身を寄せた。 私はテーブルにつくと、フォークでパンケーキをひと口分切り取り、口に運んだ。 おいしいはずなのに、喉が詰まるような苦い思いだった。 「ごちそうさま。アトリエでやることがあるので、もう行きますね」私はフォークを置いて立ち上がった。 葵は引き止めようとした。「えっ、まだ牛乳も飲んでないのに。そんなに急がなくてもいいじゃない」 「ごめんなさい、もう時間がないので」 私は玄関にかけてあったトートバッグを手に取り、足早に律の家を出た。 その日は一日中、東都美術大学の自習室にこもり、大学院の募集要項に目を通しながら、出願書類を記入していた。 前の人生では、律の専属アシスタントとしてそばにいるために、大学院への内部推薦まで自ら辞退してしまった。 その結果、業界から干され、最後は借りていた部屋で病死するという惨めな最期を迎えた。今思えば、なんて馬鹿なことをしたんだろう。 今度こそ、自分の人生を歩んでいこう。もう誰にも振り回されたりしない。 夕方、そのまま律の家へ帰ろうとしたとき、葵から電話がかかってきた。声が弾んでいて、いかにも嬉しそうだ。 「栞、早く帰ってきて!一緒にご飯食べよう!すっごくいい知らせがあるの!」 律のマンションに着くと、ドアを開けたのは律だった。私の顔を見るなり、露骨に眉をひそめた。 「何しに来たんだ?」明らかに迷惑そうな口ぶりだった。 どうやら、葵が私を呼んだことは知らないらしい。 「葵さんに呼ばれて来たんです。何かお話があるそうで……」私は視線を落とし、小さな声で答えた。 イチゴ柄のエプロンをつけた葵がキッチンから顔を出し、私を見るなり笑顔になった。 「おかえり!ソファでテレビでも見てて。あと一品でできあがるから!」 葵は律をリビングへと押し出した。「栞の話し相手になってあげて。料理は私ひとりで大丈夫だから」 律はあからさまに嫌そうな顔をしながら手についた水滴を拭き取り、私の斜め向かいにある一人掛けソファに腰を下ろした。 その距離はゆうに2メートル。まるで私に触れたら汚れでも移るといわんばかりだ。 リビングにはテレビから流れるバラエティ番組の笑い声だけが響き、なんとも気まずい空気が漂っていた。 「栞」不意に口を開いた律の声は、氷のように冷たかった。 「おとなしくしてろ。余計なことを企むな」 第3話 心臓をぎゅっと握りつぶされるような感覚に襲われた。冷たいものが血管を伝い、全身に広がっていく。 余計なこと…… 律にとって、私が8年間も抱き続けてきた恋心は、ただの浅ましい妄想でしかなかった。 前の人生でスケッチブックを見つけられた時も、律は同じような口調で私を卑怯な人間だと罵ったっけ。 「わかっています。安心してください。何もしませんから」 自分でも驚くほど、落ち着いた声が出た。 食事中、葵が左手を私の目の前に差し出した。 薬指にはめられた小さなダイヤの指輪が、照明を受けてキラキラと輝いている。 「今日ね、律にプロポーズされたの!」 「律さん、葵さん、おめでとうございます」私はなんのわだかまりもないように、にっこりと微笑んだ。 「これからも、ふたりで末永くお幸せに」 律は箸を持つ手を一瞬止め、驚いたように私をちらりと見た。 まさか私がこんな反応をするとは思っていなかったのだろう。 私はうつむいてご飯をかきこみ、律の視線に気づかないふりをした。 食べ終わると、食器を重ねてキッチンへ向かった。すると、リビングで話すふたりの声が聞こえてきた。 律は淡々と話していた。 「東都美術大学の近くにマンションを借りたんだ。今学期が終わったら、栞にはそっちに引っ越してもらうつもりだ。 俺たちももうすぐ結婚するし、若い女の子がいつまでもここに住んでるのも不便だろう」 それを聞いた葵は眉をひそめた。「でも、女の子のひとり暮らしって危なくない? それに、もう10年近くも面倒を見てきたんだから、本当の妹みたいなものでしょ?」 「あいつももう大人なんだから、自立するべきだ」律の口調には、一切譲る気が感じられなかった。 「結婚したら、俺たちふたりだけで暮らしたいしな」 食器を持つ手は少しも震えなかった。心もまったく揺らがない。 むしろ、出ていけるなら好都合だ。ふたりから離れれば離れるほど、私も穏やかに暮らしていける。 食器を洗い終えると、ふたりに声をかけることもなく部屋へ戻り、パソコンを開いた。 画面に映っているのは、東都美術大学大学院のイラスト専攻の募集要項だ。 出願資格を眺めているうちに、自然と口元がほころんだ。 時を遡ってから初めて、心の底からほっとして浮かべた笑顔だった。 …… 3日後、自習室で美術史の暗記をしていた時、突然、頭の中で何かが弾けたような感覚に襲われた 前の人生で、葵が病死した原因を思い出したのだ。全身性エリテマトーデス。 診断がついた時にはすでに手遅れで、葵はそれから半年も経たないうちに亡くなってしまったのだ。 私は勢いよく立ち上がった。その拍子に机の端にあったペン立てを倒してしまい、色とりどりのペンが床に散らばった。 周りで勉強していた学生たちが、一斉にこちらを振り向いた。謝るのもそこそこにスマホを手に取り、急いで外へ飛び出した。 走りながら葵に電話をかけ、いつものカフェで会う約束を取り付けた。 葵は原稿を抱えてやって来た。汗だくで息を切らしている私を見て、くすっと笑った。 「どうしたの?そんなに慌てて」 私はカップを握りしめて息を整えると、もっともらしい理由を口にした。 「大学院の推薦を受けるのに健康診断書が必要なんですけど、昔から採血が苦手で…… 葵さん、一緒についてきてもらえませんか? 葵さんももうすぐ結婚するんですし、ついでにブライダルチェックも兼ねて、免疫系の検査を一通り受けてみませんか?」 葵は頬を赤らめ、照れくさそうに笑った。「もう、栞ったら。ちゃっかりしてるんだから」 葵は快く承諾し、週末の朝一番に総合病院の健診センターへ行くと約束してくれた。 話していると、葵のスマホが鳴った。律からの電話で、今どこにいるのか尋ねているようだった。 「栞とお茶してるの。もうすぐ帰るから」 葵は笑顔で答え、電話を切ると私にぼやいた。 「律ったら、最近ますます甘えん坊になっちゃって。ちょっと出かけただけで何度も電話してくるんだから」 第4話 私は曖昧に笑って、まだ自習室で勉強することがあるからと、その場を切り上げた。 葵に別れを告げ、大学へと向かう。 カフェの角まで来たところで、道端に停まっている律の黒い車が目に入った。 車から降りてきた律は、氷のように冷たい表情をしていた。大股で近づいてきたかと思うと、いきなり私の手首をつかんだ。 そのまま人気のない木陰まで引っ張っていき、乱暴に手を振り払った。 私はバランスを崩し、足を滑らせてアスファルトに倒れ込んだ。肘と膝を地面に強く擦りつけ、思わず痛みに息をのむ。 見ると、肘も膝も擦りむけ、じわじわと血がにじんでいた。 律はそんな私を冷ややかに見下ろしていた。その目には、嫌悪の色がありありと浮かんでいた。 「葵に近づくなと警告したはずだ。何を企んでる?」 私は地面に手をついてゆっくり立ち上がり、服についた砂を払った。 「何も……ただ、健康診断に付き合ってほしかっただけです」声がかすかに震えた。 律は意外そうな顔をしたが、すぐに眉をひそめた。「お前、どこか悪いのか?」 「大学院の推薦を受けるのに、健康診断書が必要なんです」 私は首を横に振り、目を伏せた。 律はしばらく黙って私を見つめていた。 やがて律の視線が私の膝の傷に落ちると、次第に表情が険しくなった。 しばらく黙っていたかと思うと、近くの薬局へ行き、消毒液と絆創膏を買ってきた。そして私の前にしゃがみ込むと、傷の手当てを始めた。 決して優しい手つきではなく、むしろ少し不器用だった。 それでも、傷口に余計な刺激を与えないよう、慎重に手当てをしてくれた。 「週末は俺が送っていく」律は目を合わせようともせず、ぼそりと言った。 私は足元に視線を落としたまま、何も答えなかった。 検査結果が出た日、葵は診察室で結果の書かれた用紙を握りしめていた。 全身を震わせ、涙がとめどなくこぼれ落ちている。 医師は穏やかな声で葵を安心させようとした。 「落ち着いてください。まだ初期段階ですし、早く発見できて本当によかったです。 適切な治療を受ければ、病状を抑えられます。普段どおりの生活も送れますよ」 隣にいた律は、葵をぎゅっと抱きしめた。その手も抑えきれないほど震えている。 あと数か月発見が遅れていたらと思うと、恐ろしくてたまらなかったのだろう。 律の胸でしばらく泣いた後、葵は目を真っ赤にして私の手を握りしめた。 「栞、本当にありがとう。あなたがいてくれなかったら、どうなっていたか分からないわ」 私は葵の背中を優しくさすり、落ち着かせようと声をかけた。 ずっと胸に重くのしかかっていたものが、ようやく消え去った気がした。 泣きじゃくる葵を抱きしめながら、律はその肩越しに私を見つめていた。 その瞳には、いくつもの感情が渦を巻いていた。 けれど、律が何を考えているのか、私にはさっぱり分からなかった。 …… 2週間ほど自宅で療養した後、葵の手首にできていた赤い発疹はすっかり消えていた。 もう日光を避けるために厚着をする必要もなく、ベランダで絵の仕事ができるまでに回復していた。 ある日の午後、人物クロッキーの授業を終えたばかりの私の指先には、まだ木炭の粉が残っていた。 授業を終えて帰宅した私は、1週間分の課題を整理してトートバッグにしまった。 図書館へ美術史の勉強をしに行こうとしたところで、玄関にいた律に呼び止められた。 律からは、アトリエで使うテレピン油と木炭の粉が混ざった匂いがした。眉間には深いしわが寄っている。 律は私に鍵を差し出した。銀色の宇宙飛行士のキーホルダーが揺れている。鍵を握る指には、関節が白くなるほど力がこもっていた。 「大学の南門の近くにワンルームを借りた。家具も家電も揃ってるから、今週中に引っ越せ」 「わかりました」 私は迷わず返事をし、差し出された鍵を受け取った。その際、律の指に触れないよう、そっと気をつけた。 第5話 一瞬、律の手が宙で止まったが、気づかないふりをした。 鍵をトートバッグのポケットにしまうと、荷物をまとめるために部屋へ戻った。 律はその場に立ち尽くし、私の後ろ姿をじっと見つめていた。少しでも引っ越しを嫌がる素振りを見せると思っていたのだろう。 でも、今の私にはもう、ここに留まる理由なんてなかった。 何年も使ってきた古い画材や、色あせた上着を引っ張り出し、整理した。 不要なものはまとめて寄付するつもりだ。 その中から、ずっと大切にしまっていた限定品の色鉛筆が出てきて、思わず手が止まった。 18歳の誕生日に律がプレゼントしてくれたものだ。 もったいなくて削ることすらできず、1本ずつ保護カバーをつけたままにしていた。 少し古びた缶を数秒見つめた後、結局、元の場所に戻した。 普段使う画材と大学院受験の参考書だけを残し、あとはすべて処分することにした。 新しい生活を始めるのだから、持ち物も新しくすればいい。いつまでも昔のものにしがみついている必要なんてない。 それからの数日間は、図書館で試験勉強をするか、共用のアトリエで絵の練習をして過ごした。 同じ専攻の4年生の先輩、星野陸(ほしの りく)は、よく窓際の席を取っておいてくれたり、ホットココアを買ってきてくれたりした。 一緒に専門科目の過去問を解いたり、最近流行しているゲームのイラストについて語り合ったりしていると、時間はあっという間に過ぎていった。 毎日夜10時過ぎまで帰らなかったので、律や葵と食卓を囲むこともほとんどなかった。 部屋の荷物は日に日に減っていった。 壁にこっそり貼っていた律を描いたスケッチも、すべて剥がして細かく破り捨てた。 荷物が減った分、部屋も以前よりずっと広く感じられる。 机の上で育てていた小さな観葉植物も、マンションの管理人さんに譲った。 ある日、帰宅して靴を履き替え、部屋へ向かおうとすると、葵がホットミルクを2杯持ってキッチンから出てきた。 オフホワイトのふわふわした部屋着に、ゆるくお団子にまとめた髪。葵は私の手を引くと、ソファに座らせた。 そしてホットミルクをひと口飲むと、律と何かあったのかと小声で尋ねてきた。 最近の律はずっと機嫌が悪く、優秀な教え子にまで絵のミスを厳しく指摘して泣かせてしまったらしい。 アトリエの助手たちも、怖くて誰も話しかけられないそうだ。 私は温かいマグカップを両手で包み込んだ。じんわりとした温もりが胸の奥に広がっていく。 「葵さん、私ももう大人ですし、そろそろ自立しないと。 それに、大学院ではイラストを専攻したいんです。ひとり暮らしのほうが勉強にも集中できますから」 葵はぱっと目を輝かせた。いい考えだと言って、大学院受験の過去問も譲ってくれるという。 私は微笑みながら、同じ専攻の先輩である陸と一緒に大学院を目指していることを話した。 陸は去年、あと一歩のところで不合格になってしまったけれど、専門科目のノートもきちんと揃えていて、とても頼りになる。 大学院に合格したら、卒業後は同じゲーム会社でデザイナーとして働こうと約束もしていた。 葵は目をきらきらと輝かせ、嬉しそうに手を叩いた。 「すごくいいじゃない! 律にも教えてあげなきゃ。変な男じゃないか、私たちでちゃんと見極めてあげないとね」 ちょうどその時、玄関のドアが開き、律が帰ってきた。 私を見るなり、わずかに目を細めた。 「なんの話だ?楽しそうだな」律は歩み寄ってソファに腰を下ろすと、ごく自然に葵の肩を抱き寄せた。 「栞がね、同じ専攻の先輩と一緒に大学院を受験するんだって。 妹のように可愛がってきた子に、いい人ができるかもしれないのよ?何か言ってあげたら?」