サイズの合わない結婚指輪なんて、もういらない

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結婚指輪を選びに行ったとき、店員がダイヤの指輪を差し出すと、成瀬亮(なるせ りょう)は何の迷いもなく白石美咲(しらいし みさき)に渡す。 美咲の細く華奢な指には、その指輪が驚くほどよく似合っていた。 亮はしばらく見とれていたが、やがて店員に向き直った。 「12号で作ってください」 私・神崎唯(かんざき ゆい)は自分の手を差し出す。「私の指は14号だよ。12号じゃ入らない」 すると、亮は面倒くさそうに眉をひそめた。「手の大きさなんて大して変わらない。それに、美咲がつけて似合ってるんだから、それでいいだろ?」 隣にいた亮の友人が、笑いながら口を挟んだ。 「そこは大目に見てあげてくださいよ。亮が昔、美咲さんに夢中だったのは学校中が知ってましたから。亮の長年の夢を叶えさせてやると思って、ね?」 すると、亮は否定もせず、ただ一言だけ言った。「変に勘ぐるなよ」 私はふっと笑う。 これは亮が昔の夢を叶えるための時間だというのなら、もう好きにさせてあげようではないか。

Chapters (1)

第1章

結婚指輪を選びに行ったとき、店員がダイヤの指輪を差し出すと、成瀬亮(なるせ りょう)は何の迷いもなく白石美咲(しらいし みさき)に渡す。 美咲の細く華奢な指には、その指輪が驚くほどよく似合っていた。 亮はしばらく見とれていたが、やがて店員に向き直った。 「12号で作ってください」 私・神崎唯(かんざき ゆい)は自分の手を差し出す。「私の指は14号だよ。12号じゃ入らない」 すると、亮は面倒くさそうに眉をひそめた。「手の大きさなんて大して変わらない。それに、美咲がつけて似合ってるんだから、それでいいだろ?」 隣にいた亮の友人が、笑いながら口を挟んだ。 「そこは大目に見てあげてくださいよ。亮が昔、美咲さんに夢中だったのは学校中が知ってましたから。亮の長年の夢を叶えさせてやると思って、ね?」 すると、亮は否定もせず、ただ一言だけ言った。「変に勘ぐるなよ」 私はふっと笑う。 これは亮が昔の夢を叶えるための時間だというのなら、もう好きにさせてあげようではないか。 第1話 「もう暗いし、美咲を一人でタクシーに乗せるのも危ないから、俺が送っていくよ」 亮は私の顔も見ずにそう告げると、美咲の手を引いて車の助手席に乗せた。 美咲は振り返り、私に向かって愛らしく微笑む。 「神崎さん、ごめんなさい。帰りはご自分でタクシーを呼んでいただけますか?」 私は小さく頷いた。 「大丈夫です。気をつけて帰ってくださいね」 車のドアが閉まり、エンジンがかかると、赤いテールランプはあっという間に夜の闇へ消えていった。 11月の夜風は、刃物のように頬を刺してくる。 私はコートの前をかき合わせ、道端で15分ほど待って、ようやくタクシーを拾った。 寒さに震える私を見て、運転手が不思議そうに尋ねてきた。 「お客さん、こんな寒い日に彼氏さんは送ってくれなかったんですか?」 「別の人を送っていきました」 私が淡々と答えると、運転手は一瞬言葉に詰まり、それ以上は何も聞いてこなかった。 マンションに帰り着くと、玄関で靴を脱ぎ、そのまま腰を下ろしてスマホを取り出した。そして、結婚式場に電話をかける。 「お電話ありがとうございます。雲上ブライダルホールでございます」 「1週間後に結婚式を予約している神崎唯と申しますが、挙式と披露宴をすべてキャンセルしたくお電話いたしました」 電話の向こうで、数秒ほど沈黙が流れた。 「神崎様、挙式まであと1週間ですので、契約上、頭金のご返却ができかねます……」 「承知しています。返金は結構ですので、すべてキャンセルしてください」 「かしこまりました。差し支えなければ、キャンセルの理由をお伺いしてもよろしいでしょうか?」 私は少し笑って答えた。「結婚したくなくなったんです」 夜の11時半、玄関の鍵が開く音がした。 帰ってきた亮からは、甘ったるい香水の匂いが漂っていた。 彼がいつも使っている香水ではなく、美咲がつけていたものと同じ匂いだった。 パソコンに向かっている私を見て、亮は一瞬足を止めた。 「まだ起きてたのか?」 「作品集を整理してたの」 亮はまだ私が機嫌を損ねていると思ったらしく、脱いだコートを無造作にソファへ放り投げた。 「いつまでも拗ねるなよ。来週には結婚式なんだから、指輪のことくらい気にするなって」 それだけ言うと彼は寝室へ向かい、着替えもしないままベッドに倒れ込む。 私はパソコンを閉じてシャワーを浴び、その夜はリビングのソファで眠った。 翌朝7時、亮はまだ起きてこなかった。 私は音を立てないように書斎へ入り、この5年間の振込履歴と、二人で負担してきた生活費の明細をすべて調べた。 一件ずつ細かく計算することはせず、確認できる記録をまとめて出力し、パスワードをかけたフォルダに保存する。 それから求人サイトを開き、深津市にある大手デザイン事務所3社の募集要項を見つけて、用意していた作品集と履歴書を送った。 約30分後、そのうちの1社である「築・境デザイン事務所」から返信が届き、明後日にオンライン面接を受けることになった。 私はメール画面を閉じ、ノートパソコンを畳む。 書斎を出ると、ちょうど寝室から亮が出てきた。 「今日はずいぶん早いんだな」 「急ぎの図面があるの」 亮は軽くうなずき、キッチンで水を一杯飲んだところで、何かを思い出したように振り返った。 「ああ、そうだ。美咲が帰国したばかりで住むところがないって言うから、あの古いマンションをしばらく貸すことにしたんだ。あとで片づけておいてくれ」 あまりにも当然のように言う亮を見ても、私はもう何も感じなかった。 「分かったわ」 また私が折れたと思ったのだろう。亮は満足そうに笑いながら近づき、私の髪をくしゃりとなでる。 「そうそう。素直にしてればいいんだよ」 私は避けることも、言い返すこともしなかった。 亮が出かけるのを待ってから、私はスマホを手に取り、引っ越し業者に電話をかけた。 「もしもし、別の市への引っ越しをお願いしたいんですが、今週末は空いていますか?」 「大丈夫ですよ。お荷物の量はどのくらいでしょうか?」 私は3年間暮らした部屋を見渡し、隅々までゆっくりと視線を巡らせる。 「それほど多くありません。一人分の荷物だけなので」 電話を切ったあと、ベランダに出ると、亮の車がマンションの敷地からゆっくり走り去っていくのが見えた。 外は気持ちよく晴れていたけれど、私の心はとっくに冷えきっていた。 亮、昔の夢を叶えたいんでしょ? だったら、好きにすればいい。 第2話 「今夜は美咲の帰国祝いがあるから、お前も一緒に来いよ」 寝室の入り口でカフスボタンを留めながら、亮は有無を言わせぬ口調で告げた。 私はデザイン画の修正をしていたので、顔も上げずに答える。 「今夜は仕上げなきゃいけない図面があるから行けない」 「お前が来なかったら、俺が周りにどう思われると思う?」 亮が近づいてきて、いきなり私のノートパソコンを閉じた。 「周りに聞かれたら、俺は何て説明すればいいんだ?」 「仕事で残業してるって言えばいいでしょ」 彼は眉をひそめた。「唯、いい加減にしてくれ」 「指輪の件はもう終わった話だろ。それに、お前は俺の婚約者なんだから、こういう集まりにはちゃんと顔を出してもらわないと困るんだ」 私は亮を見つめ、急に何もかも馬鹿馬鹿しくなった。 「わかった。行くよ」 店に着くと、個室にはすでに何人か座っていて、亮の友人である吉岡拓真(よしおか たくま)の姿もあった。 美咲は白いワンピースを着て、上座のすぐ隣に座っていたが、私たちを見るなり立ち上がる。 「亮くん、神崎さん、来てくれたんですね」 亮は美咲のために椅子を引いて座らせると、私の椅子も引いてくれた。ただし、そこは美咲から3席も離れた場所だった。 注文を取りに来た店員からメニューを受け取った私は、ひととおり目を通してからナッツサラダを頼んだ。この店に来ると、必ず注文するお気に入りの一品だった。 すると、注文されたメニューが書かれた店員のメモをのぞき込んだ美咲が突然、口元を手で覆う。 「どうした?」 亮がすぐに心配そうな顔をすると、美咲は申し訳なさそうにまばたきをした。 「私、ピーナッツアレルギーがあって……ごめんね、私のせいで頼めないものがあって……」 彼女はそう言ってから、私にちらりと目を向ける。 「神崎さん、気を悪くさせてしまったらごめんなさい。でも、わざとじゃないんです」 亮はたちまち不機嫌そうな顔になり、店員に向き直った。 「ナッツサラダはキャンセルしてください」 私は顔を上げた。「それ、私が頼んだんだけど」 「美咲はアレルギーなんだぞ。テーブルにピーナッツの入ったものがあったら、安心して食べられないだろ」 亮は苛立った口調で続ける。「ほかの料理に変えろよ」 「彼女がアレルギーなら、食べなければいいだけでしょ。料理は十品以上あるんだし、ピーナッツだけってわけじゃないんだから」 すると、亮はテーブルをドンッと叩き、全員の前で私を責めた。 「少しは人に気を遣えないのか?美咲は海外から帰ってきたばかりなんだぞ。それくらい我慢してやれよ」 個室が一瞬、静まり返った。 拓真がわざとらしく咳払いをし、場を取りなす。 「まあまあ、料理くらい変えればいいじゃないですか。神崎さん、ここは大目に見てあげてくださいよ」 私は拓真を一度見てから、険しい顔をしている亮に視線を戻した。 「わかった。変える」 ナッツサラダの注文が取り消されると、うつむいて「ありがとう、亮くん」と小さく礼を言った美咲の口元には、かすかな笑みが浮かんでいた。 食事が進むにつれて場も盛り上がり、何杯か酒を飲んだ拓真が、またふざけ始めた。 「亮、美咲さんが海外に行ってから3年も会ってなかったんだろ?せっかくの帰国祝いなんだから、ハグの一つでもしておけよ!」 美咲は慌てて手を振った。「やめてよ、神崎さんもいるのに、恥ずかしいじゃん!」 「神崎さんだって気にしませんよね?みんな、友達同士なんですから」 拓真がにやにやしながら言うと、その場にいた全員の視線が私に集まる。 私は湯呑みを手に持ったまま、何も言わなかった。 すると、亮は数秒ほど迷った末に美咲を抱き寄せた。 亮の腕の中にいる美咲は、頬を赤く染め、うつむきながらも嬉しそうに笑っている。 個室には拍手と冷やかしの声が響き渡った。 私は黙ってお茶を一口飲む。しかし、すっかり冷めたお茶は、舌に残るほど渋く、苦かった。 この瞬間、心の中にかろうじて残っていた何かが、完全に消えた気がした。 怒りも、悔しさも、もうなかった。ただ、すべてに決着がついたような、不思議なほど穏やかな気持ち。 食事会が終わり、レストランを出たところで、美咲が亮の袖をつかんだ。 「亮くん、今日はありがとう。今度は私にご馳走させて」 亮は彼女の肩を軽く叩く。「水臭いな。これからは、何かあったらいつでも連絡しろよ」 私は少し離れた場所に立ち、二人の会話が終わるのを静かに待っていた。 帰りの車内では、亮はしばらく黙って運転していたが、やがて唐突に口を開いた。 「お前、今夜の態度は何なんだよ。最初から最後まで仏頂面で、友達にどう思われるか考えなかったのか?」 「別に、そんな顔してないよ」 「拓真から聞いたけど、話しかけられてもろくに返事しなかったんだってな。そんなんだと、俺の婚約者は礼儀も知らないのかって思われるだろ」 私は車の窓に寄りかかり、次々と後ろへ流れていく街灯を眺める。 「もう二度としないわ」 亮は私が反省したと思ったらしく、声を和らげた。 「それでいいんだよ。来週には結婚式だし、これからは人前に出る機会も増えるんだから、少しは振る舞い方を覚えろよ」 私は何も言い返さなかった。 マンションの前に車が止まると、私は先に降り、そのまま歩き出した。 「おい、待てよ」 私は立ち止まらず、そのままエレベーターに乗り込んだ。 追いついてきた亮は、笑いながら「最近ますます気が強くなったな」と言っていた。 エレベーターのドアに映る自分を、私は無表情のまま見つめた。 亮、もう二度と、あなたに恥をかかせることはないよ。 だって、こんな集まりに一緒に出ることなんて、もう二度とないんだから。 第3話 夜中、激しい腹痛で目が覚めた。 冷や汗が止まらず、体にまったく力が入らない。 本来なら家で休んでいるはずの亮もおらず、私は痛みに耐えながら、どうにか自分で119番に電話をかけた。 「もしもし……急性胃腸炎みたいで、お腹が痛くて動けないんです。住所は桜葉台の3号棟、802号室です……」 救急車はすぐに到着したものの、自分では歩けないほどだったため、救急隊員2人に担架で運び出された。 病院に着くと、救急外来の照明がやけに白く、目に刺さる。 血圧を測りながら、看護師が尋ねてきた。 「ご家族の方は?お一人ですか?」 「今、連絡してみます」 亮に電話をかけると、何度目かの呼び出し音でようやくつながった。 「こんな時間に何だよ?」声には露骨に苛立ちが滲んでいる。 「今、病院の救急外来にいるの。急性胃腸炎で……来てもらえない?」 電話の向こうが数秒ほど静かになったあと、美咲の声が聞こえてきた。 「亮くん、早く水道管を何とかしないと、リビングまで水浸しになっちゃうよ」 すると、亮の声色が、一瞬で焦りと優しさを帯びたものに変わる。 「すぐ行く」 そして私にこう言った。「美咲の家の水道管が破裂しちゃったから、先にそっちを片づけてくる。お前はとりあえず一人で何とかしてくれ。金なら送るから」 「亮、私、病院にいるんだよ」 「病院には看護師がいるだろ。それに、大した病気じゃないんだから、それくらい自分で何とかしろ」 そこで電話は切れた。 数秒後、ネットバンクアプリに4万円の送金通知が届く。 私はスマホをベッドに伏せ、長い間、天井を見つめていた。 しばらくすると看護師が戻ってきて、何枚かの書類を差し出してきた。 「こちらに署名をお願いします……あれ、ご家族の署名欄が空欄ですが、ご主人は?」 「結婚していませんので」 看護師は私をちらりと見たものの、それ以上は何も聞かず、書類を持って立ち去った。 その後も私は一人で受付を済ませ、診察料を支払い、採血を受けて点滴を打ってもらう。 手の甲に針を刺す際には、血管が細くて入りにくいと言われ、2回目でようやく針が入った。 私は無機質な病院のベッドに横たわり、左手には点滴、右手はお腹を押さえたまま、じっと時間が過ぎるのを待つ。同じ病室の隣のベッドには高齢の女性がいて、付き添いの夫がミカンの皮をむいてあげていた。 点滴を始めて40分ほど過ぎた頃、拓真がドアを開けて入ってきた。 果物の入った袋を提げていた彼は、私の隣に腰を下ろすと、足を組んだ。 「亮に様子を見てきてくれって頼まれたんです。どうですか、少しはよくなりました?」 「どうしてあなたが?」 「亮、手が離せないみたいで。美咲さんの家の水道管が破裂してかなり水浸しになってしまったらしいので、片付けを手伝ってるようです」 私は小さく笑ったが、何も言わなかった。 すると、拓真は少し身を乗り出し、声をひそめる。 「神崎さん、ちょっと言いにくいんですけど……病気を使って亮の気持ちを試すのはやめたほうがいいですよ。 亮、最近は結婚式の準備で忙しいんです。それに、美咲さんだって久しぶりに帰国した昔からの友達なんですから、少しはわかってあげてください」 私は顔を上げて彼を見つめた。 「吉岡さん。急性胃腸炎で、救急車を呼ばなきゃいけないほど痛かったんです。それでも、私が亮を試してると思うんですか?」 拓真は気まずそうに目をそらし、乾いた笑いを漏らした。 「いや、そういう意味じゃなくて……ただ、亮も本当に手が離せないんです」 「だったら、亮にはもう来なくていいと伝えてください」 拓真は少し驚いたような顔をし、しばらく座っていたあと、帰っていった。 それから10分ほど経って、点滴が終わった。 針を抜いてもらって立ち上がると、まだ足元が少しふらついたものの、何とか病院の出口まで自分の力で歩いていく。 外へ出ると冷たい風が吹きつけてきて、かえって頭がすっきりした。 ネットバンクアプリを開き、送られてきた4万円をそのまま送り返す。 それから、大家に電話をかけた。 「夜分にすみません。以前からお借りしている部屋なんですが、契約期間ってあと3か月残っていますよね?」 「ええ、そうですよ。どうかしましたか?」 「退去したいんです。違約金は契約どおりにお支払いしますし、荷物も今夜中に全部運び出しますので」 大家は驚いた様子だった。「そんなに急に?もう住まないんですか?」 「はい。今日中に荷物を全部引き払います」 電話を切ると、私は荷物を運べる軽トラックを手配し、以前住んでいた部屋へ向かった。 そこは2年前、亮と一緒に借りた部屋だった。 その後、桜葉台のマンションへ引っ越してからは空き部屋になっていたため、亮が美咲に貸すと言っていた部屋。 だからこそ、今夜のうちに自分の荷物をすべて持ち出すつもりだった。 作業は2時間ほどで終わり、荷物はすべて段ボールに詰めて運び出した。 鍵を受け取りに来た大家は、すっかり何もなくなった部屋を見て、気の毒そうな顔をする。 「本当にいいんですか?」 「はい。もう決めたことなので」 私は鍵を手渡し、最後の段ボールを抱えてトラックに乗り込んだ。 トラックの助手席に座っていると、スマホが震えた。 亮からのメッセージ。【美咲のところは片づいたけど、そっちはどうだ?少しはよくなったか?】 私はそのメッセージをしばらく見つめたが、返信はしない。 そして、そのままスマホの画面を消した。 第4話 予定していた結婚式まで、あと3日。 シャツを探そうとクローゼットを開けた亮が、ふと手を止めた。 「お前の服は?なんで半分も空いてるんだ?」 私はリビングで図面を描きながら、顔も上げずに答える。「クリーニングに出したの」 亮は特に気にする様子もなく、適当な上着を手に取って出かけようとしたが、玄関で思い出したように振り返った。 「ああ、そうだ。結婚式では美咲にもお前から話しかけてやってくれよ。帰国したばかりで知り合いも少ないんだから、こっちから気を遣ってやらないと。冷たくされたと思われたら困るだろ」 私はペンを置き、亮を静かに見据える。 「どうして私が彼女に気を遣わなきゃいけないの?」 亮は振り返り、露骨に不機嫌そうな顔をした。 「俺の友達なんだぞ。その言い方はないだろ」 「あなたが4年間も追いかけてた初恋の人でしょ?その人に、結婚式の主役である私が気を遣う?おかしいと思わない?」 亮は眉をひそめ、声を冷たくした。 「唯、またその話かよ。何度言えばわかるんだ?俺はもう美咲をそういう目で見てない。お前はお前、美咲は美咲だろ」 「じゃあ、彼女を結婚式に呼ばないで」 「もう招待状を送ったんだぞ。今さら断れるわけないだろ?」 彼は腕時計に目を落とす。 「こんなことで言い争ってる暇はないんだ。明後日には美咲の個展が始まるから、会場の準備も見に行かなきゃいけないし」 そう言って、亮は出ていった。 私はその場に座ったまま、廊下を遠ざかっていく足音を聞いていた。 美咲の個展の準備には誰よりも熱心なのに、私のウェディングドレスの試着には、一度も付き合ってくれなかった。 午後3時、インターホンが鳴った。 配達員が運び込んできたのは、大きなユリの花束が2つ。真っ白な花が満開になっていて、たちまちリビングいっぱいに強い香りが広がる。 私は思わず数歩後ずさった。すでに喉が締めつけられるような感覚がある。 花束に添えられたカードには、こう書かれていた。【個展の成功を祈ってる。成瀬亮】 そのカードを数秒ほど見つめているうちに、鼻の奥がむずむずし始め、肌には赤い発疹が浮かんできた。 私がユリの花にアレルギーがあることは、付き合い始めて1年目に伝えていた。 当時、同僚から花を贈られそうになったときも、亮が代わりに断ってくれたほどで、ちゃんと覚えていたはずだった。 それなのに今は、ユリの花束を2つも家に届けさせるなんて。 私はマスクをつけ、その花束を大きなゴミ袋に押し込むと、階下のゴミ捨て場まで運んで処分した。 部屋に戻った頃には、発疹が腕から首にまで広がり、ひどいかゆみと熱っぽさを感じていた。 抗アレルギー薬を飲み、ソファにもたれて薬が効くのを待つ。 赤みが少し引いたところで寝室へ向かうと、残していた荷物の整理を再開する。 クローゼットの中にあった私物はすでにほとんど運び出していたため、残っているのは最後の一部だけだった。 私はそれらを2つのスーツケースに詰め、タクシーを呼ぶ。 新しい住まいに荷物をすべて運び終えた頃には、夜9時になっていた。 借りたのは、家賃数万円のワンルーム。 ベッドとクローゼットがあるだけの部屋だったが、硬いベッドに横になると、不思議と気持ちが落ち着いた。 その時、亮から電話がかかってきた。 「家にいないなんて、どこにいるんだ?」 「友達の家にいるの。今夜は帰らないから」 数秒ほど沈黙した亮。 「今度は何なんだよ。あと3日で結婚式だっていうのに、家を飛び出してどうするつもりだ?」 「別に何もないよ。ただ、友達とゆっくりしたかっただけ」 「唯、いい加減に機嫌を直せよ。おとなしく帰ってきて、花嫁になる準備をしろ。同じことを何度も言わせるな」 その口調は、まるで私を花嫁にしてやることが、何よりの恩恵であるかのようだった。 「わかった」 私はそれだけ答えた。 電話を切るとラインを開き、亮のプロフィール画面から右上のメニューを選んだ。 ブロック。 続いて電話番号も着信拒否にし、ショートメッセージも受信できないようにした。亮が私に連絡できる手段は、ひとつ残らず消していく。 すべて終えると、スマホを枕元に置き、天井に取りつけられた黄ばんだ照明を見つめた。 彼が私を口説いていた頃、こんなことを言っていた。 「唯、これからは何があっても、お前一人に背負わせたりしないから」 その言葉も今となっては、あの2つのユリの花束と一緒にもうゴミ箱へ捨てた。 結婚式当日、雲上ブライダルホールには大勢の招待客が集まっていた。 オーダーメイドのスーツに身を包んだ亮は、美咲を連れて披露宴会場に姿を現す。 淡いピンクのワンピースを着た美咲は、まるで自分が主役であるかのように、亮の腕に寄り添っていた。 亮は会場を見渡したが、唯の姿が見当たらない。 控室のドアを開けてみても、中には誰もおらず、メイク用の照明さえついていなかった。 眉をひそめてスマホを取り出し、唯に電話をかけたものの、つながらなかった。 また唯が拗ねているだけだと思い、今度は拓真に電話をかけさせたが、やはり連絡は取れない。 さすがに人前で取り繕うのも難しくなり、亮はスタッフを呼び、招待客の対応をお願いすることにした。 そのとき、式場の支配人が書類を手に、足早に亮へ近づいてきた。 「成瀬様、ひとつ確認させていただきたいことがございます」 亮は苛立った様子で顔を向けた。 「何ですか?もうすぐ式が始まるんですが」 支配人が差し出したのは、キャンセル手続きの控えで、そこには、キャンセル日と返金の記録がはっきりと記されていた。 「成瀬様、実は今日の結婚式ですが、1週間前に神崎唯様からキャンセルのお申し出があり、すでに手続きが完了しております。頭金も返金済みでして……」