第1章
鷹司智則(たかつかさ とものり)は、妻になる女性に一つの条件を課していた。まずは彼の仲間たちに認められなければならない、というものだ。
交際3周年を祝うヨットパーティーで、私は負けるたびに服を一枚脱がされるポーカーゲームに無理やり参加させられた。
とうとう上半身は薄いキャミソール一枚だけになり、彼の仲間たちはそんな私を舐め回すような目で眺めていた。
「鷹司さん、水城さんの腰、ずいぶん柔らかそうっすね。普段からいろんな体位を試してるんじゃないですか?」
「肌もほんのりピンク色で、たまんねえな。あと一回負けたら、下に着てるやつまで脱いで見せてくれるんだろ?」
私は服の裾を必死に握り締め、屈辱に全身を震わせながら、助けを求めるように上座に座る智則を見つめた。
しかし、彼はちょうど魚の小骨を丁寧に取り除き、ほぐした身を隣に座る藤江芙美乃(ふじえ ふみの)の口元へ運んでいるところだった。
周囲の冷やかしが耳に入ると、彼は小さく笑い、ゆっくりと顔を上げた。
「賭けに負けたんだから、潔く脱げよ。何を隠してるんだ?普段、俺のベッドの上じゃあんなに大胆なくせに。
芙美乃はこういうのに慣れてないんだ。あまり怖がらせるなよ。遊びたいなら、そいつで好きに遊べばいい」
私は氷水の中に突き落とされたような気分だった。
皆がどっと笑い声を上げる中、まるでお姫様のように大切に扱われている芙美乃を見つめていると、心臓を容赦なく踏みにじられたような痛みが走った。
愛されているかどうかで、身にまとうことを許される服の枚数さえ、こんなにも違うのだ。
私は最後に残された、尊厳そのものともいえる一枚を脱ぎ捨て、テーブルの上に放り投げた。
そして、彼らの目の前で、一瞬のためらいもなく、暗く冷たい海へと身を投げた。
第1話
海水が耳に流れ込んだ瞬間、世界は完全に静まり返った。
ヨットの上から聞こえていた笑い声も、冷やかす声も、智則の気のない声も、すべて冷たい海水に遮られた。
私は泳げない。
それなのに、海へ飛び込んだ瞬間、不思議と後悔はなかった。
胸が押し潰されるように痛み、四方八方から暗闇が押し寄せてくる。
私は本能的にもがき、必死に腕を動かしたが、指先は何も掴めず、ただ虚しく水をかくばかりだった。
やがて、誰かが浮き輪を投げ込んできた。
巡視艇の乗員に引き上げられたとき、私は全身を震わせていた。
薄いキャミソールが肌にぴったりと張りつき、まるで剥がせない皮膚のように冷たく濡れていた。
ふくらはぎには船べりで擦った長い傷ができ、傷口に海水がしみて、目の前が真っ暗になるほど痛んだ。
ようやく智則がヨットから降りてきた。
一歩ずつ近づいてくる彼を見つめながら、私は愚かにも、かすかな期待を抱いてしまった。
たった一言でもいい。
痛くないか、寒くないかと聞いてくれるだけでよかった。
しかし、彼は私の前を素通りすると、真っ先に自分の上着を芙美乃の肩にかけた。
芙美乃は彼の隣に立ち、少し青ざめた顔で小さく口を開いた。「智則、私、何か悪いことしちゃったのかな?あの人が海に飛び込んだとき、本当に怖かったの」
智則は芙美乃にかけた上着のボタンを丁寧に留めながら、優しいとさえ思えるほど穏やかな声で答えた。「君のせいじゃないよ」
そう言ってから、彼はようやく私に目を向けた。
その眼差しに心配の色など微塵もなく、ただ楽しい気分を台無しにされた苛立ちだけが滲んでいた。「水城依緒(みずき いお)、もう気は済んだか?」
海水でむせたせいで喉がひどく痛み、私は声を出すことさえできなかった。
彼は二歩ほど近づくと、ずぶ濡れで惨めな姿の私を見て眉をひそめた。「これだけ大勢が見てる前で海に飛び込んで、いったい誰に何を見せつけたかったんだ?」
私はゆっくりと指先に力を込め、体にかけられた保温シートを握り締めた。
彼の目には、私が屈辱に耐えきれず、逃げ場を失って海へ飛び込んだようには映っていないのだ。
ただ駄々をこねているだけ。
わざと彼に恥をかかせようとしているだけなのだ。
彼の後ろでは、仲間たちも次々とヨットから降りてきて、そのうちの一人が口笛を吹いた。
「水城さん、なかなか度胸あるじゃないっすか。本当に飛び込むとは思いませんでしたよ」
「鷹司さん、さすがに今回の婚約者テストはやりすぎだったんじゃないですか?」
智則は振り返りもせず、軽い口調で言い捨てた。「こいつは昔から甘やかされてるからな。少し頭を冷やせば目も覚めるだろ」
芙美乃がそっと彼の袖を引いた。「智則、あの人、服がびしょ濡れだよ。先に着替えさせてあげたほうがいいんじゃない?」
私は呆然と顔を上げた。
次の瞬間、智則は執事に命じた。「こいつにバスタオルを一枚持ってきてくれ」
ふと、2年前のことが脳裏に浮かんだ。
あのとき、智則は私を山頂へ日の出を見に連れていってくれた。
私がたった一度くしゃみをしただけで、彼は自分のコートを脱いで私をすっぽりと包み込み、自分はシャツ一枚のまま、一晩中冷たい風に吹かれていた。
あのとき、彼は私を抱き締めながら言ったのだ。「大切な依緒に、寒い思いなんかさせられないからな」
それなのに今、私は全身ずぶ濡れで、ふくらはぎから血を流しているというのに、彼が心配しているのは、芙美乃が海風に当たって寒い思いをすることだけだった。
私は俯いて、小さく笑った。
けれど、笑っているうちに涙が手の甲にぽたぽたと落ち、そこに残る海水と混じり合っていった。
智則もようやく何かに気づいたのか、少し声を和らげた。「もういい。今夜はこれで終わりだ。車に乗れ、送っていく」
私は顔を上げ、彼を見つめた。「智則、もしさっき、誰にも助けてもらえなかったら?」
彼は眉間にしわを寄せた。「縁起でもないことを言うな」
そう言って、以前のように、私の頭を撫でようと手を伸ばしてきた。
そのとき、まるでタイミングを見計らったかのように、芙美乃が軽く二度ほど咳き込んだ。
智則はすぐさま振り返った。「どうした?どこか具合が悪いのか?」
「ううん、大丈夫。ちょっと寒いだけ」
彼はそれきり私を見ることもなく、芙美乃を支えながら車に乗り込んだ。
車のドアが閉まる直前、彼の声が聞こえてきた。「先に芙美乃を送っていこう。彼女は暗いところが怖いんだ」
そうか。
寒さが怖くても、暗闇が怖くても、痛い思いをするのが怖くても、彼はその人を腕の中に抱き寄せて守ってくれるのだ。
私以外なら、誰でも。
第2話
その夜、私は智則の車には乗らず、タクシーを拾ってマンションへ帰った。
運転手はバックミラー越しに、何度も私の様子を窺っていた。深夜、ずぶ濡れのままバスタオルにくるまった女が、ヨットハーバーからタクシーに乗り込んでくるなど、見たことがなかったのだろう。
私は小さな声で頼んだ。「すみません、少し急いでもらえますか」
マンションに戻ると、リビングにはまだ明かりがついていた。
ローテーブルの上には、午後に私が手作りしたケーキが置かれていた。
交際3周年を祝うために、半月も前から練習を重ねてきたものだった。
クリームの塗り方は決して上手とは言えなかったけれど、真ん中にはチョコレートソースで智則の名前を書いていた。
けれど今はクリームが崩れ、文字も滲んでぐちゃぐちゃになっている。
まるで笑い話だ。
私はケーキをゴミ箱に捨て、振り返った途端、目の前が真っ暗になった。
次に目を覚ましたときには、すでに夜が明けていた。
額は驚くほど熱く、ふくらはぎの傷もひどく腫れ上がっていた。傷口の周囲は海水に浸かったせいで白くふやけている。
私は手探りでスマホを取り、智則に電話をかけた。
一度目は、応答なし。
二度目は、途中で切られた。
三度目にして、ようやく彼が電話に出た。低い声が耳に届く。「今度は何だ?」
私は唇を噛み締め、ほとんど聞き取れないほどかすれた声で答えた。「熱が出たの。足の傷も、ひどく腫れている……」
電話の向こうで、彼が一瞬黙り込んだ。
すると、芙美乃の小さな声が聞こえてきた。「智則、依緒さんから?あまり怒らないであげて。あの人も昨日はつらい思いをしたんだから」
智則の声が少し遠ざかった。どうやら彼女のほうを向いて、宥めているらしい。「じっとしてて。まだ点滴が終わってないだろ」
そして再び私に話しかけてきたとき、彼はこう言った。「今は手が離せない。運転手に病院まで送らせる」
私は呆然とした。「病院にいるの?」
「昨日のことで芙美乃がショックを受けて、動悸が出たんだ」
彼はそれが当然であるかのように続けた。「とりあえず自分で受付を済ませてくれ。ただの熱だろ。いちいち大騒ぎするな」
私は鏡に映る、血の気を失った自分の顔を見つめながら、思わず笑いそうになった。
芙美乃が怖い思いをしたからと、彼は一晩中病院で付き添っていた。
一方、私は海に飛び込み、傷口までひどく腫れ、立っているのもやっとなほどの高熱を出しているというのに、彼にとっては「ただの熱」でしかないのだ。
私は一人で病院へ向かった。
受付を済ませ、順番を待ち、採血を受け、傷口の洗浄と処置をしてもらった。
医師が傷口を処置している間、全身が震えるほど痛かったが、それでも私は一度も声を上げなかった。
智則は昔から、私のことを我慢強い女だと言っていたから。
点滴が半分ほど終わった頃、廊下の突き当たりに彼の姿が見えた。
智則は芙美乃を抱きかかえていた。
彼女の手の甲には止血用の綿がテープで留められており、顔を彼の肩に埋めながら、小さな声で甘えている。「注射、すごく痛かった……」
智則は彼女を見下ろし、優しく宥めた。「甘えん坊だな」
その口調には、甘やかすような優しさが溢れていた。
芙美乃は私の姿に気づくと、一瞬驚いたように目を見開いた。「依緒さん?依緒さんもここにいたの?」
智則も彼女の視線を追って、こちらを振り向いた。
彼は私の青白い顔にも、手の甲に刺さった点滴の針にも気づいたはずなのに、ただ眉をひそめただけだった。「どうして病室で休んでないんだ?」
私は小さな声で答えた。「病室じゃないわ。処置室で点滴してるだけだから」
智則は一瞬黙り込んだ。
すると、芙美乃がすぐに彼の腕の中から顔を上げた。「智則、私の病室を譲ってあげたらどうかな?」
その言葉は優しく、思いやりに満ちているように聞こえた。
けれど、彼の服を掴む手の力は、少しも緩んでいなかった。
案の定、智則は低い声で答えた。「その必要はないよ。君は体が弱いんだから、無理しなくていい」
そして私に視線を向けた。
「点滴が終わったら、自分で帰ってくれ。今日は芙美乃の具合が悪いから、俺が付き添ってやらないと。
依緒、こんなときにまで張り合おうとするな」
彼の言葉は一つひとつが細い針のように、ゆっくりと私の胸に突き刺さっていった。
その瞬間、心の奥で何かが、かすかな音を立ててひび割れるのを感じた。
第3話
智則がマンションに帰ってきたのは、あれから3日目のことだった。
私はちょうど足に巻いていたガーゼを外したところで、ソファに座ってぼんやりしていた。
玄関のドアが開き、智則がギフトボックスを手に、部屋へ入ってきた。
「まだ怒ってるのか?」
彼はいつものように私の隣に腰を下ろすと、肩を抱き寄せようと手を伸ばしてきた。
私は反射的に身をかわした。
智則の動きが止まり、その目がすっと険しくなった。
「いい加減にしろよ。
ヨットでの一件は、あいつらが悪ふざけしすぎた。あいつらに代わって、俺が謝るよ」
私は顔を上げ、彼を見つめた。「あなたは?」
彼は眉をひそめた。「俺が何だ?」
私の心は、さらに深く沈んでいった。
今になっても、彼は自分が悪いことをしたとは少しも思っていないのだ。
智則がギフトボックスを開けると、中にはダイヤモンドのネックレスが入っていた。
「お詫びだ」
彼はネックレスを取り出し、気のない口調で続けた。
「今日は一緒に婚約披露パーティーで着るドレスを試着しに行くんだから、いつまでもそんな顔するなよ。
ずっと俺の隣に、婚約者として堂々と立ちたかったんだろ?」
彼はあまりにも自信満々だった。
まるで「鷹司家の妻」という立場を与えてやると言いさえすれば、私は涙を流して喜び、これまでの屈辱をすべて忘れるはずだとでも思っているかのようだった。
私はそのネックレスを見つめながら、付き合い始めたばかりの頃、彼が銀のネックレスをプレゼントしてくれたことを思い出した。
あの日、彼はプラタナスの下に立ち、耳までほんのり赤く染めながら、照れを悟られまいと平静を装っていた。「適当に買っただけだ。気に入らなきゃ捨てればいい」
私はそのネックレスを、3年間ずっと身につけていた。
やがてチェーンが切れてしまっても、捨てることなどできなかった。
それなのに今、彼が高価なダイヤモンドのネックレスを何気なく差し出してきても、その輝きに心が動くことはなかった。
午後、私たちはブライダルサロンへ向かった。
婚約披露パーティーで着るドレスは、私が一目惚れして選んだものだった。
アイボリーのサテン生地に、襟元から肩にかけて小さな真珠が散りばめられている。ふんわりと軽やかなスカートは、まるで月の光をまとっているかのようだった。
試着室のカーテンを開けると、智則は顔を上げ、しばらく私を見つめた。
その一瞬、彼が私に見惚れたような気がした。
消えかけていた心の奥の小さな火が、再びかすかに灯った。
しかし、すぐに入口のほうから芙美乃の声が聞こえてきた。
「わあ、すごく綺麗!」
彼女は淡い色のロングワンピースを着て、まるで偶然通りかかったかのようにそこに立っていた。
智則はすぐに立ち上がった。「どうしてここに?」
芙美乃は少し照れくさそうに笑った。「二人の婚約披露パーティーに着ていくドレスを選びに来たの。まさかこんなところで会うなんて」
彼女は私の前まで歩いてくると、ドレスの裾にそっと手を触れた。「依緒さん、このドレス、本当に素敵ね。私もちょっと試着してみてもいい?小さい頃から、一度でいいからこんなドレスを着てみたかったの」
私が口を開くより先に、智則が答えた。「着てみればいい」
体中の血が、少しずつ冷えていくようだった。「これは私が婚約披露パーティーで着るドレスよ」
智則は、まるで私が理不尽なことを言っているかのような目を向けてきた。「ちょっと試着するくらい、別にいいだろ。それで何か減るわけでもない」
芙美乃は慌てて両手を振った。「ううん、やっぱりいいわ。依緒さんが嫌なら、無理に着なくても……」
彼女の目元がうっすらと赤くなり、声も小さくなっていった。「分かってるの。婚約するのは二人なんだし、私が勝手に触っちゃいけなかったよね」
智則の眉間に深いしわが寄った。「依緒」
たった名前を呼ばれただけだった。
けれど、そこに込められた警告は十分に伝わってきた。
やがて芙美乃がそのドレスに着替えて出てくると、ちょうど通りかかった別の店員が、彼女を婚約者だと思ったのか、笑顔で声をかけた。
「鷹司様、ご婚約者様にとてもよくお似合いですね」
一瞬、その場が静まり返った。
智則はすぐには訂正しなかった。
彼は芙美乃を見つめ、口元にかすかな笑みを浮かべた。「確かによく似合ってるな」
芙美乃は頬を赤らめながら、その場でくるりと一回転した。「本当に?」
「ああ」
彼は低い声で答えた。「君によく似合ってる」
少し離れたところに立っていた私は、突然、自分がひどく滑稽な邪魔者に思えてきた。
その後、指輪を選んでいるときにも、芙美乃は私がすでに決めていた婚約指輪を気に入った。
「このダイヤモンド、カットがすごく綺麗ね」
彼女の指にはめられたその指輪を見つめながら、私は胸の奥が麻痺したように、何も感じなくなっていた。
かつて智則は、婚約指輪は自分の手で私の指にはめたいと言ってくれた。
それなのに今、彼は別の女の手を大切そうに取り、壊れ物に触れるかのような慎重さで指輪をはめていた。
芙美乃は申し訳なさそうに私を見た。「依緒さん、ごめんね。わざとじゃないの」
智則は顔を上げることさえせずに言った。「とりあえず、そのままつけてればいい。依緒にはあとで別のものを用意させるから」
私は静かに尋ねた。「智則、何でも別のものに替えれば、それで済むの?」
彼はようやく私を見た。「たかが指輪だろ。何をそんなに気にしてるんだ?」
私は何も言わず、ただ彼を見つめた。
そうか。彼にとっては、私のドレスも、婚約指輪も、別のものに替えればそれで済むのだ。
私がどれほど傷ついたところで、彼にとっては、ただ私が気にしすぎているだけなのだろう。
ブライダルサロンを出ると、智則は芙美乃を家まで送っていった。
私は一人でタクシーに乗り、マンションへ帰った。
私にも、自分の手で終わらせなければならないことがあった。
第4話
マンションにある私の荷物は、それほど多くなかった。
3年間一緒に暮らし、私はとっくに智則の生活の一部になっているつもりだった。
けれど、いざスーツケースを開いて荷造りを始めてみると、持っていけるものなど、数着の服と何冊かの本、それに数枚の古い写真くらいしかなかった。
私はダイヤモンドのネックレスをギフトボックスに戻すと、引き出しの奥から、切れてしまった銀のネックレスを取り出した。
ずいぶん古くなった銀のチェーンは留め具が壊れ、ところどころ黒ずんでいる。
私はそれを長い間、手のひらに握り締めていた。
そのとき、スマホが震えた。
智則からメッセージが届いていた。
【今夜、御影邸に来い。仲間も全員いる。これが最後の婚約者テストだ。
これさえクリアすれば、明日は予定どおり婚約を発表する】
私は長い間、画面を見つめていた。
最後の婚約者テスト。
なんて軽々しい言葉なのだろう。
この3年間、彼の仲間たちは私が耐える姿を余興にし、私の屈辱を賭けの対象にし、私の愛さえ好き勝手に弄んでいいチップのように扱ってきた。
そして智則は、いつだって彼らの真ん中に立ち、高みからそれを眺めていた。
私が傷つくことなど、最初から分かっていたはずなのに。
それでも彼は決まって、あと一度だけ我慢しろと言った。
私は黒いロングドレスに着替え、御影邸へ向かった。
広いリビングは煌々とした明かりに照らされていた。
芙美乃は智則の隣に座り、膝には薄いブランケットをかけている。
その指には今も、本来なら私のものになるはずだった婚約指輪がはめられていた。
私が入ってくるのを見ると、彼女は反射的にその手を引っ込めた。
智則が私に向かって手招きする。「こっちに来い」
私はその場に立ったまま動かなかった。
すると、誰かがふざけた調子で笑った。「水城さん、今夜は脱衣ゲームじゃないっすよ。鷹司さんからのお達しでね。また思い詰めて海にでも飛び込まれたら困るってさ」
部屋中にどっと笑い声が広がった。
智則はグラスを持ち上げ、口元に気だるげな笑みを浮かべた。「今日は簡単なやつにしておく」
そう言って私を見る。「芙美乃に酒をついで、ちゃんと謝れ。ヨットの夜、お前が海に飛び込んだせいで、芙美乃は相当怖い思いをしたんだ」
一瞬、自分の耳を疑った。「私が彼女に謝るの?」
智則は眉をひそめた。「お前がみんなの前で場をしらけさせたせいで、全員が気まずい思いをしたんだ。芙美乃はあれだけお前に気を遣ってくれたのに、お前は昨日もあんな態度を取っただろ」
彼はグラスを置くと、少し声を低くした。「依緒、鷹司家の妻になりたいなら、これくらいの分別はわきまえろ」
芙美乃が小さな声で言った。「智則、もういいよ。私は依緒さんを困らせたいわけじゃないから」
智則は彼女に目を向けると、声を和らげた。「困らせてるんじゃない。こいつも少しは聞き分けがよくならないと」
聞き分けがよくならないと。
その言葉を聞いた瞬間、ずっと昔のことを思い出した。
智則が初めて私の手を握ったときも、似たようなことを言っていた。
あの頃の私は家庭の事情で親戚の家に身を寄せていて、いつも周囲の顔色を窺い、自分に自信がなかった。
彼は路地の入口に立って私を背中に庇い、周囲から浴びせられる心ない言葉から、ずっと私を守ってくれた。
「依緒、そんなに聞き分けのいい子でいなくていい。これからは俺がいるから」
そして私は、本当にその言葉を信じた。
自分の弱いところを、何もかも彼に預けた。
けれど最後には、誰かを心から信じきることが、時に何よりも深く自分を傷つけるのだと、ほかでもない彼自身に思い知らされた。
私は歩み寄り、テーブルの上に置かれていた酒瓶を手に取った。
その場にいる誰もが、また私が折れるのだと思っていた。
智則の目にも、揺るぎない確信が浮かんでいた。
私は彼を愛している。
だから、彼を手放せるはずがない。
鷹司家に嫁ぐためなら、どれほど傷つけられても、私はすべて耐える――彼はそう信じて疑っていない。
私は酒瓶を手に、芙美乃の前まで歩いていった。
彼女が顔を上げる。その瞳の奥には、怯えた表情とは裏腹に、勝ち誇ったような光がかすかに宿っていた。
私は彼女の指にはめられた指輪を見つめ、静かに口を開いた。「芙美乃、あなたにお酒をついで謝るつもりはないわ」
そして、そのまま手を離した。
酒瓶は床に落ち、粉々に砕け散った。
深紅のワインが跳ね、彼女の真っ白なスカートを汚した。
一瞬にして、広いリビングが静まり返った。
智則の表情が凍りついた。「依緒!」
私は彼を振り返った。
自分でも驚くほど、心は静かだった。「あなたの『婚約者テスト』は、もう受けない」
彼は一瞬、呆気に取られたように私を見た。
私はそのまま続けた。「あなたの妻にも、もうならない」
意味が理解できなかったかのように固まった彼は、すぐに冷笑を漏らした。「またそれか?今ここから出ていくなら、明日の婚約発表に俺が迎えに行くと思うなよ」
私は頷いた。「分かった」
そう答えると、私は背を向けて出口へ歩き出した。
背後で、椅子が乱暴に蹴られる音が響いた。
ようやく智則の声に怒りが滲んだ。「依緒、一歩でも出ていってみろ!」
私は足を止めなかった。
開いた扉から夜風が吹き込み、ドレスの裾を大きく揺らした。
玄関前の階段を下り、すでに玄関先で待たせていた車のドアを開ける。
そのとき、スマホに、予約便の搭乗時刻を知らせる通知が届いた。
私は智則に、最後のメッセージを送った。【智則、これからはもう、誰かを楽しませるために私を使わなくていいから】
送信が完了すると、私はスマホの電源を切り、SIMカードを抜いて近くのゴミ箱へ捨てた。
1時間後、空港には出発便を知らせるアナウンスが流れていた。
私はスーツケースを引きながら、保安検査場の奥へと歩いていった。
背後には街の無数の明かりが煌めいていたけれど、そのどれ一つとして、もう私が振り返る理由にはならなかった。