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さよならの後で、あなたと恋を
同窓会で、元学級委員が「自分だけが経験したこと」を言い合うゲームを始めた。 クラスの人気者はそっと目を伏せた。 「......結婚式に、私を奪いに来た人がいたの。私は断ったけど」 そう言って、料理からネギを取り除いている大西瑛斗(おおにし えいと)に目を向け、目を赤くした。 たちまち、みんながはやし立てる。 「どうりで、水落が離婚した途端、大西がどうしても同窓会を開こうって言い出したわけだ!よりを戻したかったんだな!」 瑛斗は顔を上げたが、口を開く間もなく、別のテーブルの同級生たちに乾杯しようと連れていかれた。 水落依由(みずおち いより)は、彼がネギを取り除いた白身魚の蒸し焼きの鉢を自分のほうへ引き寄せ、懐かしそうに言った。 「あの日私が断ったら、彼、すごく悲しそうに泣いたの。それでも、私の肉うどんからネギを取り除くのは忘れなかった。私、ネギアレルギーだから......」 みんながしみじみとため息を漏らす中、誰かが私に尋ねた。 「梨瑚、依由の結婚式では、ブライズメイドをしてたよね?その場面、見てなかったの?」 私は首を横に振った。 そして、私たちが結婚した翌日、瑛斗が一つの指輪を見つめながら涙を流していたことを思い出した。 彼の深い愛情が、すべて過去に捧げられているのなら。 3年もの間、無理に居場所を作ろうとしてきたこの結婚から、私もそろそろ身を引くべきなのだろう。
Chapters (1)
第1章
同窓会で、元学級委員が「自分だけが経験したこと」を言い合うゲームを始めた。
クラスの人気者はそっと目を伏せた。
「......結婚式に、私を奪いに来た人がいたの。私は断ったけど」
そう言って、料理からネギを取り除いている大西瑛斗(おおにし えいと)に目を向け、目を赤くした。
たちまち、みんながはやし立てる。
「どうりで、水落が離婚した途端、大西がどうしても同窓会を開こうって言い出したわけだ!よりを戻したかったんだな!」
瑛斗は顔を上げたが、口を開く間もなく、別のテーブルの同級生たちに乾杯しようと連れていかれた。
水落依由(みずおち いより)は、彼がネギを取り除いた白身魚の蒸し焼きの鉢を自分のほうへ引き寄せ、懐かしそうに言った。
「あの日私が断ったら、彼、すごく悲しそうに泣いたの。それでも、私の肉うどんからネギを取り除くのは忘れなかった。私、ネギアレルギーだから......」
みんながしみじみとため息を漏らす中、誰かが私に尋ねた。
「梨瑚、依由の結婚式では、ブライズメイドをしてたよね?その場面、見てなかったの?」
私は首を横に振った。
そして、私たちが結婚した翌日、瑛斗が一つの指輪を見つめながら涙を流していたことを思い出した。
彼の深い愛情が、すべて過去に捧げられているのなら。
3年もの間、無理に居場所を作ろうとしてきたこの結婚から、私もそろそろ身を引くべきなのだろう。
第1話
「水落以外は、全員指を一本倒して!」
依由は申し訳なさそうな顔をしたあと、ふと私に目を向け、うれしそうに声を上げた。
「梨瑚、まだ残ってるの、もう私たち二人だけだね」
私は最後の一本を立てたまま、口元に苦い思いをにじませ、ひと言も発することができなかった。
向かいの席から声が上がる。
「瑛斗も、まだ一本残ってるぞ!」
同級生の一人が瑛斗を呼び戻しに行った。
瑛斗は座る前に一瞬動きを止め、依由のほうへ視線を向けたようだった。
依由は顔を上げ、優しくほほ笑んだ。
「ネギを取り除いてくれてありがとう。こんなに年月が経っても、私のネギアレルギーを覚えててくれたんだね」
「ほら、早く座れよ!まだ話してないの、お前だけだぞ!」
瑛斗は無理やり席に座らされた。
「俺は......」
語尾を引き延ばす瑛斗を、みんなが期待のこもった目で見つめていた。
私だけが、ネギを半分ほど取り除いた帆立の雑炊をじっと見つめ、もう片方の手でテーブルクロスをきつく握りしめていた。
「20年間、ずっと好きでいる女の子がいる」
個室中に、一斉にはやし立てる声が響き渡った。
期待に浮き上がっていた心が、重く沈む。私はそっと目を閉じた。
依由と瑛斗が小学生の頃からの幼なじみだということは、クラスの全員が知っている。
これでは、遠回しに告白しているようなものだった。
「ほかにいる人は?いないなら指を折って!」
私は右手を握り込んだ。
目を開けると、なぜか瑛斗と視線がぶつかった。
彼はわずかに唇を引き結んでいた。その目は、余計なことを言うなと私に釘を刺しているように見えた。
でも、そんな心配は要らない。
私はもう負けたのだ。余計なことを口にする資格さえ、残っていなかった。
「榎並も水落も指を折ったから、今回は大西の勝ちだな!大西以外は、全員罰として三杯飲むこと!」
みんなは「さすが秀才だな」と笑い合いながら、それぞれ酒を注いだ。
私も自分のグラスに一杯注ぎ、飲もうとした。そのとき、依由のためらいがちな声が聞こえた。
「でも私、お酒はあまり飲めなくて......飲まなくてもいい?」
瑛斗はそれを聞くと、「ああ」とうなずいた。
「女子はみんな飲まなくていいよ。代わりに水を飲んで」
みんなが訳知り顔で目配せを交わす。隣に座っていた、学生時代に同じ寮の部屋だった友人が、小声で言った。
「まただよ、また。一人を助けるために、女子全員を免除するやつ」
――そう。また、これだ。
前にクラスみんなで集まったのは、大学の卒業写真を撮ったときだった。
いつも落ち着いている瑛斗が、突然「みんなと離れるのが寂しい」と言い出し、一人ずつハグをして別れを惜しんだ。
7年間、彼に片思いをしていた私は、その言葉を聞いただけで手のひらに汗をかいていた。
けれど、男子とのハグを終えた彼が女子のほうへ来るのを待っていると、不意に友人に行く手を遮られた。
友人は、呆れたように言った。
「あなた、本気で行くつもり?あいつが私たちとハグしたいとでも思ってるの?水落を抱きしめたくて、私たちを口実にしてるだけだって!」
そちらを見ると、依由が一番前に立ち、彼に向かって両腕を広げていた。
瑛斗の口元には笑みが浮かんでいた。その瞳に宿る期待が、私の胸を刺した。
あの日、私は逃げるようにその場を去った。
校舎の裏に隠れ、彼に宛てて書いた告白の手紙を、粉々に破り捨てた。
そして今日も、私はまた一人で期待してしまったのだ。
自嘲の笑みを漏らし、グラスを持ち上げて一気に飲み干した。
普段、酒はほとんど飲まない。
久しぶりに口にした酒は、やはりひどく苦かった。
同窓会が終わると、みんなは二、三人ずつ話しながら店を出ていった。遠方から来た同級生の何人かは、そのまま上階にあるホテルへ向かった。
瑛斗は、依由に呼び止められた。
「瑛斗、話したいことがあるの。少し付き合ってくれない?」
離れていたので彼の表情は見えなかったが、断る素振りはなかった。
元学級委員たちは、興味津々の顔をしていた。
「水落、最近このホテルに泊まってるんだって。こりゃ、大西は今夜帰れそうにないな」
「帰ったって面白くないだろ。20年も好きだった相手が離婚したんだ。あいつだって、泊まっていきたくて仕方ないはずさ。よりを戻すチャンスだしな」
私は唇をかんだ。
みんなが帰ったあとも、私だけがホテルの入り口に立っていた。
昨夜、洗面所の照明が切れ、スマホの明かりを頼りに歩いていたら転んでしまった。
膝には青あざができ、スマホも見るも無残に壊れた。
瑛斗は今夜、新しいスマホを買いに連れていき、そのあと家で照明を直してくれると言っていた。
照明の交換くらい、大したことではない。スマホだって明日買えば済む。
それなのに、酔いが回ってきたせいか、妙に意地を張ってしまった。
スマホが壊れてアプリも使えず、代行もタクシーも呼べない。
私たちは3年間、夫婦として互いに礼を尽くしてきたと思う。
たとえ愛されていなくても、置き去りにはされないはずだった。
けれど夜は更け、冷たい風が身にしみた。
午前5時になっても、彼がその入り口から姿を現すことはなかった。
私は自嘲するように笑った。
結婚した日、瑛斗と約束したことがある。
結婚3周年を迎えた日に、二人とも離婚したいと思っていなければ、そのまま一生一緒にいよう、と。
明日は、3度目の結婚記念日だ。
今までずっと、何事にも気を遣い、慎重に振る舞ってきた。
それでも、私たちの結末はこうなってしまった。
第2話
私はショッピングモールが開くのを待ち、新しいスマホを買った。
帰宅してLINEにログインすると、元学級委員がグループに何枚も集合写真を送っていた。
【瑛斗を見てみろよ。笑いっぱなしじゃないか】
【そりゃそうだろ。行政案件の契約をまとめたばかりで、長年の片思いもようやく実りそうなんだ。仕事も恋愛も順調なら、うれしくないわけがないじゃないか】
【瑛斗、結婚するときは絶対に呼べよ!】
次々と名前を挙げられた瑛斗は、短く返事をした。
【変なこと言わないでくれ】
すぐあとに、依由が頬を赤らめたスタンプを送った。
グループは一気に盛り上がった。
私はそれ以上読まず、ベッドに丸まると、うとうと眠りに落ちた。
眠っている間、いくつもの夢を見た。
高校の入学式の日。
壇上でスピーチをしているのが、幼稚園に上がる前まで隣に住んでいた男の子だと気づいた。
それが、恋の始まりだった。
休み時間のたび、私はこっそり彼の後ろ姿を眺めに行った。
彼に合わせて理系を選び、同じ大学の同じ学科に入ろうと、必死に勉強した。
次に見たのは、大学3年生の頃の夢だった。
クラスで一番きれいな女の子が、私に相談を持ちかけてきた。
瑛斗から熱心にアプローチされていて、どう断ればいいのか分からない、と。
不意に目の前が濃い霧に覆われた。
霧が晴れると、依由が結婚した日の午後になっていた。
瑛斗は私の家の前で待っていた。声には力がなかった。
「梨瑚、祖父の容体が悪化したんだ。最期に、俺が家庭を持つところを見たいって......だからさ、力を貸してくれないか?」
私ははっと目を開けた。
もう午前11時だった。
急いでシャワーを浴び、清潔な服に着替えた。
寝室を出ると、テーブルの上に見慣れない弁当用のバッグが置かれていた。
瑛斗がキッチンから出てきた。自然と口元がほころび、声にも笑みがにじんでいる。
「起きたか。こっちに来て、少し食べなよ。膝の調子は?スマホは買えた?」
写真の中の彼と、まったく同じ顔だった。
依由が離婚したことが、本当にうれしいのだ。
私は、器に盛られた料理に目をやった。
弁当用のバッグの中にも、同じものが入っているのだろう。
彼がいつ帰ってきたのかは知らない。
けれど、依由の昼食を作るために戻ったのだろうとは察しがついた。
ここにあるのは、そのおこぼれのようだった。
胸が詰まり、私は首を横に振った。
「いい。これから取引先の人に会うから」
彼は今思い出したような顔をしたが、笑みは消えなかった。
「契約が決まったら、明日の夜、ついでにそのお祝いもできるな」
――ついでに?
ついさっき、依由がタイムラインに投稿していた。
明日の大学の創立記念行事が終わったあと、特別な集まりがある、と。
3年前、彼女は結婚式のブライズメイドを私に頼んだ。
私が家にこもりがちで友達も少ないから、ついでに何人か男性を紹介してあげると言って。
あのとき、瑛斗はそう遠くない席に座っていた。
けれど、一度も私に目を向けなかった。
今度は彼女が離婚して、また「ついでに」私の契約成立を祝うのだという。
愛しているか、いないか。
その違いは、こんなにもはっきりしているのだ。
結婚してからの瑛斗は、いつもどこか気を張っていて、こんなにくつろいだ様子を見せることはめったになかった。
それが今では、私にまで笑顔で話しかけてくる。
考えてみれば、これも依由のおかげかもしれない。
靴を履き替え、私は何も答えずにカフェへ向かった。
今回の商談には、万全の準備をしてきた。
提案の半分ほどを説明したところで、先方は契約を決めてくれた。
ほっと胸をなで下ろし、バッグから契約書を取り出す。
そのとき、私を呼ぶ声がした。
「梨瑚?偶然だね」
依由が、同級生の女性たちを連れて近づいてきた。
私の手にある契約書を見ると、満面の笑みを浮かべる。
「大手スーパーとの取引?安心して、私から話を通しておいたから、絶対に契約してもらえるよ」
私は呆然とした。
何を言われたのか、すぐには理解できなかった。
これは、何か月も必死に取り組んで、ようやくここまでこぎ着けた案件だ。彼女に何の関係があるというのだろう。
依由は軽く手を振った。
「お礼はいいよ。感謝するなら瑛斗にして。あなたの就職先を世話してほしいって頼まれたから。今回の案件を紹介したのも、彼の頼みだし」
先方は眉をひそめ、不快そうにペンを投げ出した。
「榎並さん、裏から手を回して入社したうえに、私との契約までコネで取りつけるつもりですか?」
第3話
ペンはテーブルの上を何度か転がり、床に落ちた。
依由の後ろにいた同級生たちが、ぷっと吹き出す。
「あれ?まだ知らなかったの?依由のおじさん、桐和の人事部にいるんだよ。あんたを入社させるために、依由はずいぶん骨を折ったんだから」
依由が私の手を軽くたたいた。
「気にしないで。瑛斗も、あなたに何か打ち込めることがあればと思っただけだから」
同級生の一人が、笑いながら口を挟んだ。
「そうそう。仕事があれば、瑛斗に付きまとう暇もなくなるもんね」
私はとっさに手を引いた。
心を無数のアリにかじられているようだった。
株式会社桐和の仕事は、3度の面接と、グループディスカッションを経て、ようやく手に入れたものだ。
あの頃、私たちは大学を卒業したばかりだった。
依由はまだ電撃結婚していなかったし、私もまだ瑛斗と再会していなかった。
自分の実力で勝ち取ったのだと思っていた。
けれど本当は、瑛斗が依由に頼んで、私に与えてくれたものだったのだろうか。
――この片思いは、私だけが知っている秘密のつもりだった。
瑛斗とのやり取りも、年末年始や季節の挨拶を数言交わす程度でしかなかった。
いつ、みんなに知られてしまったのだろう。
いつ、瑛斗を困らせてしまったのだろう。
私から逃れるために、依由に仕事を世話させるほどに。
「榎並さん、私はね、自分では何の力もないくせに、コネに頼ろうとする人間が一番嫌いなんです」
先方は席を立ち、そのまま出ていった。
私は慌ててあとを追おうとした。
「鈴木さん、違うんです......!私が頼んだわけではありません。企画書はすべて自分で作ったもので――」
ところが依由が、体を半分割り込ませるようにして私を遮った。顔には笑みを浮かべている。
「梨瑚、そんなに焦らないで。案件が流れたなら、それでいいじゃない。おじさんに頼んで、これからはもっと楽な部署に異動させてもらうから。安心して」
彼女は、たったひと言ふた言で、私の案件を台無しにした。
そして今度は、苦労して手に入れた仕事まで、ひと言ふた言で奪おうとしている。
胸いっぱいに重い石が詰まったようだった。
私は振り返り、いかにも私を気遣っているようなその顔を見つめた。
「......わざとやってるの?」
依由は目をぱちぱちさせた。
「何のこと?」
これ以上話したくなかった。
企画書を取りに戻り、もう一度鈴木社長に話をしようと思った。
けれど私が背を向けた途端、依由はなぜか二歩ほど後ずさり、そのまま床に倒れ込んだ。
同級生たちが慌てて彼女を助け起こし、振り返って私を責めた。
「ひどいよ!依由は昔のことを水に流して仕事まで世話してくれたのに、突き飛ばすなんて......!」
依由は痛そうに肘を押さえた。
「いいよ、みんな。彼女を責めないであげて......」
まったく意味が分からなかった。
大学時代、私と依由にはほとんど接点がなかった。
どんな行事でも主役は彼女で、私は隅にいる目立たない一人にすぎなかった。
いったい何を水に流したというのだろう。
問いただそうとしたとき、カフェの外に、こちらへ足早に向かってくる瑛斗の姿が見えた。
彼はまず私を見つめ、それから依由へ視線を移した。
眉間に深いしわが刻まれる。
胸がずしりと沈んだ。
彼も、私が依由を突き飛ばしたと思っているのだろうか。
私が黙っていると、同級生の一人が憤然と言い放った。
「何もしてないみたいな顔しないでよ。依由から全部聞いたんだから!あの結婚式で大西さんが彼女を奪いに来たとき、邪魔して断らせたのはあんたでしょ!」
「あんたさえいなければ、依由と大西さんが丸3年も遠回りすることなんてなかったのに!」
ドアが開いた。
入り口に立つ瑛斗は、驚いた表情を浮かべていた。
彼は私を見つめ、唇を動かした。
「梨瑚......」
第4話
私は彼を押しのけ、店を飛び出した。
家に戻ると、弁当用のバッグはまだテーブルの上にあった。
側面には、付箋が一枚貼られていた。
【これからは酒を控えるように。胃に悪いから。――瑛斗】
明らかに、依由に宛てたものだった。
帰り道、ずっとこらえていた涙が、とうとう頬を伝い落ちた。
私はその場にしゃがみ込み、声を押し殺して泣いた。
依由の結婚式の日、瑛斗は突然、花嫁の控室に入ってきた。
二人はドアを閉めて10分ほど話し、そのあと瑛斗はうつむいて出ていった。
控室のテーブルには、ネギを取り除いた肉うどんが一杯残され、依由は複雑な表情を浮かべていた。
彼女は私だけを呼び寄せて尋ねた。
「梨瑚、瑛斗に一緒に来てほしいって言われたの。私、どうしたらいいの......?」
一瞬で、全身がこわばった。
去っていく瑛斗の手に、確かに指輪があったことを思い出した。
彼は大学の4年間、ずっと彼女を追いかけていた。
彼女が電撃結婚することになっても、まだ諦められなかったのだ。
私は涙を見られないように、慌ててうつむき、ひと言だけ答えた。
「......あなたの人生に関わることだから、よく考えて決めたほうがいいと思う」
自分で決めてほしいという意味だった。
それなのに彼女の口から語られると、私が二人の幸せを邪魔したことになっていた。
瑛斗も、そう思っているのだろうか。
だから私たちの結婚には、式も指輪もなかった。
だから婚姻届を出した翌日、彼はあの指輪を見つめて泣いていた。
この3年間、彼はずっと気を張り、私と他人行儀に接してきた。
冷たい言葉を浴びせることはない。
けれど、私を愛してもいない。
それが、彼から私への罰なのだ。
スマホが何度か鳴った。
依由からメッセージが届いていた。
【梨瑚、明日の夜、瑛斗が私のために集まりを開いてくれるんだって。サプライズを用意してるらしいの。あなたも来てくれる?
そこで私たち二人にきちんと謝ってくれたら、結婚式の一件は水に流すから。これからも、みんな友達でいようね】
明日の夜、彼はもう一度プロポーズするのだ。
それなら、私も去るべきだろう。
涙を拭いて立ち上がると、玄関で暗証番号を入力する音が聞こえた。
瑛斗が息を切らしながら入ってきた。
「どうして急に帰ったんだ......梨瑚、泣いてたのか?」
私は彼に背を向けたまま、テーブルの角に指をつき、何も言わなかった。
彼は少しためらってから口を開いた。
「契約が決まらなかったって聞いたが......あまり気にするな。明日が過ぎたら、別の案件を探してやるから」
私の仕事も案件も、本当に彼の口添えがあったのだ。
悲しいことに、私は自分の努力で、わずか3年の間に3度も昇進し、一人で案件を担当する機会をつかんだのだと思っていた。
結婚3周年を迎え、初めて一人で担当した案件の契約を取れれば、彼に釣り合う自分になれる。
堂々と気持ちを打ち明け、一生を共にできる。
――そう思っていた。
結局、自分をだましていただけだったのだ。
「もういい」
私はドアを開けて寝室に入った。
瑛斗が少し焦ったように、背後から尋ねた。
「もう休むのか?」
「うん」
彼は私のほうへ数歩近づき、また足を止めた。
「分かった。じゃあ、明日の夜に話そう。
そうだ。明日は大学の創立記念行事だけど、俺は朝から少し用事があるから、タクシーで――」
私は彼の言葉を遮った。
「私のことは気にしないで。瑛斗は自分の用事を優先して」
ドアを閉める前に少し考え、心から言った。
「......明日、何もかもうまくいくといいね」
彼は一瞬きょとんとしたあと、柔らかく笑った。
「そう言ってもらえたら、きっとうまくいくよ」
――瑛斗。
私が邪魔してしまった幸せを、あなたに返すね。
――
3度目の結婚記念日。
瑛斗はまだ夜も明けないうちに慌ただしく家を出て、用事を済ませると、今度は急いで大学へ向かった。
今夜、改めてプロポーズすることを考えるだけで、緊張で喉がカラカラに乾いていた。
梨瑚はもう気づいているかもしれない。
それでも、彼女を驚かせたかった。
「瑛斗!こっち!」
同級生が手を振っている。
彼も笑顔で手を振り返し、大股で歩み寄った。
けれど、近づいて顔ぶれを見回しても、梨瑚の姿がなかった。
「依由、早く行きなよ。大西さんが捜してるよ!」
頬を赤らめた依由が、みんなに押されて彼の前に出てきた。
瑛斗は反射的に身をかわした。
「梨瑚はまだ来てないのか?」
はやし立てていた声が、ぴたりとやんだ。
理由の分からない苛立ちが胸に湧き、彼は梨瑚に電話をかけようとした。
発信する直前、メール通知が届いた。
【榎並梨瑚様の代理人弁護士です。大西様との離婚協議に関しまして、ご連絡申し上げます。お二人の離婚に関する一切の手続きは、私が担当いたします】
その瞬間、瑛斗は息をのんだ。