あなたの奥様を本日限りで辞めます

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結婚7年目、私・石田佳穂(いしだ かほ)の夫、松井直哉(まつい なおや)から『松井家の嫁の引き継ぎリスト』を渡された。 初恋の相手、岡崎沙耶(おかざき さや)が帰国したばかりで、松井家のしきたりがわからない。だから、1か月かけて教えてやれという。 1か月後、私たちは離婚する。そして彼女が、私に代わって妻になる。 リストの項目は全部で47。 直哉の胃薬の保管場所から、おばあちゃんの毎月の定期検査、松井家の付き合いまで。すべて、私が7年間こなしてきたことだった。 「離婚するのに、どうして私が教えなくちゃいけないの?」 そう尋ねると、直哉は眉をひそめた。 「沙耶は身体が弱い。無理はさせられないだろ。お前は何でもできるんだから、もう一度くらい助けてやれよ」 やがて沙耶は私たちの家に住み始め、私のために仕立てたドレスを着て、食事会では私の席まで奪った。 わざと直哉のアレルギーの薬を別の場所に移しておきながら、彼が発作を起こすと、私の説明が足りなかったのだと泣いた。 直哉は家族全員の前で、沙耶に謝るよう私に命じた。 私は何も弁解せず、リストの最後に一文だけ書き加えた。 【直哉には重いピーナッツアレルギーがある。緊急時の薬は書斎の2段目の引き出し】 引き継ぎ期間が終わった日、リストと署名済みの離婚協議書をテーブルに置き、私は一人で家を出た。 けれど彼は知らなかった。 7年前、どん底にいた彼を支えたのは、沙耶ではなかったのだ。

Chapters (1)

第1章

結婚7年目、私・石田佳穂(いしだ かほ)の夫、松井直哉(まつい なおや)から『松井家の嫁の引き継ぎリスト』を渡された。 初恋の相手、岡崎沙耶(おかざき さや)が帰国したばかりで、松井家のしきたりがわからない。だから、1か月かけて教えてやれという。 1か月後、私たちは離婚する。そして彼女が、私に代わって妻になる。 リストの項目は全部で47。 直哉の胃薬の保管場所から、おばあちゃんの毎月の定期検査、松井家の付き合いまで。すべて、私が7年間こなしてきたことだった。 「離婚するのに、どうして私が教えなくちゃいけないの?」 そう尋ねると、直哉は眉をひそめた。 「沙耶は身体が弱い。無理はさせられないだろ。お前は何でもできるんだから、もう一度くらい助けてやれよ」 やがて沙耶は私たちの家に住み始め、私のために仕立てたドレスを着て、食事会では私の席まで奪った。 わざと直哉のアレルギーの薬を別の場所に移しておきながら、彼が発作を起こすと、私の説明が足りなかったのだと泣いた。 直哉は家族全員の前で、沙耶に謝るよう私に命じた。 私は何も弁解せず、リストの最後に一文だけ書き加えた。 【直哉には重いピーナッツアレルギーがある。緊急時の薬は書斎の2段目の引き出し】 引き継ぎ期間が終わった日、リストと署名済みの離婚協議書をテーブルに置き、私は一人で家を出た。 けれど彼は知らなかった。 7年前、どん底にいた彼を支えたのは、沙耶ではなかったのだ。 第1話 結婚7年目、夫の直哉から【松井家の嫁の引き継ぎリスト】を渡された。 初恋の相手、沙耶が帰国したばかりで、松井家のしきたりがわからない。だから、1か月かけて教えてやれという。 1か月後、私たちは離婚する。そして彼女が、私に代わって妻になる。 リストの項目は全部で47。 直哉の胃薬の保管場所から、おばあちゃんの毎月の定期検査、松井家の付き合いまで。すべて、私が7年間こなしてきたことだった。 最後のページを開いて、顔を上げた。 「どうして1か月なの?」 「午後、離婚届をもらいに行こう。提出は1か月後だ。その頃には、ばあちゃんの手術も終わってる」 直哉の祖母、松井文枝(まつい ふみえ)は、来月、白内障の手術を受ける予定だった。 結婚して7年。松井家で私を本当の家族として扱ってくれたのは、おばあちゃんだけだ。 「おばあちゃんにショックを与えたくないから、その間に沙耶に全部教えろってこと?」 直哉は書斎の机にもたれ、淡々と言った。 「沙耶は身体が弱い。無理はさせられないだろ。お前は何でもできるんだから、もう一度だけ助けてやれ」 私は長いこと彼を見つめた。 「じゃあ、私は?」 「何が?」 「……何でもない」 7年前、松井家は資金繰りに行き詰まり、時を同じくして直哉の父が病死した。 沙耶は松井家を取り巻く重圧に耐えられず、海外へ行ってしまった。 私は松井家に嫁ぎ、直哉といちばん苦しかった2年間を乗り越えた。 今、松井家は持ち直し、沙耶も帰ってきた。 彼女には不整脈の持病がある。この7年、海外でつらい思いをしてきた彼女を、もう見捨てるわけにはいかない。 直哉はそう言った。 私には、ただこう告げただけだった。 「佳穂、お前は沙耶とは違う。俺がいなくても、ちゃんとやっていけるだろ」 直哉はリストの脇に、キャッシュカードと離婚協議書を置いた。 「1億円と、街の南側にある家。どちらもお前に渡す」 カードには目もくれず、協議書を開いた。 財産の取り分は明確で、私に不利な条件を押しつけるようなことは書かれていない。 私を引き留める気持ちも、少しもなかった。 ペンを取り、1億円と南側の家に関する条項を線で消した。結婚前からの財産と、この7年で自分が得た収入だけを残し、最後のページに署名した。 あまりにあっさり署名したのが、直哉には意外だったらしい。 「どうして消した?」 「お金を払って、後ろめたさを消そうとしなくていいわ」 協議書を引き出しにしまい、引き継ぎリストだけを手元に残した。 「1か月後、届けを出しに行こう」 「ああ」 午後、二人で区役所に行き、離婚届の用紙を受け取った。 窓口で必要な書類について説明を受けたあと、提出は1か月後にすると、二人で改めて確認した。 直哉は「ああ」とうなずいた。とっくに決まっている会議の予定でも確認するように。 帰宅すると、彼は部屋の入口まで行ってから振り返った。 「沙耶は明日からここに住む。ゲストルームは日当たりがいいから、使用人に片づけておくよう伝えてくれ」 リストを握る手が止まった。 この1か月、私に求められているのは、彼女に教えることだけではなかったのだ。 彼女に何もかも奪われていくのを、ただ黙って見ているしかなかった。 第2話 翌日の午後、沙耶はスーツケースを2個転がしてやってきた。 空港まで迎えに行ったのは、直哉だった。 玄関に入ってきた彼は、片手で荷物を押し、もう片方の手をそっと彼女の肩に添えていた。 結婚して7年。直哉がこんなにも細やかに人を気遣えるのだと、初めて知った。 白いロングワンピースを着た沙耶は、少し顔色が悪かった。 「佳穂、久しぶり」 「ゲストルームは2階の左側よ」 彼女は動かず、直哉を見た。 「荷物が多いから、ゲストルームのクローゼットじゃ入りきらないかも」 直哉がこちらを向く。 「寝室の隣のウォークインクローゼット、半分空けられないか?」 そこには、私の物が入っている。 「いいわ」 「ありがとう。助かる」 沙耶は笑った。 最初の引き継ぎは、松井家の食事会だった。 手術の前に昔からの友人たちに会いたいというおばあちゃんの希望で、3日後に開かれることになっていた。 テーブルコーディネートから席順、招待客の食べられない物まで、これまではすべて私が取り仕切ってきた。 まとめた表を沙耶に送ると、彼女はざっと目を通し、尋ねた。 「ただ食事をするだけなのに、こんなに細かく書く必要ある?」 「中村のおじさまは糖分を摂れないし、佐野夫人は魚介類のアレルギーがあるの。おばあちゃんは薬が変わったばかりだから、お酒は飲めない」 「わかった」 沙耶は無造作にスマホを脇に置いた。 食事会の当日、スタイリストがドレスを2着届けに来た。 ネイビーと、シャンパンカラーのものだった。 沙耶はシャンパンカラーのドレスを手に取り、身体に当てた。 「直哉が、これが似合うって」 私はドレスに目をやった。 先月、直哉が私のサイズに合わせて、デザイナーに仕立てさせたものだ。 私より痩せている沙耶には、ドレスのウエストが大きすぎた。 部屋に入ってきた直哉が、彼女の前にジュエリーの箱を置く。 「佳穂に直してもらえばいい。デザイナーとも顔見知りだ」 沙耶はドレスの脇を撫でた。 「今から送り返しても間に合わないわ。佳穂、少しだけ詰めることってできる?」 ドレスを受け取り、脇の内側の縫い目をほどいた。 内側から、名前の入った布のタグが現れた。 佳穂。 沙耶の笑顔が、一瞬こわばった。 直哉が眉をひそめる。 「デザイナーが間違えたんだな」 「間違えてないわ」 私はタグを切り取り、テーブルに置いた。 「これで彼女が着られるわね」 直哉が私を見る。 「よりによって今日、みんなを気まずくさせる必要があるか?」 「服を直しているだけよ」 「たかがドレス1着だろ」 「わかってる」 手直ししたドレスを沙耶に渡した。 「だから、あげたの」 食事会が始まる前、私はいつもどおり直哉の右隣に座った。 沙耶はテーブルのそばに立ったままで、席がなかった。 直哉は席の配置を見回し、使用人に椅子を足すよう言いつけた。 だが、おばあちゃんがテーブルを軽く叩いた。 「岡崎さんはせっかく来てくださったお客様なんだから、ゆっくりくつろいでいただかないと」 沙耶は頬をほんのり赤らめた。 「おばあさま、私、もうすぐ客ではなくなります」 テーブルを囲む全員が、静まり返った。 おばあちゃんが直哉を見る。 「どういうこと?」 「ばあちゃん、今は食事にしよう。手術が終わったら説明する」 それ以上は問い詰めず、おばあちゃんは私の手を握った。 その手はひどく冷たかった。 「佳穂、痩せたんじゃない?」 私は笑って、料理を取り分けた。 「最近、少し忙しくて」 その食事会で、沙耶は招待客二人が食べられないものを取り違えた。 すぐに厨房で別の料理に替えてもらったので、何事もなく済んだ。 それなのに、客が帰ったあとで直哉は言った。 「沙耶は初めてなんだ。あまりプレッシャーをかけるな」 「私、何か言った?」 「何も言わないから、余計に緊張するんだろ」 私はうなずき、リストの最初の項目のあとに一文を書き足した。 【食事会で問題が起きたときは、まず対処する。説明はしない】 それを見た沙耶が笑った。 「やっぱり佳穂は、直哉の奥さんにぴったりね」 私はリストを閉じた。 「あと27日。すぐにあなたの番になるわ」 第3話 直哉は、起業して間もない2年間に胃を悪くした。 薬は2種類ある。 白い薬は食前に、青い薬は痛みが出たときに飲む。 薬の箱を出しておくと見苦しいと言うので、普段使う分は書斎の2段目の引き出しに入れ、車とオフィスにもそれぞれ予備を置いていた。 引き継ぎ3日目、薬の保管場所を写真に撮って沙耶に送った。 【わかった】 返事はそれだけだった。 その夜、パーティーから帰った直哉が胃の痛みを訴えた。 書斎で何かを探す音がして、入口まで行くと、沙耶が戸棚の前にしゃがみ込んでいた。 「薬、どこにあるの?」 「2段目の引き出し」 「入ってないの」 引き出しを開けると、薬を置いていた場所には敷物だけが残っていた。 直哉はソファにもたれ、額には冷や汗がびっしり浮かんでいた。 バッグから予備の薬を出し、水を用意して飲ませた。 薬を飲んで10数分たち、痛みが落ち着いてから、彼はようやく口を開いた。 「どうして元の場所に戻しておかなかった?」 私は沙耶を見た。 沙耶は両手を握り合わせ、目を赤くしていた。 「午後、書斎を片づけたの。あそこに置いていたら薬が湿気ると思って、1階の薬棚に移したの。佳穂からは引き出しに入ってるって聞いただけで、いつ具合が悪くなるかわからないなんて、教わってないから」 スマホを開き、彼女に送った引き継ぎのメッセージを表示した。 最初の行に、こう書いてある。 【直哉は飲酒後や空腹時に、急な胃痛を起こしやすい。青い薬を常に持ち歩くこと】 沙耶はちらりと見て、さらに声を落とした。 「見落としたのかも」 直哉はその文面を見ようともしなかった。 顔を上げ、私に言った。 「沙耶は昨夜、動悸がして病院に行ったばかりなんだ。そんなきつい言い方をしなくてもいいだろ」 「送ったメッセージを見せただけよ」 「こういうことを覚えるのが苦手だって、わかってるだろ。直接言ってやればいい」 「直哉」 「何だ?」 「胃が悪いのはあなたでしょう。自分の薬の場所くらい、自分で覚えられないの?」 彼は一瞬、言葉を失った。 ちょうどそのとき、沙耶の涙がこぼれた。 「全部、私が悪いの。家の中を、少しでもきれいにしたかっただけなのに」 直哉はティッシュを1枚取り、彼女に渡した。 「沙耶のせいじゃない」 そして私に向き直った。 「佳穂、沙耶に謝れ」 聞き間違えたのかと思った。 「どうして?」 「帰ってきたばかりで、不安なんだ。俺の前でメッセージまで持ち出して責めることはないだろ」 7年間、世話をしてきた男を見つめた。 ふと、新婚の頃のことを思い出した。 出張先で直哉が胃から出血した。午前2時、私はいちばん早い便で駆けつけ、病院で2日間付き添った。 目を覚ました彼が私に聞いたのは、会社の資料は届いたか、ということだった。 届いていると答えると、それきり、どうして私がそこにいるのかさえ尋ねなかった。 私は目をそらした。 「ごめんなさい、沙耶」 沙耶は涙に濡れた目を上げた。 「気にしないで。あなたもつらいんだものね」 部屋に戻り、リストの2番目の項目に書き加えた。 【薬の保管場所は引き継げる。ただし、大人なら自分の身体には自分で責任を持つこと】 その夜、私は初めて、予備の薬を持ち歩くのをやめた。 薬は、直哉のベッドの枕元に置いた。 これからは、彼が痛い思いをしても、私には関係ない。 おばあちゃんの手術は、1週間後に予定されていた。 白内障で、今回は先に左目の手術を受ける。 術前検査、入院手続き、医師との打ち合わせは、ずっと私が担当していた。 早めに診療記録と服薬一覧をまとめ、沙耶に渡そうとした。 彼女は受け取らなかった。 「病院に入るだけで緊張して、手が震えるの」 直哉が代わりに受け取った。 「手術の日は、ばあちゃんの話し相手になってくれればいい。手続きは佳穂に任せよう」 「でも、それも引き継ぎの項目に入ってるわ」 「今回くらい、いいだろ」 私は言い返さなかった。 手術当日、直哉には急な会議が入り、沙耶も昨夜動悸がしたと言って来なかった。 私一人で、おばあちゃんの手術に付き添った。 麻酔から覚めたおばあちゃんが、真っ先に尋ねた。 「直哉は?」 「会社で用事があって、あとで来るって」 「沙耶は?」 少しためらってから、答えた。 「身体の調子がよくないみたい」 おばあちゃんは目を閉じたまま、小さく笑った。 「7年前も具合が悪い。7年たった今も、また具合が悪いのね」 「おばあちゃん」 「佳穂、もうあの二人をかばわなくていい」 手探りで、私の手を握った。 「直哉と、うまくいってないの?」 私は答えなかった。 握られた手に、さらに力がこもる。 「あの食事会で、沙耶がもうすぐ客ではなくなると言ったでしょう。どういうつもりなの?」 病室は静かだった。 手術を終えたばかりのおばあちゃんに嘘をつきたくはない。かといって、そのまま打ち明ける勇気もなかった。 「目がよくなったら、話すから」 「やっぱり、そうなのね」 おばあちゃんはゆっくり手を緩めた。 「直哉は、あなたと離婚するつもりなのね」 「二人で決めたことだから」 私は小声で答えた。 「あなたが決めたって、何を?あの子たちのために身を引くこと?」 布団の端を整えた。 「もう待たないって決めたの。おばあちゃん、私、もう出ていかなくちゃ」